第八章
養蚕は五〇〇〇年の歴史をもつ産業だといわれている。もともと東アジアに生息していた「クワコ」という昆虫を、家畜として品種改良したものが現在の蚕である。病気に強く、より多くの糸を吐く種をかけ合わせていった結果、成虫は
蚕の雌は一晩に五〇〇の卵を産む。幼虫は、初めは
幼虫は口から糸を吐いて
『彼女』もまた、本来であれば羽化の後、七日で尽きるはずの命であった。彼女が他の蚕と違っていたのは、飼育されていた場所の屋根板に隙間が空いており、夜ごと月の光を浴びて暮らしていたということである。
満ち欠けを繰り返す月は、古来より不死の象徴として伝えられてきた。その神秘の光を身に受けて育った彼女には、他の蚕にはない
彼女は子どもの頃からおのれの運命を知っていた。怯えながらも、本能のままに桑の葉を
運よく釜茹でを
しかし、死の恐怖から逃れても、彼女の憂いは消えなかった。おのれの生は尽きずとも、おのれの子ども達は端から釜に放りこまれたからだ。彼女の産んだ卵から孵った子どもたちは、とりわけ質の良い糸を吐いた。人間たちは喜び、嬉々として子ども達を釜茹でにし、その亡骸から産着をはぎ取った。
ある夜、彼女はついに養蚕農家から逃げ出した。山に逃れ、輝く満月の下で卵を産んだ。五〇〇に分かれるはずの命を一つに込めた、それは特別な卵だった。五〇〇〇年の歴史の中で、初めて人の手から離れて命をつないだのだ。歓喜に震え、むせび泣いた。
特別なその子は、口にするものも特別であった。桑の葉ではなく、生き物の血肉を欲した。もはや
しかし、愛する我が子には欠陥があった。いつまでたっても口から糸を吐くことがなかったのである。繭を作ることなく、日を追うごとに衰弱してゆく我が子を目の前にして、彼女は焦った。季節は秋に入り、冷たい風が吹き始めた頃であった。
「坊や、坊や。可愛い坊や。糸を吐くのよ。あなたならきっと、立派な蚕になれるわ」
何度そう呼びかけてみても、坊やは肥えた白い体をくねらせるばかりで、糸を吐こうとはしない。常の蚕とは違う。桑の葉ではなく、生き物の血をすすり、肉を食べて育ってきた子だ。ならば、常の蚕のように糸を吐かないのも道理かもしれない。生き物としてのありようが変わってしまったのだ。
「……それで悟ったのよ。この子は特別な子だから、大人になるためには特別な産着が必要なのだって。だったら今度は、人間から糸を取ってやろうと思ったのよ。今までさんざん、私の子ども達から産着を取り上げて、きれいな
女は語りながら御高祖頭巾に手をかけ、するすると解いた。
隠れていた頭部と、口元が露になる。
ふわふわとした短い毛に覆われた頭部。額からにょっきりと生えた触覚。口があるべきところには何もない。白目を持たない大きな複眼が、再び不気味な弧を描く。
月乃はにべもなく首を振った。
「ちっとも道理なんかじゃありませんよ。この人たちは養蚕なんかやっていません。絹の着物を着られるような身分でもありません。ただ毎日をつつましく、懸命に生きているだけの人たちです。あなたが人間に苦しめられたことは確かでしょうけれど、だからと言って、手近にいる無関係な人間を虐めていいという理由にはなりません。そんなのは復讐じゃない。ただの八つ当たりですよ」
「おだまりよ、小娘!」
蚕が凄んだ。洞穴をびりびりと震わせる
「子を産んだこともないくせに、生意気を言うんじゃないよ。八つ当たりだって?かまうもんか。可愛いあの子のためだったら、あたしはなんだってやってやるよ!」
蚕はじろりと視線を移し、月乃の後ろで震えている女たちに、さげずむような目を向けた。
「……それにしても、まったく恩知らずな女たちだねぇ。美人でもない。若さもない。これと言った取り柄も無いから、まともな仕事にもありつけない。どうせ、
蚕は女たちに向かって右手を突き出し、歪んだ笑みを見せた。
「今ならまだ許してあげるよ。その娘をよこしな。あんたたちはよく働いてくれたから、特別に命までは取らずにおいてあげる。たっぷりの
月乃は怯まなかった。銀作と火噛が、もうすぐ近くまで来ているはずだ。あと少しだけ時間稼ぎをすればいい……そう思っていた。
しかし、女たちは恐怖に耐えきれなかったようだ。女たちの中でもっとも年若い一人が、金切り声をあげて月乃に掴みかかった。不意を突かれた月乃の手から、薬湯の入った竹筒が飛んだ。
「あ……!」
「あ、あ、あたしは何も関係ないわよ!この女が勝手に騒いだの!お願い、許して!家へ帰してよぉお!」
「よしなさいよ、お
お久留が止めに入ったが、お静は月乃を容赦なく突き飛ばした。声をあげる間もなく、月乃の体は薬湯の結界の外へと放り出された。
すかさず蚕が動いた。着物の袖を
鋭い爪が腕に食い込み、思わず苦痛の声をもらす。蚕は月乃の顎を掴んでひねりあげると、痛みにゆがむその顔をうれしそうに覗き込んだ。
「お前、何を口にしたのか知らないけれど、ただの人間ではないね。肌から立ち上るこの芳香……傍にいるだけで傷が癒え、老いを若きに変えるような『
言い終えるなり、蚕は恐ろしい力で月乃を引きずり始めた。『坊や』とやらの所へ連れて行こうというのだろう。
連れていかれるわけにはいかない。女たちを残しておけないし、銀作たちに手間をかけさせたくはない。
「放してください……!」
身をよじり、必死で抵抗した。固い地面に爪をたてると、指の先に血がにじんだ。
蚕は苛立った声をあげ、月乃の頭巾を掴んだ。
「ああ、ああ、うっとおしいねぇ!いっそここで
「あ……!」
紫の御高祖頭巾がはらりと落ちた。露になった白い首筋に、筋張った蚕の手が沈み込む。
息がつまる。苦しい。「月乃さん!」と叫ぶお久留の声が遠く聞こえる。
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