酸の苦み

紫水 翠

酸の苦み

 舌の付け根から苦みがこみ上げてきた。と同時に頬がすぼまるような酸味を覚える。我慢できるか、できないか。とっさの判断を迫られる。


 ダメだ、これは我慢していいヤツじゃない。


 諦めという決意をして便所へ駆け込んだ。


 便座に両手をついて何度も嘔吐くが肝心のものは出てこない。にがずっぱさは収まらない。やむを得ず人差し指と中指を喉の奥へと差し込んだ。舌の奥の方、妙に舌の突起が大きくなる辺りを指で押すようにして刺激すると、まるでそれがスイッチであるかのように胃袋が痙攣し始めた。


 我ながらアホなことをしていると思った。なにもわざわざ吐かなくてもいいじゃないか。なにもわざわざこんなことで吐かなくてもいいじゃないか。たぶん俺の目は充血して涙目になっていることだろう。目の周りの皮膚も鬱血してしまってサングラスを掛ける羽目になるだろう。


 出すものがそんなにあるわけじゃない。薄茶色いどろどろしたものと白い泡と黄色っぽいツバを吐いて、「大」のレバーを回した。回してから、あ、小便もすればよかった、なんて冷静に後悔していた。


 部屋に戻るとソファの上でスマホがうなだれていた。

 今日はもうなにも見ない方がいい。そう思って財布と鍵だけひっつかんで外に出た。


 「リュウくん、どうしたの?だいじょうぶ?」


 どこへ行くともなく街を歩いているとアユミが声を掛けてきた。


 「なんでもねえよ。あっち行ってろ。」


 「でもつらそうだよ?」


 「うるせえって。」


 ハエを追うようにアユミを追っ払ってずんずん歩く。胃袋はまだひっくり返っているみたいにむかむかした。思っていたより日が高い。ローソンを尻目に見てファミマを越した。

 見なきゃいいんだあんな記事は。見なけりゃなかったことになるじゃないか。自分で自分に言い聞かせた。見なかったことにしよう。

 しかし通り過ぎていく景色よりも圧倒的な存在感でさっきの記事がフラッシュバックする。

「二次審査を通過いたしました!制作がんばります!」

 

 でかい交差点を渡ってから橋にさしかかった。川面にぎらぎらと太陽が反射していて一瞬たちくらんだ。

 どこまで行くんだ俺は。

 気がつけば最寄りの地下鉄出口もとうに通り越していた。川から向こうにはあまり行ったことがない。


 「ねえリュウくん、どこに行くのってば。」


 突然アユミの声がした。


 「なんだよお前まだついてきてたのかよ。」


 「どんだけ歩くの?暑くなってきてしんどいよ。なんか飲み物買おうよ。」


 「ほんとうるせえな。」


 見渡したが、橋の上なので周りには当然なにもない。渡った先にローソンらしき看板がちらりと見えた。


 「じゃあ、あそこまでな。」


 「やったー。」


 橋を渡りきるとそこはもう知らない街だった。たしか市が変わるんじゃなかったか。必要な移動はいつも地下鉄でしていたから、自宅から距離は近いはずだがまったく馴染みがない。あまり高くない商業ビルを数軒通り過ぎ、同じようなビルの1階にあるローソンに入った。


 「アユミねー、コーラがいいな。喉渇いてるからダカラとかポカリでもいいな。」


 陳列棚を見ながら物色するアユミの声は無視して、大きいボトルのブラックコーヒーを買った。


「あー、ひどーい。」


「うるせえ。」


 店を出てコーヒーをあおると妙な酸味がした。

 腐ってんのかと思ってラベルを見たがよくわからない。飲み込みながら感じた。さっき吐いたせいだ。


 「うえ。」


 もう一口多めに口に含んで、ゆすいでから飲み込んだ。

 空っぽになっている胃にゲロとコーヒーが混ざって下りていく。想像すると余計に最悪だ。それもこれもあいつのせいだ。インスタに上がってたヤツの笑顔を思い出して、また気分が悪くなる。


 キャップを閉めながら辺りを見回すと、こっちを見ている女と目が合った。


 「こんにちは。暑いですね。」


 暑いですねといいながら女は半袖のニットを着ている。あれだ、おばあちゃんが着てそうなシースルーのニット。風通しがいいから平気なのか。


 「あ、こちら、毛糸の専門店なんです。よかったらご覧になりませんか。暑そうですけどクーラー効いてますし。」


 女の向こうを見ると隣の建物に小さな店が入っていた。毛糸屋だからニットを着てるのか。

 どうして俺なんかを呼び込むのか訳が分からなかったが、おそらく暇なんだろう。一人で歩いていても気は晴れないだろうから道草してもいいかと思った。


 小さい、個人経営なんじゃないかというサイズの店舗だった。一足踏み入れると店内がすべて見渡せた。両脇の壁には所狭しと毛糸が並んでいる。入って右の棚にはグラデーションになるように単色の毛糸が順番に並べられ、左の棚にはいろんな色の混じった種類の毛糸が置かれていた。メーカーも色々あるのだろうか。一玉の大きさもまちまちだし素材も多岐に渡っているようだ。


