第七章

 湿った土の匂いの中に、何かが腐ったようなえた匂いが混じっている。

 月乃はふっと目を開いた。

 いつの間にか、暗い円形の洞窟のような場所に連れて来られていた。

 少し離れたところに、十ほどの織機しょっきが並べておかれており、六人ほどの女たちがはたを織っているのが見える。そちらには燭台があるのか、ぼんやりとした光に包まれていた。

 お久留くめの話では、仕事場は『立派な門と庭のある大きな屋敷』だったはずだ。彼女の目には、今もこの場所がそんな風に見えているのだろうか。

「あそこです。参りましょう」

 手燭の一つも無いというのに、白装束の女の姿は、暗闇の中でも異様なほどはっきりとよく見えた。鈍く発光する白い手に導かれるまま、月乃は足を進める。女の指がきつく手に食い込んでいて痛いほどだった。


 その場所の様子がはっきりと見えた時、月乃は思わず息をのみ、足を止めた。

 光って見えたのは燭台ではなく、に絡みつく輝く糸と、その糸によって作られる織物だった。女たちの指先から紡ぎ出される糸が、とろけるようにやわらかな織物へと恐ろしい速さで織り上げてゆく。

 一方で、織機の前に座る女たちは、幽鬼のように青い顔をしていた。皆一様に落ちくぼんだ眼をしており、こけた頬にかかるほつれた髪には、白いものが混じっている。中には織機のそばに身を横たえ、起き上がれずにいる者さえいた。

 思わずそちらに駆け出しかけた月乃を、白装束の女が押しとどめた。

「少し疲れているだけですよ。大事ありません」

「そんなはずありません!あんなに具合が悪そうじゃないですか」

「しばらく休めば、じきに身を起こしますよ。どの道、働けなければ家族ともども飢えるしか無い人たちです。何をするべきかは、おのれでわかってらっしゃいますよ」

「……非道ひどい」

 月乃が精一杯にらみつけても、女は動じない。眉月の瞳は、ますます嬉しそうに不気味な弧を描く。


 しかし次の瞬間、女の眉間にしわが寄った。うっとうしい蠅でも追うかのように、胡乱うろんな瞳で頭上を見上げた。

「……少々、外の様子を見て参ります。お久留さん、お月さんに仕事を教えてあげてね」

 女はようやく月乃の手を放すと、闇の中に溶けるようにいなくなった。

 月乃は痺れて感覚の無くなった手をさすり、小さく息をついた。

 ここはあやかしの巣のただ中だ。銀作も火噛も、今はそばにいない。

 にわかに心細くなったが、立ち止まっている暇はない。動くなら今しかないのだ。横たわる機織り女に駆け寄った。

「もし!大丈夫ですか!?」

 やせ細った身を抱きかかえ、耳元に声をかける。女は乾いた唇を微かに動かす。おそらく「大丈夫だ」と言ったのだろうが、息遣いしか感じられぬほど弱弱しい声だった。

 焦る月乃をよそに、お久留は自分の機の前に座り、かれたように黙々と機を織り始めている。感覚が麻痺し、異常を異常として感じられなくなっているのだ。

 ―――これはいけない。思ったよりも、ずっと状態がよくない。

 月乃は背に帯びた風呂敷包みを下ろし、手早く結び目を解いた。中には、薬湯をそそいだ竹筒が二本と、手拭いに包んだ小さな湯飲み茶碗がある。

 竹筒の栓を抜くと、花のような芳香がふわりと立ち上った。胸のすっとするような爽やかな香りに誘われて、それまで一心に機を織っていた女たちが顔を上げた。

「皆さん、お疲れでしょう。元気になるお薬湯を差し上げます。どうぞ、召し上がってくださいな」

 月乃は怖気おじけを振り払って笑顔をつくると、湯呑に半分ほどの薬湯をそそぎ、女たちに順々に配っていった。女たちは戸惑いながらも、月乃の笑顔と薬湯の香りに誘われて、おずおずと茶碗に口をつけてゆく。

「あら、いい香り……」

「思ったより飲みやすいのねぇ……」

「なんだか、体がぽかぽかするわね。疲れが抜けてゆくみたい……」

 ほう……と、だれからともなく、吐息を漏らす。

 幽鬼のようだった女たちの頬に、わずかに赤みがさしたように見える。

「ね、あまり根を詰めすぎると、かえってはかどりませんよ。こちらへいらして、一服しませんか」

 月乃が手招きをすると、女たちは素直にうなずき、月乃を囲むようにして腰を下ろした。

 互いに寄りかかり合い、ため息をついて瞑目めいもくする。うつらうつらと船をこぐ者もある。

 よし、と月乃は一人頷き、清潔な手拭いに薬湯をしみこませて、横たわる機織り女の口に含ませた。液体さえ受けつけがたいほどに衰弱しているのである。それでも、やさしく肩をさすってやると、心地よさそうに愁眉しゅうびをひらいた。小さく口を動かしたように見える。子どもの名前かもしれない。

 介抱をしながら辺りに目をやると、織機に取りつけられた輝く織物が嫌でも目に入る。布の形をとっているのに、液体のようにとろりとしていて、さざ波が立つような不思議な光沢をたたえている。

「……皆さんは、いつからここでご奉公なさっているのですか」

 平静を装いながら尋ねると、女たちは互いに顔を見合わせながら、ぽつぽつと話し始めた。ほんの数日前という者もいれば、二月ふたつきほど前からだと言う者もいる。一番古株なのは、月乃の膝で寝息を立てている、もっとも衰弱した機織り女だった。

 女たちの出自は様々だが、金に困って白装束の女の話に乗ったという点は共通していた。

 お久留のようにつれ合いに先立たれたという者もいれば、病を得て普通の仕事ができなくなったという者や、理不尽な理由で婚家を追い出されたという者もいる。いずれものっぴきならない理由があり、口入屋にはまともに相手をしてもらえず、困っていた所に白装束の女が声をかけてきたという。

「……だけど、不思議ですね。から、あんなにきれいな糸が出てくるなんて。それに、とってもきれいな織物。まるで、昔話の『鶴女房』みたい」

 月乃の一言に、女たちはハッと小さく息を呑み、気まずそうに目を見交わした。

 『鶴女房』は、罠にかかった鶴が人間の若者に命を救われ、その恩返しのために、人間の娘に姿を変えて嫁に来るという物語である。貧しい暮らしを助けるため、鶴は自らの羽を引き抜いてはたを織る。彼女の織る美しい反物は高値で売れるが、毎夜血を流して機を織り続ける女房は、日に日にやつれて弱ってゆく。ちょうど、今の女たちのように……

「……そろそろ、仕事をしなくっちゃ。お月さんのそばにいたら、なんだか元気が出てきたみたい」

 呟いたお久留はしかし、なかなか立ち上がろうとしない。羽をむしられた鶴のように、鳥肌のたった腕をさすりながら、怖ろしそうに織機を見つめている。

 気づいたのだ。……というより、見えないふりをしてきた事実に、今一度向き合ったのだ。

 何もない所から生まれ出る糸が、普通の糸であるはずがない。目に見えないだけで、あの織機は何かしらのものを女たちから奪い、それをもとに糸をつむぎ、布を織りあげているのだ。そしてそれは、やせ細り、身を起こすこともできなくなっている、目の前の同胞と無関係ではない。

 この程度の推察は、正常な判断ができる状態であれば、誰でも思い至ったことであろう。困窮し、社会からもつま弾きにされた、追い詰められた状況が、女たちの目を曇らせていたのである。

 その霧が晴れた。月乃は女たち一人ひとりの目を見て、うなずいた。

「ここから出ましょう。私の連れが、すぐそこまで迎えに来ているはずです」


 その時―――

「何をなさっておいでです」

 白装束の女が戻ってきていた。真っ白な御高祖頭巾から覗く一対の瞳が、不快げに歪められている。

「誰が手を止めてよいと言いましたか。怠け者に出すお給金はありませんよ」

 それまでの優し気な口調とはうって変わった、居丈高いたけだかな語調で女たちに詰め寄ってくる。

 怯えて立ち上がりかけた機織り女たちを手で制し、月乃は一人、すっと立ち上がった。

 手には例の、薬湯をつめた竹筒が握られている。

「何を……」

 言いかけた白装束の目の前で、月乃は竹筒の栓を抜き、自分と機織り女たちのまわりに、ぐるりと薬湯を撒いた。とっさに、こちらへ駆け寄りかけた白装束は、「うっ」と両手で口元をおさえてその場に立ちすくんだ。

 わずかにのぞく目元の皮膚が、青く染まっている。身につけた衣が、ざわりと毛羽立ったように見える。

「お前……何を……!」

「あなたがこの方たちに害をなすことさえなければ、私もあなたを苦しめようとは思わなかったのだけれど……」

 月乃は口を開けたままの竹筒を、ずいと白装束の方に突き出した。飲み口からぽとりと垂れた薬湯を見て、女はますます後ずさる。

「私はただの薬売りです。連れと違って、不可知のものを清め払うような、特別な力はありません。けれど、相手の正体を知りさえすれば、策を講じることくらいはできる。

 この世には、人にとっては無害でも、人ならざる者にとっては毒になる薬草が沢山あるのです。命が惜しければ、それ以上私たちに近づかないほうが身のためですよ」

 手掛かりとなったのは、太一の小袖に残っていた白い粉。そして、女の目の中に見えたという、六角形の薄い筋。白装束と、御高祖頭巾で隠した口元。

 なにより、糸を紡がせ、織を織らせることによって命を削る、そのやり方が気になった。それは恐らく、あやかしが間近で見てきたからこそ真似ることができた、人間の営みであったのだろう。

 そこで、生薬の中に薫衣草くのえそうを混ぜた。この花の強い芳香は、人の心を落ち着かせる力をもつが、昆虫の多くが苦手とするものである。

 月乃は言った。

「あなたはかいこあやかしですね。子ども達の産着うぶぎたるまゆを奪う人間を恨み、今度は人間の魂を削って、産着を織ろうとしたのではありませんか?」

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