色づく前に

惣山沙樹

色づく前に

 中庭に不格好に突き出した、六畳間ほどの広さのそれは、部屋というより物置ではあったが、石田いしだはすぐにそこを気に入った。真隣に鶏小屋があり、小さいながらも畑があり、別に頼まれたわけでもないが、自然にそれらを世話するようになった。

 最初の頃こそ、家主のおかみさんは「四宮しのみやさんのおり合いに、そんなことさせるわけには」と申し訳なさそうな素振りをしていたが、五日ほどで何も言わなくなり、「ところでサッシが開きにくくなってね、ちょいと見てくれないかい」等と頼みに来る始末であった。

 しかしいつまでも鶏の世話や畑の世話や大工仕事ばかりしているわけにはいかず、石田は本来の仕事へと赴かなければならなかった。戦後、家業も継がず教職にも就かず、フラフラしているのを見かねたのだろう。「甥の家庭教師をしてくれたまえ」という四宮の一声があったので、渋々ながらもこの町に来たのである。

 甥というのが、相当に捻くれ者で、海に入ったり楽器を弾いたりで遊び呆けていると石田は聞いていたので、勉強を教えるといっても相当に阿呆なのだろうと高を括っていた。ところが、その甥、名前を平太へいたといったが、彼は聡明にして物分かりが良く、それでかえって時間を持て余し、他のことをしているだけなのだと初日にして気付かされた。


「きっと伯父さんは体面のために先生を呼んだのでしょう」

「それは、誰の体面だい?」

「全員です。僕、伯父さん、そして先生」


 四宮の家に通い始めてから三月みつきが経ち、ふと平太がそんなことを言った。その頃には石田も、家庭教師ではなく話し相手として呼ばれた気はしていたから、平太の言葉には納得がいった。石田は欠伸をし、畳の上に寝転がった。


「邪魔ですよ。態度だけでも我慢ならないのに、図体も大きいんだから」

「怒るなよ」


 その実、平太は怒ってはいなかったし、むしろ石田を受け入れていた。そのまま眠り込んだ石田を放って、彼は本の続きを読み始めた。


「先生。もう夕刻です。良い加減帰って下さい」


 西日が強く差し込んでいた。それにすら気付かず、平太に頬をはたかれて漸く目が覚めたというのだから、相当に油断していたのだろう。石田はおざなりに挨拶をし、裏口から外に出ようとした。すると、胸の辺りに少女の頭がぶつかった。


「きゃっ!」

「済まない。大丈夫か?」


 少女は顔を上げた。恐々と石田の目を覗き込んでいる。見たことのない少女だった。四宮の家に出入りしている人間なら、大体は面識があった。


「ええ、平気です。私こそ、ぼんやりしていて……」

「君はここで働いている子?」

「いえ、安藤あんどう園芸です。お花の配達で」


 よく見ると少女は花束を抱えていた。潰れていないのを確認し、その日はそのまま帰路に着いた。しばらくそれきり石田も少女のことは忘れていたが、あるとき花屋に用事が出来、安藤園芸に赴いたのである。

 少女は桃子ももこといった。非常によく笑う少女で、喜ぶ時も困る時も彼女は笑った。


「先生、普段は電気工事の人みたいな恰好なのね」

「仕事でないと、あんなきちんとした背広は着ないよ」

「じゃあ今は仕事でないのね? 私、そろそろ上がるんですけど、歩きませんか」


 桃子は平太と懇意なようで、石田の事は前から識っていたという。君の先生では無いから、先生と呼ぶのはお止しと言ったが、桃子は一度ついた癖が抜けにくい性分なのか、先生、先生、と呼び続けるので、とうとう石田も諦めた。

 初めの内、仔猫に懐かれた体であしらっていたが、二度、三度、桃子と話をしていると、段々と面白くなってきた。特段、目を見張る程の美少女では無かったが、瑞々しい活力に溢れた、なかなか気持ちの良い存在であった。あるとき、私は平太さんに嫌われていますからと話すので、よくよく聞いてみたら、なんのことは無い、いつもの平太の天邪鬼だった。それに気付かないほど、彼女は純粋でうぶだった。