 「編み物はされますか?」


 店員がにこやかに聞いてくる。やんねえよ。


 「いや、ちょっと、やったことはないんすけど。」


 「そうなんですか。」


 わかりやすく張り付いたような笑顔になる。呼び込んだのお前じゃねえか。


 「でも最近は男の方でも編み物をされてる方、増えてますし、初心者さんでも始められる簡単なキットもあるんですよ。わからないところがあったらお買い上げ頂いたお客様でしたら講習も受けていただけます。あ、編み物男子のグループとかもあって、こちらのお客様でも会員の方がいらっしゃるんですけど、」


 「いや、編み物はしないんすけど、いろんなもの使って造形とかはしてるっていうか。」


 「あ、そうなんですね。羊毛フェルトとかですか?」


 しまった。営業トークが長くなりそうだから腰を折ろうと思ったのに余計な一言を付け加えてしまった。


 「いや、まあ、はあ。」


 正直あまり話す気にはなれない。適当に濁して黙り込むに限る。さも毛糸に興味があるかのような顔で棚を眺めるふりをした。


 「リュウくんこういうの興味ないクセにー。」


 小声でアユミが冷やかしてくる。うるせえよ。


 「でもアユミは面白いと思うよ、ほら、こういういろんな色とか模様がいっぱい入ってるヤツだったらなんかに使えそう。あ、なんかタイトルも面白いよ、映画みたいな題名が毛糸に付いてる、変なのー。」


 「うるっせえな。」


 毛糸を取り上げながら思わず声に出た。やばい。店員の方を見るとあからさまに怯えたような顔つきになっている。


 「あ、ああ、すんません、じゃあこれください。」


 やむをえず買うことになった。


 「は、はい。少々お待ち下さい。」


 店員は慌てたようにその毛糸を受け取るとレジまで小走りしていった。


 毛糸は二千円近くした。意味が分からない。毛糸に二千円。


 「つい買っちゃったねー。」


 「お前のせいだろうが。」


 「なんかで使えるかもしんないじゃーん。」


 橋を元来た方向に戻りながらアユミは気安く言う。

 なんかってなんだよ。なに作ろうとどうせまたあいつみたいにあっさり俺のものなんか超えてくヤツがいるんだよ。


 「なんかってなんだよ。俺はもうなんにも作んねえよ。」


 「そんなことないよ。リュウくんどうせなんか作っちゃうもん。そん時に役に立つかもしんないじゃん。結構きれいな糸だったよ。」


 「うるっせえな!」


 今度こそ本当に怒鳴った。


「うるせえんだよさっきからぐだぐだぐだぐだうぜえんだよ。

 だいたい付いてくるなって言ってるのになんで付いてくんだよ。

 あれか?お前もしかして俺のことなんでも分かった気になってんのか?

 ちまちまちまちまツッコミ入れるくらいしかできてねえじゃねえか。

 どうせなら俺の制作とか人生とかの役に立ってみせろよ。

 ほら、役立てよ。できんのか?できねえだろうよ。


 しょせんお前なんか俺の空想に過ぎねえんだよ。

 その汚ねえ川にでも流れていっちまえ!」


 にがずっぱいものがみぞおちから上がってきた。

 両頬が張り付くようにすっぱい。

 俺はとっさに橋の欄干から下を覗き込んで、胃袋にあった茶色い液体を盛大にぶちまけた。


 アユミが笑顔を顔に貼り付けたまま、川を下流に向かって流れていった。


 「うえ。」


 欄干にしばらくもたれかかってから、顔を上げた。さっきまで向こう岸からこっちに向かって歩いてきていた人が橋の反対側に移っている。そりゃあ避けたくなるよな。

 またコーヒーを口に含んでうがいをし、今度は飲み込まずに川に吐き捨てた。紙袋に入れられた二千円の毛糸も投げ捨てようかと思ったがやめた。


 「なんかに使えるかもしんねえもんな。」


 歩きながら袋を開けて中を確認した。

 買ったときはろくに確かめもしなかったけれど、その大きめの毛糸玉はいろんな色が次々に現れてくるようで、緑や白やピンクがあったり黄色と白の縞々があったり、かと思えばしばらく黒ばかりだったりとまぁめまぐるしい。帯を見ると「The Entertainer」とあった。


 「大仰な名前だな。」


 「リュウくんにぴったりじゃん。」


 気がつくとアユミが覗き込んでいる。

 俺は毛糸を紙袋に押し込んでからひとりごちた。


 「うるせえよ。」




 

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