第七章
湿った土の匂いの中に、何かが腐ったような
月乃はふっと目を開いた。
いつの間にか、暗い円形の洞窟のような場所に連れて来られていた。
少し離れたところに、十ほどの
お
「あそこです。参りましょう」
手燭の一つも無いというのに、白装束の女の姿は、暗闇の中でも異様なほどはっきりとよく見えた。鈍く発光する白い手に導かれるまま、月乃は足を進める。女の指がきつく手に食い込んでいて痛いほどだった。
その場所の様子がはっきりと見えた時、月乃は思わず息をのみ、足を止めた。
光って見えたのは燭台ではなく、
一方で、織機の前に座る女たちは、幽鬼のように青い顔をしていた。皆一様に落ちくぼんだ眼をしており、こけた頬にかかるほつれた髪には、白いものが混じっている。中には織機のそばに身を横たえ、起き上がれずにいる者さえいた。
思わずそちらに駆け出しかけた月乃を、白装束の女が押しとどめた。
「少し疲れているだけですよ。大事ありません」
「そんなはずありません!あんなに具合が悪そうじゃないですか」
「しばらく休めば、じきに身を起こしますよ。どの道、働けなければ家族ともども飢えるしか無い人たちです。何をするべきかは、おのれでわかってらっしゃいますよ」
「……
月乃が精一杯にらみつけても、女は動じない。眉月の瞳は、ますます嬉しそうに不気味な弧を描く。
しかし次の瞬間、女の眉間にしわが寄った。うっとうしい蠅でも追うかのように、
「……少々、外の様子を見て参ります。お久留さん、お月さんに仕事を教えてあげてね」
女はようやく月乃の手を放すと、闇の中に溶けるようにいなくなった。
月乃は痺れて感覚の無くなった手をさすり、小さく息をついた。
ここは
にわかに心細くなったが、立ち止まっている暇はない。動くなら今しかないのだ。横たわる機織り女に駆け寄った。
「もし!大丈夫ですか!?」
やせ細った身を抱きかかえ、耳元に声をかける。女は乾いた唇を微かに動かす。おそらく「大丈夫だ」と言ったのだろうが、息遣いしか感じられぬほど弱弱しい声だった。
焦る月乃をよそに、お久留は自分の機の前に座り、
―――これはいけない。思ったよりも、ずっと状態がよくない。
月乃は背に帯びた風呂敷包みを下ろし、手早く結び目を解いた。中には、薬湯をそそいだ竹筒が二本と、手拭いに包んだ小さな湯飲み茶碗がある。
竹筒の栓を抜くと、花のような芳香がふわりと立ち上った。胸のすっとするような爽やかな香りに誘われて、それまで一心に機を織っていた女たちが顔を上げた。
「皆さん、お疲れでしょう。元気になるお薬湯を差し上げます。どうぞ、召し上がってくださいな」
月乃は
「あら、いい香り……」
「思ったより飲みやすいのねぇ……」
「なんだか、体がぽかぽかするわね。疲れが抜けてゆくみたい……」
ほう……と、だれからともなく、吐息を漏らす。
幽鬼のようだった女たちの頬に、わずかに赤みがさしたように見える。
「ね、あまり根を詰めすぎると、かえって
月乃が手招きをすると、女たちは素直にうなずき、月乃を囲むようにして腰を下ろした。
互いに寄りかかり合い、ため息をついて
よし、と月乃は一人頷き、清潔な手拭いに薬湯をしみこませて、横たわる機織り女の口に含ませた。液体さえ受けつけがたいほどに衰弱しているのである。それでも、やさしく肩をさすってやると、心地よさそうに
介抱をしながら辺りに目をやると、織機に取りつけられた輝く織物が嫌でも目に入る。布の形をとっているのに、液体のようにとろりとしていて、さざ波が立つような不思議な光沢をたたえている。
「……皆さんは、いつからここでご奉公なさっているのですか」
平静を装いながら尋ねると、女たちは互いに顔を見合わせながら、ぽつぽつと話し始めた。ほんの数日前という者もいれば、
