終章

 どんよりとした師走の雪雲から、ちらちらと細かい雪が落ちてくる。

 月乃は、赤くなった両手に息をはきかけ、首筋に当てて温める。ひんやりとした指先が首に触れ、思わずぶるっと身を震わせる。太い動脈の熱にふれて、かじかんだ指に少しずつ血がめぐり始めた。

 それぞれで用事を済ませて落ち合おうと決めたのが、この橋のたもと。せわし気に行き交う人々の顔を眺めてみるも、銀作も火噛もまだ現れない。


 先日の蚕の一件で落としてしまった御高祖頭巾おこそずきんは、その後見つけることができなかった。

 あの時は、女たちを伴って下山するのが最優先事項だったし、事を終えたら終えたで、頭巾一枚のためにあの場所へ戻りたいと言い出すのもはばかられた。

 思い入れのあるものだったから、すぐに別のものを買おうという気にもなれず、十日余りがたった今も、月乃は頭巾なしで通している。寒風にさらされた耳が、ちりちりと痛む。少しばかり温まった両手で耳を覆い、ため息をついた。


 女たちはあの後、協力して仕事を探すことに決めたそうだ。一人ずつでは難しくても、力を合わせればできることもあるはずだと。例えば、みんなで同じ長屋に住み、交代で幼い子たちの面倒をみることにすれば、これまでよりも時間の融通がきくようになる。できることはなんでもやってみる。胸をたたくお久留は頼もしかった。太一は薬問屋での奉公が決まったそうだ。「お月さんみたいに、怪我や病を治す手伝いがしたいんだ」と張り切っていた。

 それでも、月乃の気持ちはどこか晴れないままだった。蚕の妖や、お静に言われた言葉が、胸の中で何度も浮かび上がっては、重く沈むのを繰り返している。人助けだと安易に手を出したことが、いかに浅はかだったか思い知らされたような気がした。自分はまだ、知らないことが多すぎる。


「あま~い、あま~い、あまざけぇ~っ。あったかぁ~い、あまざけだよぉ~」

 天秤棒を担いだ甘酒売りが、ゆらりゆらりとやって来た。

 そろそろ寒さが耐えがたくなってきた。一杯もらおうと声をあげかけた時、白い毛皮を着た背中が、ずいと目の前に現れた。

「二杯くれ」

「あいよ」

 湯気の立つ甘酒が注がれた湯呑を、銀作は無言で月乃に差し出した。

「ありがとうございます」

 礼を言って受け取る。代金を払うと言ってもどうせ受け取らないだろうから、野暮を言うのはやめておいた。

「待ったが?」

「いいえ。でも、火噛さんもまだ戻ってこないですね」

「あれはっとけば

「そんなこと言わないで。ゆっくり飲んで待ちましょうよ」

 飲み終わった湯呑は返さなければならない。甘酒売りの親父はしばらくここで商売をするつもりのようで、天秤棒を下ろしている。少々のんびりしても問題ないだろう。


「……私が銀作さんと出会ったのも、ちょうど今くらいの時期でしたね」

 こっくりとした甘酒の白に目を落としながら、月乃はぽつりとこぼす。

 銀作は聞いているのかいないのか、黙って茶碗の中を吹き冷まし、甘酒をすすっている。

「もう一年にもなるんですね。あなたに助けられて、こうして旅に同行させてもらうようになって、一年……」

 それまでは、ずっと闇の中にいるような生活をしていた。

 何を成すこともなく、ただ息をひそめて暮らしてきた数十年だった。

 いろんなものを犠牲にして、にもかかわらず、ことわりを外れた力によって若さを保ち続けて……そんな価値が自分にあるはずはないのにと、ひたすらおのれを責め続けるだけの日々だった。

「あなたに命を救われたからには、精一杯生きていかなくちゃって、自分なりに考えて行動してきたつもりだけれど……だめですね。結局、私がしたことは、独りよがりの偽善でしかなかったんでしょうか」

「こないだ言われだごど、まだ気にしてらんだが?」

 だしぬけに銀作が口を開いたので、月乃は口に含んだ甘酒を吹き出しそうになった。この男は普段は口が重いくせに、どうして言いにくい話題に限ってズバリと切り込んでくるのだろう。

「おらは、間違ったことをしたとは思わね。あのまま放っといたら、遅かれ早かれ女だぢは死んでいただべし、そうなったら子どもらだって路頭に迷っていただろ。穴さ落っこぢだ人間がいだら、なんも考えねで、とりあえず引ぎ上げるべ?その後どう生かすかまで考えでたら、いづまでたっても助けらんね」

