第四章
「怖かったけど、やっぱりもう一度あの屋敷を探そうと思って、今度は真昼間に山に登ったんだ。そしたら、何だか黒くて大きなものに追っかけられて……」
「それで、一人でこんな山奥にいたのね」
月乃がいたわるように、優しくうなずいてくれる。その膝で、白犬が大きなあくびをする。
銀作は腕組みをして、何事か考えているようだ。
「銀作さん……」
月乃がもの言いたげな目で銀作を見つめる。銀作はなおも目を伏せて考えに
月乃はまろやかな笑顔を浮かべて太一に向き直る。
「ね、太一ちゃん。やっぱり私達、お家に行くわ。お母さんのこと、どうやって助けるか、一緒に考えましょう」
「でも……」
ためらっていると、月乃は「大丈夫」と太一の手を包み込むように握った。色白だがやわらかく、血の通った人の手だ。桃色の指先にやさしく手をたたかれて、太一はこみあげてくる涙をぐっと押し込めながらうなずいた。
銀作は残った肉をみんな犬にやってしまうと、火の始末をして立ち上がった。そして、なにやら火縄銃のカラクリ部分をいじったあと、大判の風呂敷に包んで立ち上がる。
「お月さん」
目の前に風呂敷包みを差し出され、月乃は少し面食らったように、大きな眼を瞬かせた。
「いいんですか?」
「火薬と火ばさみは除いてある。頼む」
「そういう意味じゃないんですけど……」
月乃は何やらもの言いたげに銀作を見返していたが、やがて神妙に頷くと、細腕に力をこめ、大切そうに包みを抱えた。
銀作は太一のそばに来ると、背中を向けて、すっとかがみこんだ。ふわふわとした犬の毛皮を羽織った背中である。
「……おぶされ」
太一が戸惑っていると、ぶっきらぼうな声で言う。慌ててしがみついた。獣と、火薬の匂いがする背中だった。
「お家までの道、わかる?」
月乃に微笑まれ、太一はうなずいて、言葉と指さしで案内を始める。白犬がのっそりとたちあがり、一行の先駆けを務めるように、てくてくと先頭を歩き始めた。
―――
おひとぉつ落として おさら
おふたぁつ落として おさら
みぃっつ落として おさら
お手じゃみ お手じゃみ おさら ……
軽やかなわらべ歌が、そよ風のように耳をくすぐる。
疲労で冷たくこわばっていた体から、ふうっと力が抜けるようで、お久留は微笑みながら目を開いた。
幼い娘たちの笑い声が聞こえる。あんなに楽しそうに笑うのはいつぶりだろう。
夫が
「おっ母さん、起きた!」
体を起こすと、末娘のおゆうが膝に飛び乗って来た。遅れて、上の娘のおふみもお手玉を手にやってくる。おふみは7つ、おゆうは5つ。二人とも、まだまだ母が必要な年ごろだ。
「あのね、太一
「姉様にお手じゃみしてもらってたの」
「姉様……?」
霞む目をこすりながら顔を上げ、お久留は初めて、見知らぬ娘がいることに気づいた。
紫の
「月乃と申します。お休みの所、勝手にお邪魔して申し訳ありません」
「あ……あらあらあら……」
つられてお久留も座りなおす。やわらかな甘い声は、先ほどのわらべ歌と同じだ。所作の一つ一つが、どこぞの大店のお嬢さんかと思うほどに洗練されている。小さな手はあかぎれ一つなく滑らかだ。かような娘が一体なぜ、かようなおんぼろ長屋にいるのだろう。
「ええと、月乃さんでしたっけ?うちの太一のお客さんだっていうのは一体……」
「おいらを助けてくれたんだよ」
太一が湯気のたつ茶碗を運んでくる。片足を引きずっているのを見て、お久留の顔から血の気が引いた。
「太一!あんたどうしたんだい、その足は!」
「ちょっと転んでひねっただけだよ。お月さんが手当てしてくれたから、もうほとんど痛くないんだ。お月さんはね、薬屋で奉公してたことがあるんだって。これ、おっ母の疲れが取れるようにって、お月さんが煎じてくれたんだよ」
差し出された薬湯を、おずおずと手に取る。吹き冷ましてすすると、ふわりと爽やかな芳香が鼻に抜け、すーっと胸が軽くなったような気がした。じわりと腹がぬくまり、こわばっていた肩から力が抜ける。
「息子が本当にお世話になって……一体どう御礼したらいいやら……」
お久留がぺこぺこと頭を下げると、月乃は一瞬、物憂げに目を伏せた。ややあって、何か心に決めたように、まっすぐにお久留を見つめてくる。
「あの……お久留さん。実は、折り入ってお願いがあるんです」
聞けば、月乃はもといた奉公先の主人に乱暴されそうになり、それを拒んで逃げてきたのだという。それ以来、大人の男が怖くなってしまい、新しい奉公先を探すにも難儀している。故郷は貧しい村で、帰っても居場所はない。ほとほと困り果てていた所で、偶然太一と出会い、お久留の仕事の話を聞いたのだという。
「お勤め先は女性ばかりで、たいそうお給金もよいのだと太一さんから聞いております。
「まぁ……」
なるほど、やたらに品が良いと思ったのは、大店に勤めていた経験からか。ここに至った経緯には同情できるし、なかなか仕事が見つからない苦しさはお久留にもわかる。
深くうなずいた。
「それはお困りでしょうね。私の立場じゃ確かなことは言えないけれど、奉公先の方に紹介することくらいのことはできますよ」
「ありがとうございます、お久留さん……」
月乃は瞳をうるませ、お久留の手を握って何度も礼を言った。
不思議なことに、月乃の手に触れた途端、疲れが和らぎ、体がふわりと軽くなったような気がした。
―――
その晩、いつもの通りに白装束の女が、お久留を迎えにやって来た。お久留は月乃を紹介し、働きたがっている
「まぁぁ……っ」
女は月乃を見ると、妙に弾んだ高い声をあげた。大きな瞳が眉月のごとくに細くなり、にたりと形容するのがぴったりの笑みを浮かべる。その変化に、お久留はぞくりと背筋が寒くなるのを感じた。
「まぁまぁ、これは、素敵なお嬢さんだこと……きっと、誰より美しい糸の『
女はついと白い手を伸ばすと、月乃の頬を両手に包み、かぶりつくかと思うほどに顔を近寄せた。鼻先が触れ合いそうな距離である。
月乃は動じない。小首をわずかに傾げて、
女はようやく体を引くと、両手に月乃とお久留の手を取った。
「さぁさぁ、こうしてはおれませぬ。早くお二人をお連れしなければ。ああ、嬉し……きっとまもなく、素敵な産着が織り上げられることでしょうね……」
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