百七十五話 瑞稀、白露(一)
八月二十八日月曜日。
十日ぶりの出社です。席が無くなってるんじゃないかって心配したけど、ちゃんとデスクはそのままありました。よかったぁ。ひと安心。
先々週まで何やってたか、休みの間にどんなふうに仕事が動いてたのかって確かめるため、今日はいつもより三十分早く会社に来ました。たった三十分の早出だけど、普段ならすでにいるはずの総務の部課長や灰田さんはまだ来てない。こんなふうに誰も居ない総務部の部屋って、もしかしたらはじめてかも。
ホワイトボードに目をやると、今日の灰田さんは十時から定例会議で午後は外出。うん。朝は普通に出社されるんですね。お土産の石垣の塩ラングドシャはデスクに置いても大丈夫でしょう。総務部のみなさんの分は小袋がたくさん入った塩ナッツを買ってきたから、涌井さんか誰かが出てきたときに渡して、部内で分けるの頼んじゃえばいい。彼女たち三人用の石垣塩ロイズも、ちゃんと忘れず持ってきてる。
PCを立ち上げると立て続けの着信音が鳴りだしたので、あわてて受信画面を開きます。大量の営業メールに混じって何通かの連絡メールがリストに追加されてくる。今治タオルさん、Tシャツ工房さん、ヴィルトシュテルン星野さん、インタビューを公開した社員さんたち、水晶ちゃん、灰田さん、エムディスプレイの皆川さん。
旅の最初の羽田空港で偶然会った皆川さんのことが、不意に脳裏をよぎります。
ZOOMの印象と変わらず、圧を感じさせない語り口。押しつけがましくはないけれど、黙りこくるのとは違う。私が乗ってこられそうな話題を探したり聞いた話を膨らませてくれる好ましさとともに思い出すのは、最後に突然現れた女の子の不躾な台詞。
「もしかして、リュウジくんの新しい彼女さん?」
そりゃそうですよね。
あれだけ如才なく会話できるくらいだから、彼女のひとりやふたり、当然いますよね。まあ、あの感じだからふたりはいないと思うけど。
はあ。
思わず溜息をついちゃいました。
皆川さんもそうだけど、星野さんにしても灰田さんにしても、ちゃんと社会人してる男性たちはそれぞれに奥さんや彼女や好きな誰かみたいなかけがえのないひとがいて、癒やされたり努力してたりするんですね。
でもどうやったらそんなふうにできるんでしょう。
私たちオンナとほぼ同数いるオトコのひと。実際に出会うことができるのは、極々一部だけど、たいていのひとたちはその中から特定の誰かを見つけてアプローチして、もしくは受けて、より親密な一対一の
いけないいけない。お仕事しなきゃ。まずはタオルの発注状況から。
*
天気が良かったから、お昼は公園でおひとりさまのコンビニおにぎり。陽射しは断然島の方が強かったはずなのに、なぜか
おにぎり二個を食べ終えて、ペットボトルのお茶を片手にぼーっとする時間。私は島での出来事に思いを馳せます。
波照間島での一週間、ホントになんにもしなかったなぁ。板間に座布団並べて昼寝したり、砂浜に足を投げ出してパパイヤ食べたりオリオンビール飲んだり。考えごとするには熱帯の気候がゆるすぎて。収まる先の無い自分のことも、栄さんと灰田さんのことも、なんなら連載してる小説のこともぜーんぶ忘れて、ただただのんびりしてた。島の伝承や戦争時代のことも聞いたし憶えてもいるけど、身になったっていう感じはあんまりしない。とにかくゆるゆるの一週間。
「ムシャーマって明日からだっけ」
緩やかな時間が流れるあの島での仮装祭りはいったいどんなものなのかな。トキ祖母ちゃんは、来年こそは一緒に観にいこうって誘ってくれたけど。
そう言えば、おばぁが言ってた言葉の中でひとつだけ気になってることがあります。午後の縁側で真っ直ぐに語りかけられた、予言めいたひとこと。
「来年ここに来るとき、ミズキの隣には若い男のひとが寄り添そっているよ」
ほかの誰でもない島一番のユタが私の目を見て告げた言葉なだけに、説得力だけは充分にあります。でもいまの私には、そんな予感なんてちっともない。
溜息をついた途端、私の中にひとつの記憶があらわれました。ゆかりんと呼ばれた女の子の言葉を真っ向から否定して私に向き合おうとしていた皆川さんの真顔。
あれはなんだったんだろう。取引相手に露見した素行を取り繕うための演技? ううん、たぶん違う。誤解されたままで終わらせたくない。そんな必死さがあった、ような気がする。でもなんのために?
十日も前の、しかも記憶も定かでは無い一瞬のできごとから、私はなにを読み取ろうとしているのでしょう。そもそもそんなどうでもいいことを、どうしていま思い出したりするのかな。
目の前をどこかのOLが小走りに通り過ぎました。反射的にスマホを見ると、もう十二時五十分。会社に戻らなくちゃ。休み明けなうえに月末だから、雑務はいっぱい残ってる。おまけに、来週は東京出張が控えてるし。
*
社会復帰二日目。
昨日も感じたけど、灰田さんに覇気が無い。まだ感覚が戻ってない所為かもしれないけれど、なんとなく違和感があるのです。
昭和通りの雑居ビルのお店で灰田さんの打ち明け話を聞いたのはお盆前の週のはじめだったから、もうかれこれ三週間。後半の十日間は島に行っていたからしょうがないとしても、よく考えたらその前も雑談めいたことはまったく無かったかも。私の手に余る重たい話だったから会社で顔を合わすのもなんだか気不味くて、ついつい避けがちになってました。
私の方は旅行というインターバルがあったので平常に戻れたつもりですが、灰田さんは殻に籠もったままみたいに感じられます。島の土産話を尋ねてきたりもしないし。
なんか空気が重くて嫌だな。
そんなふうに思いながら入力作業をしていたら、メールの着信音が鳴りました。ウィンドウをメーラーに切り替えると新着は皆川さんから。ポチっと開きます。
「?!」
私の反応に気づいてか、灰田さんが声を掛けてきました。
「どうかした?」
「いえ、エムディスプレイの皆川さんからのメールなんですが、なんか意味不明の指示が入ってて・・・・・・」
「なんて?」
背中を向けたディスプレイと資料の山の間から目が合った灰田さん。見た感じは変わりないようです。
「『ビッグサイトに来る際は、まだ親しくないけど重要になるかもしれない人と会う感じの、あまり派手ではない外出着でお願いします』って」
要領を得ないまま読み上げる私に灰田さんの声が届きます。
「例の撮影をやるんだね、田中すみれさんの。未来の旦那さんと初対面の記念写真でも撮るつもりなのかな」
三週間ぶりの聞く笑い声で、重たかったオフィスの空気が入れ替わった。そんな気がしました。
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