「そ……その通り……かも……しれませんけど」

 月乃は湯呑に目を落とし、もじもじと身じろぎをする。

 あまりにもあっさりとした口調で言われてしまうと、なんだか今まで悩んでいたことが馬鹿らしいような、悔しいような気持ちになる。納得はできても、素直に切り替える気になれない。


 銀作は、早くも冷めてきた甘酒をぐーっと飲み干すと、別段美味くもなさそうに唇を舐めた。

「人は神でも仏でもねぁがら、なんでもでぎるわげじゃね。でぎねごどの方が多い。獣を撃つのは殺生だ、罪だって責められたって、羽州うしゅうの長い冬を、村のみんなに生きて越えさせるすべを、おらァ他に知らねぇもの」

 銀作の故郷である羽州は、度重なる天災に悩まされたきた土地だ。寛永、天明、天保の大飢饉においても、特に甚大な被害を被っている。

 飢えて凍える長い冬を乗り越えるために、男たちは山に入り熊を獲った。肉によって人々の腹を満たし、毛皮や熊胆ゆうたんを売って村を潤わせた。

 しかし、殺生という穢れに触れる猟師の仕事を、よく思わない者たちがいるのもまた事実であった。太平の世にあって、鉄砲などという物騒なものを持ち歩くこと自体、異質なものとして嫌われることもあった。「鉄砲撃ちに貸す宿はねぇ」と、鼻先でぴしゃりと戸を閉められたことも、一度や二度ではない。

「いつか閻魔様のお裁きを受けるんだとしても、それならそれで仕方しがだね。それでもおらは、自分にできるごどを、自分が功と信じるごどを、じっちゃや父っちゃが大事にしてきたマタギの仕事を、精一杯やるって決めてんだ」


 銀作の行動原理はいつだってシンプルだ。

 やらないよりはやった方がいいと思うからやる。

 自分にできることを精一杯やる。

 その結果、誰かに恨まれても、後ろ指を指されることになっても、「しがだね」と甘んじて受け入れる。そうしなければ生きられないのだからと、罪は罪として受け入れている。

 彷徨さまよう魂に足を貸しているのも、妖につけ狙われる少女を助けたのも、世のため人のためなどという崇高な理想があってのことではない。誰かに褒められるためにやるわけでもない。大きな力によって生かされ、何かを犠牲にしなければ生きられない『人間』のさがを知っているから、どんなに強い武器を持っても傲慢になることはしない。それでいて卑屈になるわけでもなく、死を待つばかりの化生けしょうの親子を前にして、そっと銃口を下ろすだけの情は、決して失わずにいる。


 銀作の傍にいると、自分がひどくひねくれていて、心の弱い人間のように思えてしまうことがある。

 手にした湯呑をぎゅっと握った。

 冷たくなった甘酒を一気に飲み干して、月乃は銀作にきっと向き直った。

「この際だから言ってください。銀作さん、私のことをどう思っているんですか?」

「どっ……!?」

 ずいと身を乗り出して尋ねると、銀作は大げさにのけぞって距離をとった。月乃の勢いに押された様子で、大きく見開いた両目を瞬かせている。月乃はかまわずに一歩踏み出した。後ずさる銀作を橋の欄干らんかんに追い詰める。

「以前、『思っていることがあるなら、ちゃんと言ってくれ』って、あなた私に言いましたよね?自分は女のことがよくわからないし、鈍いから気づかないで無神経なことを言ったりしたりするかもしれないからって。

 私も同じです。言葉にしてくれなきゃわかりません。

 私、ちゃんと、あなたの役に立っていますか?嫌な思いをさせたり、迷惑をかけたりしていませんか……?」

 この一年、平静を装いながらも、月乃の心にはいつも不安があったのだ。

 世間にどう思われたっていい。閻魔様に責められたっていい。

 ただ、銀作に軽蔑されたり、わずらわしく思われたりするのは耐えられない。

 そうなるくらいなら、いっそ離れてしまった方がいい……本気でそう思っていた。


「……なして、そんな話になるんだ」

 困り果てた表情で、銀作が頬をかく。いつもの仏頂面はどこへやら、動揺しきって視線を泳がせている。

「酔ってんのか?」

「酔ってるわけないでしょう、甘酒なんだから!」

「おらァ、あんたが迷惑だなんて、今まで一言も言ったごどねぁべ」

「でも、いてくれて助かっているとも言われたことありません」

「それは……」

「お願いだから、正直に言ってください。でないと私、あなたのそばにいていいって思えない。自信がないの……」

 困らせたいわけではないのに、声が震えてどうにもならない。

 それ以上、一言でも何かを言ったら泣いてしまいそうで、月乃はぎゅっと唇を噛んで、俯いた。

 橋を行き交う人々は、すわ痴話喧嘩か?と興味津々で二人を眺めている。

 甘酒売りも、困った顔でこちらをうかがっている。貸した茶碗はいつになったら返ってくるのだろう……と気を揉んでいるのだろう。 


「……おらは、マタギだ」

 ややあって、銀作がようやく絞り出したのは、拍子抜けするほど今更な言葉だった。

「知っています」

「山の神様は、女どご嫌うんだ」

「それも知っています」

「徹底してんだ。マタギは山に入る七日前から女に触らね。水垢離みずごりをして、女の匂いを消す。どんなに狩りにもってこいの日和だって、女の夢を見たら山には入らね。んだんてだから、あんたがどんな人だったとしても……連れで行がねのが普通なんだ。本当は」

