第4話「航平の真意」

「あんたさぁ、澪ちゃんに何かしたのかい?」


 一階の酒場部分に降りた私は、突然カウンターの方から聞こえてきた自分の名前に驚いてしまい、反射的にそこへ続く廊下の陰に身を隠した。


「いや別に。ただあの件について言っただけだって」


 一体何をしているのかと、私はすぐに隠れるのを止めようとしたのだが、次いで語られた内容にその動きが止まる。

 例の話題。声の質からして話しているのは航平君と、私たちの母である洋子さんだ。

 まさかの偶然にまたしても驚き、私はいよいよ出ていく機会を失ってしまった。


「あの件って。そんな簡単に言うけど、澪ちゃんにとっては違うでしょ。それなのにどうして直前まで引き延ばしたのよ」


「別に俺だって何も考えていなかったわけじゃない。海に出るのは俺の夢だけど、あいつはきっと、俺が海に出ることに嫌がるだろうなって。あんなことがあったから当然だけど」


 当人がいないからこその素直な言葉。彼の夢については昔から知っていただけに、きゅっと心が痛くなる。


 別に邪魔したい訳じゃない。ただ離れるのが嫌なだけ。そう詳しく弁明したかったのだが、またしても私の言葉は止められてしまう。


「あれからもう十年かしら。汐月しおつきさんが海難事故に巻き込まれて、澪ちゃんを引き取ってから」


 こればかりは思わず声をあげてしまいそうになった。予期していないその言葉は、私が長い時間の果てに忘れかけていたモノだったから。


「正確には、十年と二月前だ。あの時のことは忘れようもない」


「そりゃねえ。あの時は航平が面倒を見てくれて助かったよ。私たちだけじゃあ、きっとあの子はダメになっていた。そういえば、あんたが漁師を目指そうとしたのもその時からだったわよね?」


「え……?」


 在りし日の頃。私が天海家に引き取られた時の記憶を思い出していたのだが、ふと洋子さんの口から聞き捨てならない言葉が飛び出してきた。


「ああ。こっちに来て間もない澪は、海を見る度に泣いていたんだ。それは悲しそうに、恨むように。この町から見る海が好きだった俺はあいつがそんな顔をするのが堪らなく嫌だった」


「そうだったわね」


「だからある日、灯台に澪を連れて言ってやったんだ。『俺が澪を守る。俺は海に負けないくらいすごい男になるから、二度と澪を悲しくさせない』って。俺が漁師になることで、澪の悲しみを塗りつぶしてやりたかった。忘れさせてやりたかった」


 航平君の本当の想い。それに初めて触れた私は、いつの間にかその場に座り込んでいた。


 忘れるべきでないことを忘れてしまったのは私が薄情だからだと。時間がそう仕向けたのだと。ずっとそう思い込んでいたが、違ったのだ。

 航平君が全てを包み込んでくれていたのだ。代わりに背負ってくれていたのだ。

 その事実に、私の両の目は静かに涙を流していた。


「……なんか甘い」


 伝う涙が口に触れる。


 私は泣くことが嫌いだった。流れる涙の味が、塩辛い海を想起させて不快な気持ちにさせるから。

 しかし、いま私の頬を伝うものだけは違った。優しく抱きしめられるような、甘く切ない味だった。


 手の甲で雑に目元を拭うと、私は音を立てないようにその場から離れた。


 元はと言えば航平君と話すために来たのだが、今となってその事情が変わってしまった。

 意図せず彼の本心に触れてしまったお詫びも込めて、私も相応の態度で望むべきだと思った。


 そのためにはただの言葉では足りない。彼に報いる為に、私はある贈り物を用意することにした。

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