第2話「熱に浮かされて」

 夏の到来に先駆け、今日の潮海は真夏日を記録していた。陽が落ちかけている今でもその熱の猛攻は衰えを知らず、日中の熱い日差しに照りつけられたアスファルトの熱気も加わり、帰りしなの私たちの精神をむしばんだ。


 話したいことがあると言われたものの、暑さにもだえる私にはそれに応じる気力はなかった。

 航平君もそれは同じなのか、あの展望台を降りてからのこの十分間、私たちの間に会話らしい会話はなかった。

 あったとしても「暑いねー」だの「だるいねー」だの微塵みじんの思考も介さない反射的なやり取りのみだった。


 このままではよくない。微かに残った私の理性が告げる。

 気を取り直すようにポケットからハンカチを取り出し、何度目かも分からぬ汗を拭った。


「ねぇ航平君。さっき言ってた話って?」


「ああ、そうだった。でもまあ、俺の話よりも前に澪の話を聞かせてくれないか?」


 航平君は私の方へと視線を向けながら尋ねる。いや、正確には私の着ている高校の制服に向けてかもしれない。


 海をモチーフにした水色のシャツと紺のリボン、下には黒のチェックスカート。学生である私が着るには変哲のない服だが、流石にこの日没の時間帯まで家に帰らず外にいたのは不審だったか。


 どこか抜けているようで目聡い部分もある航平君に、苦笑交じりに頷いてみせる。


「まあ、ね。私ももう三年だからさ、進路のことでちょっと先生と話してたんだ。さっきはそのことでちょっと悩んでた」


「進路か。確か澪は進学を希望してたよな? でもお前は成績も滅茶苦茶良いし、そんなに困ることあるのか?」


「うん、そうだけど」


 航平君に褒められたことによる気恥ずかしさと、悩みを素直に打ち明けることへの躊躇い。少しでも気の迷いが晴れるように望んだのか、無意識に私の指先は汗でほのかに濡れた髪を弄っていた。


「私の成績なら都内の大学の推薦も受けられるって、よければそこを目指してみないかって、担任の先生から。あ、でも先生が言ってただけでまだ決まったわけじゃないから! それに実際に推薦を受けられるかも怪しいし、結構先の話でもあるし――」


 何故だか言い訳がましく取り繕ってしまう私とは対照的に、推薦の件を聞いた航平君は、それまで暑さで活力を失っていた目を輝かせた。


「凄いじゃないか、推薦だなんて! 昔っから賢いとは思ってたけど、流石は澪だな」


「う、うん。それはありがとう。だけど」


 喉まで出掛かった言葉を私はそこで無理やり区切った。言うのがはばかられるほど恥ずかしいからというのもあるが、馬鹿正直に想いを告げるのもなんとなく負けたような気がして嫌だった。


 そんな私の淡い葛藤が伝わってしまったのか、航平君は一転してその表情を固くした。


「もしかして、学費のこと気にしてるのかよ。それで、行くのを躊躇っているんじゃ」


 そうではなかった。だが彼が言うこともまた、進路選択には絡んでるのだろう。

 思わぬところから提起された問題に、二重の意味で気持ちが落ち込んでしまう。


「心配するな、澪。俺たちは家族だからな、お前が困っているなら喜んで助けになるぞ。俺も、親父もお袋もな」


「うん……」


 屈託のない笑顔。励ましの言葉は嬉しいが、やはり私としてはその距離感が悩みの種でもある。

 しかし、そんな本心を打ち明けることはできない。できるならとっくにそうしているところだ。

 だから私は平静を取り繕って、話題をすり替えてしまおうと試みた。


「私の話はもういいよ。それより、航平君も何か伝えたいことがあったんじゃないの?」


 私の目論みは実り、航平君はそれ以上追及することを止めてくれた。それから短く相槌を打ち、左手を顎に添えるポーズをとる。航平君が思案を巡らすときの癖だ。


 その様子を見て私は安堵する。これで少しは時間を稼げるだろう。

 早鐘のように鳴る胸を抑え、深く息をつく。ただでさえゆだるような暑さの中にいるのに、自分で自分の体温を上げてどうするのだ。火照った身体が少しでも冷えるように、頭の中をとにかく空っぽにするよう努めた。


 が、それにしても先ほどから一向に航平君からの返答が返ってこない。まさか朴念仁ぼくねんじんである彼が私の異常に気付いたとは思えず、不審を抱き彼の顔を盗み見る。


 航平君もまた私と同様に何かに悩んでいるのだろうか、難しい表情をして低く唸っていた。

 私が知る限り、彼の様子は見たことがなかった。竹を割ったように朗らかな性格で、海のような懐の広さも持っている。それに加えてどんな男性よりも真面目で、努力家で、他人に気を配ることができる。


「そんなに言いづらいことだった?」


 やはりそんな航平君に懊悩おうのうなんて似つかわしくない。私は勇気を込めて一歩踏み込むことにした。

 自分から行動を起こさないと、いつまで経ってもこのもどかしい距離感は変わらないままだ。


 大したことないけれど、これを機に私達の関係も進めばいいな。

 私のそんな能天気な希望は、次の彼の一言によって無情にも砕かれてしまう。


「俺、ようやく漁師の先輩方に認められてな。来月の遠洋漁業えんようぎょぎょうに初めて参加させてもらえることになったんだ。だからこれから少なくとも半年は、家には戻ってこれそうにない」

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