 ふと顔をあげると、銀作の首筋が目の前にあった。

 赤いどころではない。濃い桃色に染まっている。

 まさか……と思って目線をあげると、顔どころか、耳まで全く同じ色に染まっていた。

 茹蛸のような顔から湯気さえ立ちのぼらせながら、銀作は明後日の方へ視線を向けて、どうにかこうにか言葉を続けようとしている。

「つまり……それでも、あんたを追い払わねのは、おらが……おらが単に、あんたと……」


「お月ちゃぁあん!」

 どすん!と何かが目の前に降ってきて、銀作が視界から消えた。

 火噛が忠犬よろしく、満面の笑みを浮かべてお座りをしている。……銀作を下敷きにして。

 その口にくわえられたものを見て、月乃は思わず、あっと声をあげた。 

「お月ちゃん、ほらコレ!コレ、お月ちゃんのだよね?」

「ええ、確かに……探してきてくれたんですか?」

 紫色の、浜縮緬の御高祖頭巾。

 蚕の洞穴で失くしたはずのものだった。

「お月ちゃん、ずうっと新しい頭巾買わずにいるからさぁ。やっぱり前のが気に入ってたんだなって、取って来たんだよ。ね、嬉しい?俺、偉い?」

「ええ、ありがとう……大変だったでしょう?とっても、嬉しい……」

 赤くなった頬を隠すように、月乃はさっそく頭巾をまとう。

 身を切るような寒風がさえぎられ、ほかほかと体が温まって来た。

 はにかみながら笑って見せる。火噛は嬉しそうに、ぶんぶん尻尾を振って、その場で飛び跳ねた。下敷きにした人間が、つぶれた蛙のような声をあげているのにも気づいていないようだ。

「いいね!いいね!やっぱり、お月ちゃんには、その頭巾が一番似合うね!」

「ありがとう。……これね、初めて会った頃に、銀作さんが買ってくれたものなの。見つかって本当に良かった……」

「げ、そうなの?なんだよ、だったら適当に他の奴、見繕みつくろってくりゃあよかったなぁ!」

 不満そうに鼻を鳴らす火噛の巨体が、その時、ふわりと持ち上がった。

 あれ、あれ、と思う間もなく、もふもふの白い毛皮をまとった体が、ぽーんと川の中へと放り込まれる。銀作が満身の力をこめて投げ飛ばしたためである。

 ばしゃん!と派手な水しぶきがあがった。

 ややあって、ずぶ濡れになった火噛が川面に顔を出し、ぷーっと口から水を噴き出した。

「……ぶはっ!てめぇ、銀作!ふざけんなよ、このガキ!」

 止める間もなく、銀作もまた欄干らんかんを乗り越え、川に飛び込んでしまった。

 どぼん!と飛沫をあげたかと思うと、そのままの勢いで取っ組み合いを始めてしまう。

「ふざげてんのはどっちだ、このクソえんこえっかだいつも肝心などごで邪魔しくさって……!」

「ああ!?やんのか、このかっぺ野郎!」

 師走である。極寒の川である。

 わざわざその中に飛び込んで喧嘩をおっぱじめるなど、正気の沙汰ではない。


 月乃は腹の底からため息をつき、へなへなとその場にうずくまった。

「私、なんだか、難しく考えすぎていたみたい……」

 落ち着いた雰囲気によく騙されそうになるが、銀作だって危なっかしい所はたくさんあるのだ。それどころか、時々びっくりするほど子どもっぽい行動に出ることもある。ちょうど今がそうであるように。

「そういえば、出会った時にも大怪我をしていたっけ……」 

 この人は、誰かが見張っていないとすぐ無茶をする。そう確かに思ったことを思い出す。

 ならば、もう少し……せめて、当人からはっきり拒絶されるまでは、傍にいたって罰は当たらないだろう。とりあえず、上がって来た二人を湯屋に連れて行かねば。万一のために、風邪に効く薬も作っておいた方がいいかもしれない。

 にわかに晴れやかな気持ちになって、月乃は水しぶきをあげて暴れる二人を見下ろし、ふふっと笑い声をこぼした。



 終

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