百五十六話 笠司、立秋(二)

 金曜日は代休を取った。忙しくないときにこうして休んでおかないと、現場が立て込んで土日昼夜ひるよる関係なく出勤ないといけなくなったとき、高い確率で身体からだを壊す。

 目覚ましを切って、納得いくまで寝てやろうと目論んでいたのだが、あまりの暑さに耐えかねて九時前に目が覚めてしまった。つけっぱなしの扇風機が蒸した部屋の空気をかき混ぜている。杜陸もりおかの夏も暑かったが、南関東こっちの方が湿気が多いぶん余計にこたえる。

 やっぱエアコンは欲しいよな。


 ジョギングは夜に回すことにした。早朝と違い、九時台にもなると大気はすでに熱気を帯びてる。熱中症も気になるが、なによりも汗がヤバい。平日なら会社がゴールだからシャワーを使えるけど、それだけのためにわざわざ休日出社なんてしたくない。

 エアコンだけじゃなくて、シャワーも欲しいよ。

 戸越温泉が金曜定休なのは学習済みだから、ジョギングのコースを大井町のおふろの王様ゴールにすればいい。距離的にはいつもよりちょっとありそうだけど、帰り道を涼みながらちんたら歩けば問題はない。


 時間と気持ちに余裕のできた僕は再びベッドに身体を投げ出した。スマホを掴み、気になっていた映画の上映スケジュールをチェック。お目当ては、ハヤトから今日封切りと聞かされていたユーフォの新作『アンサンブルコンテスト』だ。

 日葵ひまりと三人で観に行こうというハヤトの誘いを、僕は丁重にお断りした。冗談じゃない。やつの人生の分かれ道フラグをへし折る役目なんて御免だ。だいたい八月中に告白するって宣言してる奴が、数少ない絶好のチャンスを自ら無駄にしようってんだから、お話にならない。おまえやる気あんのかって、小一時間説教してやりたい気分になる。

 そもそも僕は、観たい映画はひとりで行く方が好きなのだ。それにあいつらの仕事終わりに合わせてたらどうせ飲みに行くことになるから、夜のジョギングとそのあとの風呂が間違いなくパーになる。

 そんなことを考えながらシアター情報を眺めてたら、チネチッタ川崎の上映予定でよさげなのがみつかった。十四時二十分開始。いいじゃん。家でゆっくり朝メシ食べる時間もあるし、なんなら少し早めに行って川崎の街を散歩してもいい。

 迷うことなく、ひとり分の座席予約をポチっと。

 

          *


 夕暮れにはまだ早い夏空の下、僕はひとり、チッタ前の石畳を駅に向かって歩く。

 映画はよかった。とても。事件前と変わらない高いクオリティ。ヴァイオレットエヴァーガーデンVEGの劇場版で実証済みではあったけど、あれはある意味仕掛りモノだった。それに比べ、今回の作品はゼロからの新体制でつくられたはず。それなのに、四年前の春に公開された前作と完全に地続きだったのは本当に凄いことだ。

 あの大惨事を思い起こすと、今でも胸が震える。人類は伝えるべき大切な遺伝子を失ってしまった。大袈裟ではなく、あのときは本当にそう思った。でもそれは杞憂だった。ミームはちゃんと受け継がれ、しっかりと育っている。


 不幸にして逝ってしまったみなさん、筆を折らざるを得なくなったみなさん。あなたたちの志と匠は、ちゃんと後進に引き継がれています。


 今回の作品はおそらく繋ぎだ。次に来る、彼女たちの三年間の集大成に向けての。そのとき僕らはきっと、復活した京都アニメーションの新しい貌をはっきりと見ることができるのだろう。



 風呂上がりで夜道をゆくあいだもずっと映画の余韻に浸っていた。

 部屋に帰り着くなり、当然のようにボックスを開いて円盤を取り出す。先週ハヤトから返してもらったユーフォのブルーレイ。迷わず選んだ『誓いのフィナーレ』をデッキにセットして、僕は部屋の灯りを落とした。



 軽快な合奏で締めくくられたエンドロールのあと、画面には人気ひとけのない北宇治高校が現れる。ユーフォニアムソロだけが流れる早朝の校舎を、ひとり練習室に向かって歩く久石かなで。今日の映画に繋がる、黄前おうまえ部長誕生のシーンだ。

 白抜き文字の英字タイトルだけが残る真っ黒の画面で止めて、このときと現在いまの間に横たわる四年間の空白にしばし想いを馳せる。

 と、卓袱台の上で白い光が点灯し、追っかけるように着信音が鳴り出した。

 手を伸ばして拾ったスマホの画面にはハヤトの名前。通話を押して耳に当てる。


「や、やり、ぃやりま、した! こ、こ、こくっ、こく」


 破裂したような吃音がうるさくて、なにを言ってるのかさっぱりわからん。


「落ち着け! まず深呼吸しろ」


 がふぅ、と耳障りな深呼吸らしき音。さらに五秒ほどの沈黙を経て、ようやくひとの発声となったハヤトの短い台詞が耳に飛び込んできた。


「告白、しました!」


 こくはく? 告白だと!? 誰に、などと聞き返す必要などない。


「マジで」


「はい!」


 返事の勢いからして、少なくともけんもほろろというのではなかったのだろう。明るい未来が確定したのか、それとも希望が一歩進んだだけなのか、それはまだ聞けてない。けど最悪ではないというのはわかった。なに、詳細などまた落ち着いたときにでもゆっくり聞かせてもらえばいい。

 正直なところ、僕はハヤトを侮っていた。先週の飲みのときの様子からも、このチキンが自分から告白するベータ世界線など何度やり直しても辿り着くことはないだろうと決めつけていたのだ。いやいやどうして。こいつは、やるときはやる男だった。

 ごめん、と口にしそうになった言葉を無理やり喉の奥に押し戻し、僕はひとことこう告げた。


「よくやった」

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