第7話 ワン子ちゃんと雨

「ああ……やっぱり降ってきたか」


 今朝の天気は私の気分を表すように、どんよりとした雲が空一面覆う。それでも雨は降らないだろうって予報だったけれど、その予報は放課後には僅かに外れた。

 学校を出る際にポツポツと降り始め、いまや小雨がパラパラと。

 そんな学校からの帰り道、私はコンビニの軒下で雨宿りしながら一つの問題に悩んでいた。


「うーん……ビニール傘、買った方がいいかな」


 雨脚はそこまで強くないんだよね。

 このまま傘を差さず帰るのも、無理じゃないと思う。それに家には似たように買ったビニール傘が何本もあって、これ以上増えるのも邪魔になるだけだし。なにより……高校生のお小遣いというのは貴重だから、ね。


「でもなぁ……」


 今は本降りにほど遠いこの雨も、これから強くならないとは限らない。なにより今日の天気予報は既に外れている以上、信用は低い。


「どうしようかなぁ」


 買うべきか、やめておくべきか。

 真剣に悩んで出した結論は――。


「とりあえず、今は買わなくていっか」


 この雨脚なら、家までさほど濡れずに済むだろう。もし仮にこの後雨が強くなるようだったら、その時に買えばいいしね。

 そうと決めたら、急がねば。雨脚が強くなる前に家へと帰ろう。


 私はコンビニの軒下から、冷たい小雨の降る空の下に足を伸ばす。


「あ、ゆなさん!」


 そんな時だ。聞き慣れた声が、遠くから聞こえてきた。

 コンビニの少し先、そこに黄色い雨合羽をランドセルの上から着て、背中がもこっとした女の子がいる。それが誰なのかは、すぐに分かった。


「夕凪ちゃん!」


 全身雨合羽に覆われた小さなワンコ、おててと呼ぶに相応しい小さな手を、これでもかとブンブン振っている。

 この近辺にある小中高の三つの学校はとても距離が近い。

 小学校に入った子は、制服を着る少し大人びた中学生の姿を見て憧れて、中学校に入った子は、距離も近く通学の楽なうちの高校を受験したがるのが通例なほど。

 だからこうして夕凪ちゃんと帰り道がバッタリ、なんてことも珍しくない。


「ゆなさーん!」


 私に向かって嬉しそうに駆け出す夕凪ちゃん

 ふふ、まるで飼い主を見つけた子犬みたい。

 一生懸命全力で走ってきて…………って、この流れは、マズいマズい!


「ちょ、ちょっと待ったー!!」


 いつものように飛び掛かろうとする夕凪ちゃんへ手を突き出す。

 途端に私の目の前で急ブレーキ。待てを言い渡された犬のように、まじまじと私を見上げてくる夕凪ちゃん。


「夕凪ちゃん、ちょっといいかな」

「ほえ?」


 そうよ。今朝決意したばかりじゃない。

 これは私にとっても夕凪ちゃんにとっても、とても大事なことなんだ。

 だからこそ、ちゃんと伝えなきゃ。


「夕凪ちゃん、もうそろそろ、そういうことはやめよ、ね?」

「そういうことって?」

「ほら、今みたいに私に飛び掛かったり、すぐに私にくっついてきたりすることよ」


 不思議な顔をして首を傾げる夕凪ちゃん。


「どうして?」

「どうしてって……」


 夕凪ちゃんの純粋な目が……見ていて辛い。


「ほら、夕凪ちゃんはもう小学生で子供じゃないでしょ。そうやって飛び掛かったりするのはもう卒業しないと」


 私を慕ってくれているからこその、夕凪ちゃんらしい愛情表現なんだっていうのは私にだって分かっているんだ。

 けど……これは仕方ないことなの。

 夕凪ちゃんが成長するにつれて、そういう無邪気さは周りからいらぬ危険を招きかねない。そういう自覚と危機感は夕凪ちゃんも持たないと。


「それに夕凪ちゃんも女の子でしょ。女の子らしく、とまでは言わないけど少し大人しくすることも覚えないと、ね?」


 それになにより……私自身のためにも。

 こんなこと言うの、私も心苦しい。ホントにすごく。

 でも、これも私と夕凪ちゃんのためなの。

 どうか、分って――


「ゆなさん……」


 か細い声が私を呼ぶ

 夕凪ちゃんの声だ。それはすぐに分かったんだけど……でも、彼女らしくない、ひどく弱々しい呼び声だった。

 まるでそれは――雨に濡れた捨てられた子犬の鳴き声のような。 


「ゆなさん……夕凪のこと嫌いになっちゃったのぉ……?」


 んっ、んんんんんんんっ!!

