第一章

 一八六五年、慶応元年、霜月の末。

 およそ十年前に黒船が浦賀の港を訪れて以来、諸外国からの圧力を受け、日本国内が尊王攘夷派と公武合体派とに二分され、大きく揺れていた時代である。

 といっても、この物語を読む分には、小難しい歴史的事情はひとまず横に置いておいてよい。わざわざ年代について触れたのは、この話が少なくとも、科学の発達した現代日本を舞台としたものではないのだということを、読者諸兄姉に承知しておいてもらいたいという、ただそれだけの理由によるものである。


 物語は、太一というごく普通の町人の子が、東国のとある山中で怪異と出会うところから始まる。

 山の中で、太一は何かに追われていた。

 黒く、大きく、ぶくぶくと太った毛深い何かが、身の毛のよだつような雄たけびを上げて襲ってきていた。

 太一は走った。

 追いつかれたら最後、喰い殺されてしまうと本能が告げていた。

 死にもの狂いで急な斜面を駆け下りる。

 太い木の根に足を取られ、太一の体は宙に投げ出された。

 とっさに両腕で顔をかばう。

 地面に叩きつけられ、弾み、茂みに突っ込んだ。

 鋭い小枝が皮膚を裂き、血がにじむ。とりわけ足を強かに打ちつけた。

 すぐそばで化物ばけもののうなり声が聞こえる。

 もう駄目だ……そう思った時、太一は茂みの向こうに、不思議な光景を見た。


 一人の娘が大樹の木陰に座していた。

 淡黄色の無地の着物に、浜縮緬の御高祖頭巾おこそずきん

 ふっくらとした白い肌と、桜色の唇。

 黒目がちの瞳はやや伏せて、自身の膝のあたりを見つめている。

 うっそうとした山奥には似つかわしくない姿だったが、ことのほか異様だったのは、娘の周りに集う獣たちの姿だった。

 ウサギ、ヤマネ、狐にむじな……あらゆる山の獣たちが娘によりそい、その膝に頭を預けてまどろんでいる。娘が背を預ける大樹の陰には、鹿の親子の姿さえある。彼らは太一がそばにいてさえ、そこから離れようとはしない。

 本来警戒心が強いはずの獣たちを侍らせている娘の姿は、まるで天女か観音様かのように神々しく見えた。時が止まったかのように、太一はあっけに取られてその光景を見つめた。

 ふと娘が視線をあげ、太一に気づいた。つぶらな瞳が驚いたように見開かれ、次いでやわらかく微笑む。


 刹那。

 太一の頭上に、青い閃光が走った。

 大地に轟く、化物の断末魔。

 耳をつんざく轟音とともに、時間は再び、もとの速度で流れ出す。

 そうして、何もわからなくなった。

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