女たちの出自は様々だが、金に困って白装束の女の話に乗ったという点は共通していた。
お久留のようにつれ合いに先立たれたという者もいれば、病を得て普通の仕事ができなくなったという者や、理不尽な理由で婚家を追い出されたという者もいる。いずれものっぴきならない理由があり、口入屋にはまともに相手をしてもらえず、困っていた所に白装束の女が声をかけてきたという。
「……だけど、不思議ですね。
月乃の一言に、女たちはハッと小さく息を呑み、気まずそうに目を見交わした。
『鶴女房』は、罠にかかった鶴が人間の若者に命を救われ、その恩返しのために、人間の娘に姿を変えて嫁に来るという物語である。貧しい暮らしを助けるため、鶴は自らの羽を引き抜いて
「……そろそろ、仕事をしなくっちゃ。お月さんのそばにいたら、なんだか元気が出てきたみたい」
呟いたお久留はしかし、なかなか立ち上がろうとしない。羽をむしられた鶴のように、鳥肌のたった腕をさすりながら、怖ろしそうに織機を見つめている。
気づいたのだ。……というより、見えないふりをしてきた事実に、今一度向き合ったのだ。
何もない所から生まれ出る糸が、普通の糸であるはずがない。目に見えないだけで、あの織機は何かしらのものを女たちから奪い、それをもとに糸をつむぎ、布を織りあげているのだ。そしてそれは、やせ細り、身を起こすこともできなくなっている、目の前の同胞と無関係ではない。
この程度の推察は、正常な判断ができる状態であれば、誰でも思い至ったことであろう。困窮し、社会からもつま弾きにされた、追い詰められた状況が、女たちの目を曇らせていたのである。
その霧が晴れた。月乃は女たち一人ひとりの目を見て、うなずいた。
「ここから出ましょう。私の連れが、すぐそこまで迎えに来ているはずです」
その時―――
「何をなさっておいでです」
白装束の女が戻ってきていた。真っ白な御高祖頭巾から覗く一対の瞳が、不快げに歪められている。
「誰が手を止めてよいと言いましたか。怠け者に出すお給金はありませんよ」
それまでの優し気な口調とはうって変わった、
怯えて立ち上がりかけた機織り女たちを手で制し、月乃は一人、すっと立ち上がった。
手には例の、薬湯をつめた竹筒が握られている。
「何を……」
言いかけた白装束の目の前で、月乃は竹筒の栓を抜き、自分と機織り女たちのまわりに、ぐるりと薬湯を撒いた。とっさに、こちらへ駆け寄りかけた白装束は、「うっ」と両手で口元をおさえてその場に立ちすくんだ。
わずかにのぞく目元の皮膚が、青く染まっている。身につけた衣が、ざわりと毛羽立ったように見える。
「お前……何を……!」
「あなたがこの方たちに害をなすことさえなければ、私もあなたを苦しめようとは思わなかったのだけれど……」
月乃は口を開けたままの竹筒を、ずいと白装束の方に突き出した。飲み口からぽとりと垂れた薬湯を見て、女はますます後ずさる。
「私はただの薬売りです。連れと違って、不可知のものを清め払うような、特別な力はありません。けれど、相手の正体を知りさえすれば、策を講じることくらいはできる。
この世には、人にとっては無害でも、人ならざる者にとっては毒になる薬草が沢山あるのです。命が惜しければ、それ以上私たちに近づかないほうが身のためですよ」
手掛かりとなったのは、太一の小袖に残っていた白い粉。そして、女の目の中に見えたという、六角形の薄い筋。白装束と、御高祖頭巾で隠した口元。
なにより、糸を紡がせ、織を織らせることによって命を削る、そのやり方が気になった。それは恐らく、
そこで、生薬の中に
月乃は言った。
「あなたは
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます