第二章

 太一は心地よい夢の中にいた。

 虹色の湯の中に浮かんでいるように、ふわふわとして温かい。

 おまけに花のようないい匂いまでする。

 意識が浮上しかけるのがわかったが、まだこの心地よい眠りの中にいたくて、太一は寝返りをうった。

 頭の下にある、やわらかい枕に頬をすりつける。


「そりゃあねえよぅ、お月ちゃん。なんだって俺がそんな窮屈なこと……」

「怖がらせるわけにはいかないでしょう。ね、お願い。ほんのちょっとの間でいいから」

「……ったく、しょうがねぇなぁ」


 夢うつつに男女の声を聞いた。太い男の声と、軽やかな女の声だ。

 太一は、ぱちりと目を開いた。まだ眠っていたいと思っていたはずなのに、声につられてうっかり目を開いてしまったのである。目覚めた途端、体のあちこちが痛みだす。

「あら、目が覚めたのね」

 目の前に、あの観音様がいた。

 唇がやわらかく弧をえがく、優しい微笑み。甘露のように甘い声。

 太一は自分が観音様の膝を枕にしていたことに気づき、慌てて体を起こした。

「いてぇ!」

 瞬間、右足首がずきんと痛んだ。見ると、木の枝とさらし木綿もめんで固定されているが、赤子の拳を埋め込んだようにひどく腫れている。さっき、木の根でつまづいた時にくじいたものらしい。夢と現実の境があやふやで、太一はふと、めまいを覚えた。

「無理して動いちゃだめよ」

 ふらついた太一の体を、観音様が抱えるようにして支えてくれた。やわらかくて甘い匂いがふわりと鼻先にただよい、たちまち太一は夢見心地になった。心なしか、足の痛みさえ軽くなったように感じる。

「か、か、観音様……?」

 思わず口走った言葉に、観音様は少女の顔をしてくすくすと笑った。

「私は月乃。薬売りをしているの。坊や、お名前は?」

「太一……」

 太一は頬を染めながら月乃から身を離す。観音様なら良くても、知らない姉やさんの膝に頭を載せて眠りこけていたかと思うと、急に恥ずかしくなってきた。


 咳払いが聞こえた。月乃のではない。もっと野太い声だ。それを聞いて、ようやく辺りを見回す余裕ができた。

 男が一人、焚火の傍に座っていた。竹串に刺した肉のようなものを、黙々と焼いている。手拭いの上から菅笠をかぶり、俯き加減でいるので、顔がよく見えない。しかし、肩から羽織った白い犬の毛皮や、傍に立てかけられた年季の入った火縄銃からして、猟師であることは間違いなさそうだ。この男が、さっき月乃と話していたのだろうか。そうだとしたら、口調と本人とで随分雰囲気が違う。

 焚火を挟んだ男の向かい側には、大きな白い犬がいる。それなりに年を取っているのか、ふさふさの体毛の下で両の目をしょぼつかせており、猟犬にしてはいかにも愚鈍そうだ。

 さっきの夢が現実なのだとしたら、おそらくこの男があの化物を追い払ってくれたのだろう。太一は居住まいを正して、おずおずと礼を言った。

「あ……あのう、助けてくれてありがとうございます。おいら、なんだかでっかい、熊みたいなのに追っかけられてて……」

イタズじゃねぇ」

 だしぬけに男が口をきいた。ぶっきらぼうだが、思いのほか張りのある若い声だ。やはり、さっき聞いた声とは違う。

 男が笠と手拭いを取り、こちらに顔を向けた。太い眉に、切れ長の鋭いまなざし。褐色の肌はつるりとしていて髭も皺もなく、ふさふさとしたこわい髪を無造作にひとつに束ねている。妙にどっしりとした貫禄があるので落ち着いて見えるが、実際の年は二十歳そこそこといった所だろう。

イタズは人を食わねが、あれはおどご食うだめに追っかげでだべ」

 東北訛りの低い声で、淡々と怖いことを言う。

 男は肉串の一本を抜いて焼け具合を確かめると、おもむろに犬の方へ放った。犬は、ばぐん!と大口を開けて肉に食らいつき、器用に竹串だけを残して、ぷっと吐き捨てる。その食べっぷりに、眼前に迫る化物の大口を思い出し、ぞうっと鳥肌がたった。

「銀作さん、だめですよ。あんまり脅かすようなこと言っちゃ」

 穏やかな口調で、月乃が軽くたしなめる。男は意外そうに眉を上げた。

「怖ぇか?」

「怖いです。みんながみんな、銀作さんみたいに、豪胆なわけじゃないんです」

 幼子に言って聞かせるような口調だが、月乃のやわらかな声で言われると、なんだか胃の辺りがくすぐられるような甘い心地を覚える。叱られているはずの男が、なぜだか羨ましくなる。

