第六章
(※これより先、やや残酷な描写を含みます。ご注意ください。)
――――
広場に足を踏み入れた瞬間、ぶわっ!と熱風が全身を包んだ。
「わっ……!」
息もできないほどの熱気に包まれ、思わず目と口をふさぐ。
気がつくと太一は、ぐらぐらと煮立つ大釜の中にいた。
立ち込める熱気と臭気。
ぼこぼこと泡立つ熱湯。
それだけではない。湯の中には太一以外にも大勢の子供たちがいた。太一よりずっと幼い子どもたちだ。
真っ赤に火照り、眼球の
『あつい』
『あついよう』
『おっ
ごつん、と何か硬いものが太一の肩にぶつかった。湯がかれて硬くなった幼子の亡骸だった。両手をあわせ、目を閉じて水面を漂うその姿は、まるで石の仏のようだった。
悲鳴をあげれば、口の中に熱湯が流れ込んだ。
息ができない。
体中の血管が破裂しそうだ。
自分の皮膚が、とろけて骨から落ちてゆくのを感じる。
太一は叫び、他の子ども達と同様、泣きながら両親を呼んだ。
「おっとう、おっかあ!どこにいるの?助けてよぉ!」
いくら叫んでも、助けは来ない。
父は死んだ。母は
絶望が胸を浸す。喉を焼く熱に喘ぎながら、太一は釜の底へと引きずり込まれていく……
その時、力強い手に腕をつかまれた。清涼な風が吹き込み、太一の体は釜の中から、ぐいと引き揚げられる。
「……ぶあっ!」
硬く冷たい土の上に膝をぶつけた。
咳き込みながら湯を吐いたつもりだったが、口から出てきたのは何ということもないおのれの唾だけだった。
身につけた着物も乾いている。
顔を上げれば、そこはもとの山の中だった。
銀作が太一の腕をつかんでいる。
「オモテノメクギハ セイオウカ
ウラノメクギハ ダイオウカ
ツバハ ハシタノダイミョウジン
ハモトハ シロヤマダイゴンゲン……」
銀作は口の中でぼそぼそと呪文のようなものを唱えていた。左手には
太一は知らなかったが、マタギは独自の信仰を持ち、秘伝の唱え言葉をいくつも知っていた。山の中で災難に遭いそうになった時は、この言葉を唱えることによって穢れを払い、難を逃れることができると信じられていた。
「コレニテワレニ アオウトスルノジノブシ
ケダモノハタツカラン
ナム アビランケン ソワカ……」
同じ言葉を三度唱え終えると、銀作は、ふー……っと静かに息をつき、目を閉じた。
辺りが静寂に包まれる。太一は夢から覚めるように、ハッと我に返った。
両手で自分の頬に触れる。どこも
―――『
聞き覚えのある声がした。
見ると、広場の中央に、白装束のあの女が立っている。
―――
女は醜く顔をゆがめると、
「しっがりしねが!」
いきなり銀作に怒鳴りつけられた。脱力してうずくまっていた太一は、雷にうたれたように、ピン!と直立する。
銀作は正面から太一を見据えていた。鋭い三白眼が射るようにこちらを睨んでいる。
銀作の身丈は、五尺と五寸に足りない(約165センチ)程度。日本人の平均身長が歴代最低だったとされる江戸時代と言えど、幕末には六尺(180センチ)を超える者が何人もいたというから、特別大男というわけでもない。にもかかわらず、今は仁王像より巨大に見える。
「助げでぐれじゃねべ!おめが母っちゃどご助けに来たんだべ!?この期に及んで、ぴいぴい騒ぐな!みっだぐねぇ!」
「ご、ご、ご、ごめんなさい……!」
訛りがきつくて半分くらいしかわからないが、叱られているのだということはよくわかる。
半べそをかきながら謝ると、銀作は勢いよく息を吐きだし、気合を入れるようにバシン!と太一の背中を叩いた。
口から胃が飛び出すかと思った。
毛穴の奥までビリビリ痺れるほど痛い。
……だが、お陰で気持ちが引き締まった。涙も引っ込んだ。
「いっ……今のは一体なんだったんですか……?」
なかなか引かない背中の痛みをこらえながら尋ねる。
「幻だ」
鋭い眼で辺りを見回しながら、銀作は打って変わって落ち着いた声で言う。
見間違いではない。やはりその両目は、不知火を宿したように青白く光っている。
「この辺りに、見られだぐねぁもんがあんだべ」
「見られたくないもの……?」
「ここだな」
答えたのは火噛だった。一本の大きな古木の根本に鼻先を寄せ、においを嗅いでいる。
「この下からお月ちゃんの匂いがする。さっすが、お月ちゃんだ。目印もちゃんと残してるぜ」
火噛の鼻先に落ちていたのは、白く可憐な小さな花……
火噛は一歩退くと、「おい」と銀作を振り返り、大きな口を開けた。銀作がうなずき、
赤々と燃える松明が宙を舞い、大口を開けた狼にばくりと食べられる。火噛はしばし、がぶがぶと炎を咀嚼したかと思うと、古木に向かって「ぶう!」と噴き出した。
「うわあ!」
火噛の息吹に乗って何十倍にも膨れ上がった炎が、ごうっ!と古木を包み込む。炎は大木を瞬時に燃やし尽くし、やがて火噛が「ひゅう!」と息を吸い込むと、幻のように消えてしまった。
「ここだな」
「ああ」
銀作たちの視線を追い、太一もその燃え跡を恐る恐る覗き込む。
そこには、大人一人がやっと通れそうなほどの穴が、ぽっかりと口を開けていた。
「おっとぉ……?」
火噛が不意に面白がるような声をあげた。ゆっくりと一、二歩後ずさり、静かに毛を逆立てる。
「あの女、どうやら置き土産を残していったようだなぁ」
木立の奥で、闇がうぞりと不気味に蠢いた。月明りに照らされたそれらが、昼間自分を追いかけてきた
銀作は背に負うていた火縄銃を下ろし、腰の
銀作は弾丸の一つを取り出すと、カルカを使って胴薬とともに手早く銃身の奥へと押し込んだ。火皿に口薬を盛り、火蓋を閉じ、火縄を火ばさみに取りつける。
瞬間、火縄の先に、ぼっと青い炎がひとりでにともった。メラメラと燃え立つ不知火のような炎を、太一は唖然として見つめた。
銀作はカラクリ(機関部)の横の辺りを、トントンと優しくたたいている。何の意味があるのかはわからないが、太一の目には「力を貸してくれ」と鉄砲に伝えているかのように見えた。
「……落ぢ着げ。取り乱して駆げ出したら、守ってやれなぐなる。おらの後ろがら出るな」
低い声で言われ、太一はハッとした。ぎゅっと拳を握る。
不思議なことだらけで混乱していたが、この先はきっと、もっと危険なことがある。
しっかりするんだ。何があっても、二度と取り乱したりしない。そうでなければ、おっ母を助け出せない。
決意をこめて大きく頷く。
銀作が火縄銃を構える。
闇から無数の怪物が躍り出てきた。
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