「平太君。桃子さんのこと、好きなんだろう?」


 藪から棒に切り出すと、平太は顔を赤らめた。その日は珍しく、きちんと家庭教師として振舞っており、彼に数学の問題を解かせている途中であった。


「不意を突くなんて、大人のやる事では無いですよ」

「俺は大人じゃないよ。さ、手が止まっている」

「そうやって都合よく大人と子供を使い分けられるのは、貴方が本当に大人だからだ……」


 平太は苦虫を嚙み潰したような顔で、乱雑に方程式を書き散らすので、さすがの石田もやりすぎだったと反省した。けれども、こうして平太に意地悪をしたくなるほど、近頃桃子の態度に困るようになっていた。住処を教えたのがまずかったのか、桃子は中庭の畑に度々訪れる。トマトがもうすぐ色づくのだが、彼女はそれを楽しみにしていた。さすが花屋の娘といったところで、キッチリと植物の話を本題に据えてくるので始末が悪い……。


「出来ましたよ」


 石田は採点を始めた。ここぞとばかりに、平太が仕返しをする。


「先生こそ、彼女とよく会っているんでしょう。別に、覗き見なんてしてやいません。話すんですよ、彼女が。先生のことばかり」

「俺みたいな大人が珍しいんだろう」

「珍しいからこそ、惚れたんでしょう」

「そんな訳は無いよ」


 平太は端的に確実に芯を捉えていた。さすが四宮さんの甥御だ、と石田は苦笑する。意地でも降参する態度は出さなかったが、とっくに彼は負けていた。


「平太さん、先生にお客様が……何でも火急の用とかで」


 下働きの少女が声を掛けてきて、石田はすぐさま玄関へ行った。石田の家主のお上さんだった。彼女が持参した電報を見るや否や、石田は血相を変えた。お上さんも慌てて内容を口走ったものだから、平太にもその理由が分かった。


「すまないね、急ぐよ」

「僕の事は構わないで下さい」


 石田は六畳間に戻った。ここで暮らしたのは、数えてみればほんの一年足らずだった。元々荷物は少なかったし、増やさなかった。なので荷造りはあっけなく済んだ。収穫しそこねたトマトが心残りだったが、あれが色づく前に去るのは、誰にとっても良いことだったのかもしれない。


「先生」


 桃子が畑の前に立っていた。平太だな、余計なことを、と石田は毒づいた。どうせ父の臨終には間に合わなかったのだから、こんなに急いで出ていく必要は無いのだ。即刻発つと決めたのは、桃子に会いたく無かったからだ。挨拶もせず手紙を残さず、冷酷に冷淡に冷徹に別れて仕舞いたかった。


「ここには、帰って来られるんですか?」

「いいや」


 それだけ言って、石田は桃子の前を通り過ぎた。早足で駅に向かう。西日を真正面に受けながら進まねばならぬ道だった。彼女と初めて出遭ったのも、確か陽が沈む頃だったか。


「先生、先生。行かないで」

「平太君から理由は聞いているんだろう。子供じゃあないんだから、離しなさい」


 桃子は石田のシャツの裾を掴んでいた。それを振り切れるほど残酷には成り切れず、石田は足を止めた。背中越しに、嗚咽が聞こえていた。


「私が子供じゃあないというのなら、先生の女にして下さい」

「そんな口ぶりは良くないぞ。それが似合うほど、君は大人に成ってはいない」

「ずるい」

「そうだ」


 このまま桃子を担いで夜汽車に詰め込んで、郷里では無く、どこか遠い田舎へ落ち延びてしまえたら。石田はそうする代わりに、振り返って頭を軽く撫でた。桃子は何か言いかけたが、止めた。石田は彼女に背を向け、また歩き出した。もう、追いかけては来ないようだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

色づく前に 惣山沙樹 @saki-souyama

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

同じコレクションの次の小説