 今にも泣きだしそうな夕凪ちゃんの顔。それがまたいじらしいというかなんというか、いつもと違う別なかわいらしさが……。

 って、い、いやいやいや!

 今はそんな感情に浸っている場合じゃない。


「違、そ、そうじゃないの」

「だって……いつもしてたこと、しちゃダメって、言うしぃ」

「そうなんだけど……そうなんだけど、ね?」

「ゆなさん……夕凪のこと、嫌いになっちゃったんだぁああっ!」

「ちょ、ちょっと夕凪ちゃん!?」

「わあああああああっ、ああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっん!!」


 ついに、泣き出してしちゃった。

 わんわん。全身を使って鳴り響かせるように夕凪ちゃんの泣き声が辺りに響き渡る。


「ゴメン、ゴメンね夕凪ちゃん」


 夕凪ちゃんには少し早い話かもしれない、そうは思ってた。

 でもせいぜい嫌がったり怒ったり、そんな反応を予想してたんだけど……まさか泣き出しちゃうなんて。意外すぎる反応で、私も慌てるしかない。


「泣かないで、私が悪かった。だからほら、ね……?」


 抱きしめて、顔を優しく顔に手を添えてあげる。

 そしてその顔を見つめようとした時だ。


「――――」


 今まで泣いていたのが嘘のように――いや、実際嘘だったんだけれど、彼女の顔は意地悪そうな、にんまりとした笑顔に。

 あっ……やられた。


「ゆなさん、引っかかった!」

「ちょっ!?」


 途端に抱きついてくる夕凪ちゃん。

 レインコートを着たままだから、冷たい雨水が私の体に。


「もう、夕凪ちゃん、制服が濡れちゃうから」

「んん~ゆなさ~ん」


 私の言葉を聞いてか聞かずか、夕凪ちゃんは雨合羽のフードをしたまま、頭をゴリゴリと、私のお腹にこすりつけてくる。


「ちょこら、やめてって、もう!」


 いつもこれだ。

 夕凪ちゃんにペースに巻き込まれ、されるがまま。こうなっては、もう話を聞いてもらうどころではない。


「ゆなさん、ゆなさーん!」

「も、もう!?」

「なにしてんの……アンタ達?」


 そんな私達に声をかけてきた人物がいた。

 ひばりだ。

 まるで不審者でも見るかのように、私を変な目で私達を見つめている。


「あ、ひばりお姉ちゃん!」

「よっ、夕凪。今日もワンコみたいね。ほれおいで~」


 夕凪ちゃんは嬉しそうにひばりの下へ


「ほーれほれほれほれ」


 夕凪ちゃんを捕まえたひばりが、頬をワシワシ。

 夕凪ちゃんもハフハフとでも言いたそうに、気持ちよさそうな顔をしている。


「にししし」

「夕凪、アンタ優奈に迷惑かけてない?」

「んん? かけてないよ」


 頬を手で挟まれた夕凪ちゃんが、ムスッとした顔のまま言う。


「そう? ならいいけど」


 チラリと、ひばりがこちらに目配せをしてくる。

 どうしたんだろう、と思う間もなく、なにかを察したようにひばりが笑った。


「優奈ってば今日は体調よくないみたいだから、あんまり迷惑かけちゃダメよ」

「え……」


 驚く夕凪ちゃんも、私に振り向く。


「そうなの、ゆなさん……?」

「え? ええっと……」


 驚きと共に、どこか心配そうな顔をしていた。

 そんな顔を見ていると……あんまり心配はかけたくないけど、ここは正直に話しておいた方がいいかも。


「うん……実はちょっと、ね」

「…………」


 夕凪ちゃんってばホント表情がコロコロ変わる。

 元気よく嬉しそうにしていたかと思えば泣き出して。かと思えば悪戯っぽい顔で笑って。

 こうして私のことを心配して、すごく悲しそうな顔にもなる。


「大丈夫よ。夕凪ちゃん」


 でも、そんな顔は夕凪ちゃんには似合わない。


「心配するほどじゃないから」


 それでも夕凪ちゃんの表情は晴れない。

 だから私は、いつものように手を差し出す。


「さっ一緒に帰ろ」


 するとどうだ。

 夕凪ちゃんの顔が、すぐにぱあっと明るくなった。

 そうそう。やっぱり夕凪ちゃんはこっちの表情の方がよく似合う。


「うん!」


 曇った空も吹き飛ばしそうな笑顔と共に、私達は手を繋いで家路を歩きだした。

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