第29話 ワン子ちゃんの帰り道

 学校も午前中で終わる土曜日の下校途中。

 早く授業が終わって普段よりも多い自由な時間をどうするか。午後からの予定を考えるだけでも、下校中からワクワクする小学生達の列のなかで、彼女だけは様子が違った。 


「夕凪ちゃん、大丈夫……?」


 下校途中、今日は児童館も休みで真っ直ぐに家へと向かうなか、美春は並んで歩く夕凪の様子を気にしていた。


「最近、元気ないみたいだけど……」

「そんなことないよ?」

「そう……」


 夕凪の足取りは決して重くはない。でも、普段ならキラキラとした目で真っ直ぐ前を見るその顔が、ションボリ項垂れたまま。

 それはなにも今日だけではない、彼女が珍しく児童館にやってきた日からずっとだ。

 ここまで元気がないのはかなり珍しい。その原因がなんなのか、美春はひとつだけ心当たりがあった。


「最近、お姉さんのお話、しないよね?」


 普段の夕凪が話す話題は、いつもそのことばかり。

 一緒に公園で遊んだ話や、一緒にポイッキュアの映画を見にいった話など。どれもこれもとても楽しそうに話してくれる。

 でも、そんな話をここ最近彼女の口から聞かされることが全くなかった。


「もしかして……ケンカ、しちゃったの?」


 美春が恐る恐る尋ねる。聞いていいものか迷いながら躊躇いがちに。

 もしかしたら、嫌な気持ちにさせたかも、怒らせてしまうかもしれない。そんな不安を抱いた問いかけは、全くの正反対な返答で返された。


「ううん、そんなことないよ」


 それは真っ直ぐな笑顔だった。

 普段からよく目にする、夕凪の明るい笑顔。


「小学生の夕凪と違って、ゆなさん高校生だもん。忙しいから」

「そっか……」


 でも、その笑顔の裏になにかがある。僅かに低い声のトーンがなにか陰りが見える。美春にはそんな気がしてならなかった。


「寂しかったら、言ってね」


 美春はその中に立ち入ることは出来なくとも、せめて元気づけてあげようと、必死に言葉を紡いでいく。


「元気のない夕凪ちゃんより、普段の夕凪ちゃんの方が、私、好きだよ」

「ありがと、美春ちゃん」


 その気持ちだけは伝わってくれたらしく、さっきよりも自然な笑顔が夕凪の顔に作られる。


「じゃあ、またね夕凪ちゃん」

「じゃあね」


 そして、自宅への分かれ道、二人はいつものように挨拶を交わした。

 

 


 エレベーターが自宅のある階へと止まる。

 自動で開いた扉を抜け、真っ直ぐに玄関の前へ。

 玄関を開けようと、背負った鞄を降ろして中にしまった鍵を探し始めようとした時、ふと、隣の家の玄関が目に入った。


「………………」


 いつも、何気なく中へと入っていた玄関の扉、自分の家と同じ作りの大きな扉。それなのに全く別物に見えてくる。

 家の中も同様だ。全く同じ作りなはずなのに、一歩足を踏み入ると目に見えるものから、漂う香りまで、まるで全てが全くの別世界だった。

 掲げられた表札の漢字を、彼女はこの間習ったばかりである。

 それでも――その文字はずっと昔から読むことが出来ていた。

 大好きな、あの人の名字だから。


「…………ゆなさん」


 呟く大好きな人の名前。

 口に出して呼んでしまったからなのか、無性に寂しくて、会いたくてたまらない。


「…………んっ」


 気づいたらチャイムのボタンに指を伸ばしていた。

 普段押すことのなかったそのボタン、背伸びをしてつま先で立ってもまだ届かない。頑張って、頑張って指を伸ばす。それはすごくすごく――遠かった。

 一瞬、躊躇いが過る。

 自分で決めたことだった。それなのに今になって会いたいだなんて。なんて我が儘なんだろう。それこそ――


「……っ!」


 それでも、夕凪は伸ばしかけた手を再び伸ばし始めた。

 そして、押し慣れないチャイムのボタンに指が届き、重いボタンを力強く押した。


 ピンポーン。


 玄関越しに響くチャイムの音。

 しかし、中からは他に音は聞こえてこない。

 足音も、生活音も。そして玄関の扉が開こうとする音も。

 どうやら、留守のようだ。


「………………」


 伸ばしていた体を元に戻す。

 動かない玄関のドア、普段よりもとても大きく重く見える。

 諦めてランドセルの中の鍵を探すことにした。

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