 男は、ふうん、とわかったような、わからぬような返事をして、再び焚火に目を移した。

「こちらは銀作さん。羽州うしゅうから来たマタギ猟師なの。さっきの怖いものも、銀作さんが退治してくれたのよ」

 『マタギ』とは、主に東北や北海道などにおいて、独自の信仰と狩猟法を持ち、集団で狩りを行う者たちの呼び名である。特に秋田県の阿仁はマタギの故郷として有名だ。その歴史は平安時代にさかのぼるほど古く、かつては弓矢を用いたものと思われるが、江戸時代以降は火縄銃、明治以降は村田銃にと、徐々に得物を変えていったといわれている。

 マタギという言葉の由来は、猟師を意味する「山立やまだち」がなまったものだとか、アイヌ語由来だとか、「鬼」よりも「また」強いから「又鬼」だとか様々な説があるが、はっきりとはわかっていない。

 この時代、「旅マタギ」といって、故郷の村を出て狩猟の旅に出るマタギは珍しくなかった。というのも、『マタギのような秀でた猟師たちがひとところに集まっていては、故郷の熊をあっという間に獲りつくしてしまうから』だというから、恐ろしい話だ。熊は一頭から大量の肉と毛皮を取ることができ、特にその胆嚢たんのうは良薬として珍重され、高値で取引されていた。

 月乃が紹介しても、銀作本人は会釈の一つもしない。怒ったような顔で炎を睨み、むっつりと押し黙っている。

 さて、そうなると、今炎で焼かれているものが何の肉なのか気になってくる。まさか、それがさっきの……と顔を青くした太一に、「あれはただの兎さん」と月乃は微笑んだ。

「お二人は夫婦なんですか?」

 はじめはてっきり父娘おやこかと思ったが、銀作の顔を見た後では、それくらいが妥当かと思える。月乃は笑って首を横に振った。

「そういう風に思われることは多いけど、違うの。私は色々あって身寄りをなくしてしまったから、以前お世話になった銀作さんにお願いして、お仕事のお手伝いをさせてもらっているだけ。ね、銀作さん」

 銀作は答えない。そっぽを向いて、頬の辺りをぽりぽり搔いている。ほとんど無視されているようなのに、月乃は全く気にする素振りを見せない。どうやら機嫌が悪いのではなく、もともと愛想がなくて口が重い男のようだ。

「それにね」不意に月乃が声を低くし、太一の耳に唇を近づけた。耳にふっと息がかかり、太一はびくりと緊張する。

「私ね、こう見えて銀作さんより、ずう……っと年上なのよ。おばあちゃんって言ってもいいくらいの年なの」

「……うそだぁ」

 どぎまぎしながら、太一は赤くなった耳をごしごしこする。月乃はどう見ても二十歳を越えない姉様あねさまにしか見えなかった。

 月乃は優美に微笑む。美しいが、底の知れない笑みだ。


 ふん、と頬に獣の息がかかった。

 気がつくと、さっきの白犬がすぐ目の前にたたずんでいた。犬はおもむろに白い巨体を月乃と太一の間に割り込ませると、月乃の膝に頭をのせて、ゆうゆうと寝そべった。四肢を伸ばし、くわぁんと大きなあくびをする。自分の縄張りだとでも言わんばかりに。

 月乃はため息をつき、犬の耳をふにふにと撫でてやる。やわらかそうな白い指に耳を揉まれて、犬は満足そうに喉を鳴らす。

「長寝はダメよ。食事がすんだら、この子をお家まで送って行かなくちゃならないんだから」

 ごく自然に言われたその言葉に、太一は慌てる。

「い……いいよ」

「遠慮しないで。その足じゃ満足に歩けないでしょう」

「大丈夫……いや、本当はおいらこそ、皆さんをうちに呼んでお礼の一つもしなくっちゃいけないんだけど、でも……」

 上手く言葉で説明することができなくて、太一はぐっと押し黙った。同時に、日ごろこらえていた不安や切なさが溢れそうになり、つんと鼻の奥が痛くなるのを、唇を引き結んでこらえる。

「……何か心配事があるの?」

 そっと月乃の手が肩にかかった。心をとかすような優しいまなざしが、太一を見つめている。銀作と犬までが、今や太一を注視していた。

 こらえていたものが決壊した。言葉を発すると、自然と涙がこぼれた。

「助けて……このままじゃ、おっかあが死んじまう……!」

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