第5話「赤に乗せたるは」

「澪、どうしたんだ? お前から呼ぶなんて珍しいな」


 航平君の出発が前日に迫った日の夕刻。潮海灯台の展望台に彼を呼び出していた。

 あの日以来、私たちが会話をする機会はめっきり減ってしまった。航平君の方はもちろん漁の準備で忙しくしていたのだが、私の方も彼のために少しやることがあり、中々時間が取れないでいた。


 しかし甲斐あって何とか間に合わすことができた。その成果を後ろで組んだ手に握りながら私は彼の正面に立つ。


「うん。今日は航平君に渡したいものがあって。ちょっと屈んでくれる?」


 不思議そうにしながらも膝を折って屈む彼に近づく。


「お、おい」


 身体が触れ合ってしまうほどの距離に、さしもの航平君も驚いた様子だった。私も大胆な真似をしている自覚はあるが、今日ばかりは勇気を出すと決めている。

 そのまま止まることなく彼の顔――の下にある首元に手を伸ばす。


「はい、これでよし」


 仕事を終えた私は航平君との距離を一歩離して満足げに頷く。彼の首元に巻かれた深紅のスカーフは、地味な作業服との対照で照り輝いているようにすら思えた。


「……これは?」


「スカーフ。一応、私の手作り」


 自身に巻かれたそれを興味深そうに見つめる彼に、今まで堪えてきた羞恥が急に襲いかかってきた。


「本当は当日渡すつもりだったんだけどね。ほら、ここ最近は天気が悪いから。ちょっと心配になっちゃって」


 出港の日が近づくにつれて町の漁師の士気は上がっていたのだが、まるでそれを挫くかのように近頃の天候は悪くなる傾向にあった。

 このままさらに悪くなってしまえば船を出すにも危険が生じ、まさに雲行きが怪しい状況だった。

 私を含む町民の多くはもちろん心配の声を上げたが、もう既に諸々の準備に金をかけてしまった以上、漁師衆は出帆しゅっぱんを取り下げることはなかった。


「ああ、心配もそうだけど。それだけじゃなくてね? これには私の想いを込めてるんだ」


「想い?」


 視線が絡む。鼓動が速くなって、口が乾く。


 それでも昨日何度も練習した言の葉を懸命に紡ぐ。


「いつも私の事を気遣ってくれてありがとう。悲しみを忘れさせてくれてありがとう。私を包み込んでくれたあなたに、今度は私が恩返ししたい。大好きなあなたが目指す夢を、わたしもまた大事にしたい。あなたが安心して帰れる場所になりたいの」


 緊張のあまり、後半は声も掠れていたような気がするが、とにかく言いたいことは言えた。

 しかし、一方的に告げただけで済む話でないのも事実。対する彼の反応が気になり、私は恐る恐る顔を窺う。


「……そうか。うん、そうか」


 熟した林檎のように紅潮した顔。語彙力に欠けた反応。これ以上ないほど分かりやすい動揺に、私の顔にはいつの間にか弛緩した笑みが零れた。


「笑うなって! そりゃあ、急にそんなこと言われたらびっくりするだろ」


 それから未だ笑い声をあげる私をいさめるように、わざとらしく咳払いして言った。


「その、俺もあの時からずっと、お前のことを想っていた。でも澪の過去を知っていたから、自分の気持ちを言えないでいた。いつもここから海を見るお前の顔が悲しく歪んだままじゃ、俺はお前の隣には立てないと思っていた」


「うん」


「本当は都内の大学にも行ってほしくなかった。ずっと俺が好きなこの町で、立派な漁師となった俺の傍で幸せにしてやりたいと思っていた」


「うん!」


「だから、俺からも言わせてほしい。澪、この先ずっとお前の不安は全部俺が洗い流す。その代わりお前にはこの町にいてほしい。ずっと俺の隣にいてほしいんだ。だから、待っていてくれるか」


 言葉で答える代わりに、私は彼の両手を自分のそれで包み込む。自分のものより大きい、ごつごつとした男性の手。


 茜と紫が混じる黄昏の空のように、私たちはそっと唇を交わした。


 いつまでもそうしていたいと思える幸せな時間だった。



 それから、一年と半月の月日が流れた。


 私は彼との約束通り都内への進学の件は断り、卒業後この町の役場で働き始めた。


 彼が愛した潮海を私なりのやり方で支えていきたいと思ったからだ。


 伝統ある漁業の町としての側面だけでなく、外国との貿易をつかさどる港としての側面を新たに創り出し、地域の活性化を目指す。

 この町を今以上に価値あるものだと周りに主張することで、尻すぼみになっている現状を打開する狙いだ。


 彼が戻ってきたときにびっくりさせてやろうという悪戯心もあって、仕事への身の入りようは凄まじかった。

 同僚との関係も良好で、初期に描いた復興の構想も徐々に現実味を帯び始めた。


 彼が旅立って以来、私の生活は順風満帆といっていいほどだった。


 ただ一つ、そこに翳りがあるとするならば。


 それはあの日出帆した天海航平あまがいこうへいを含む漁師たち全員の行方が、予定の帰港日を過ぎてなお不明であることだけだった。


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