これは怒りだ
ところで、麻衣は飲み会というものを開いたことがないどころか参加したことすらなかった。居酒屋だって、忙しい母親に連れられて二人で数回食事に行ったことがあるだけだ。勤務が終わると、早速スマホで検索したりまとめ記事を読み込んだりして、なんとか適当な店の目星をつけることができた。ラインの画面から店長の熊のアイコンを探し出し、食べログのURLを送る。麻衣がラインで連絡先を交換しているのは店長と母親と、大量に通知が放置されたいくつかの企業アカウントだけだった。
麻衣:「店長!川野さんの歓迎会をみんなで開いてあげませんか? 川野さんともっと仲良くなりたいです!」
麻衣は落ち着いて推敲できるラインでなら、いくらでも嘘を吐くことができた。
まもる:「おお、佐々木さんもやっと心を開いてくれたか(笑)嬉しいよ(笑)」
心を開くとはどういうことだろうか。特に心を閉ざしているつもりもないので気になったが、面倒なことを言われそうなのでそれについては返さず、飲み会の開き方がわからないことは正直に伝えた。全部で二十人近くいるバイトたちの日程調整が一番難しいらしく、まもること店長がしてくれることになった。麻衣は知らなかったが、この店には広田が作った従業員のライングループがある。店長はそこにURLを転送した。
麻衣はひとまずスマホを放り出し、ベッドに寝転がる。床には脱ぎ捨てられた服が地層のように積み重なっている。その一番上澄みで、一枚だけきちんと畳まれたあのワンピースがひときわ輝いていた。
川野の歓迎会には学生とフリーターを中心に十二名が参加することとなった。店長から送られてきた参加者名の中に高橋の名前がある。思い通りにことが運んでいる。いつのまにか、あのワンピースを一枚で着るのにちょうどいい気温になっていた。まるで季節までも麻衣の応援をしてくれているようだ。いよいよ着替えるために久しぶりに広げたワンピースが、部屋の空気をたっぷりと含んで喜んでいる。タイツを履きかけて、男性は生足が好きという情報を思い出してやめた。
駅ビルの最上階の居酒屋に、予約の一時間半前に着いてしまった。店にはまだ準備中の札がかけられており、入り口からは靴箱しか見えず中を確認することはできない。下の階の本屋でしばらく時間を潰すことにした。ファッション誌の表紙を眺めたり、漫画の新刊を物色していたけど、時間が気になって仕方がないので全然身が入らない。飲み会とはどんな感じなんだろう。経験がないことを悟られないため、ネットや漫画やSNSで色々事前に予習してきた。最近は「一杯目はビール」という暗黙のルールはなくなりつつあることだとか、サラダを取り分けたりするのは逆にあざとさを感じさせてNGだとか。それでも不安だ。私たちの他に十人もいるのに、ちゃんと高橋くんと喋れるだろうか。高橋くんはワンピースの私を見て何というだろうか。麻衣さん、かわいいです。頬を耳まで赤らめる高橋を想像していたら、いつのまにか時間が過ぎていたので慌てて居酒屋へと向かった。
「佐々木さん、こっちこっちぃ」
店の前で店長が手招きをしている。
「もうみんな待ってるよ」
店長についていって靴を脱ぎ、細長い廊下をたどった突き当たり、小部屋の中に掘りごたつの席が現れた。既に参加者は全員集まっているようだ。高橋くんを探して近くに座らないと。空いてるかな。しかし、次の瞬間麻衣は凍り付いたようにその場に立ち竦んだ。
「えっ!? 佐々木さん、うそ、偶然!? スゴーイ!」
一番奥の席で、ピョンピョンお尻を上下させ飛び跳ねながらはしゃぐ川野は、麻衣と全くおなじ、ピンクベージュの花柄ワンピースを着ていた。真ん中にあしらわれた三つのくるみボタン、フリルの施された袖、高めのウエストの切り替え。勘違いや、似ているだけじゃない。全くおなじだ。
「おそろい? すげー! 仲良いねー。座って座って」
店長が適当に合わせながら末席に座り、その隣に促されるままに座った。足から力が抜けているので、うまく掘りごたつにおさまるのに時間がかかった。広田は麻衣など見えていないように、自分の隣の席の女子大生とおしゃべりに夢中になっている。頬に一気に全身の血が集まってきた。周りの騒がしさが遠くに聞こえる。
高橋は。高橋は、川野の隣に座っている。誰も見ていないと思ったのだろうか。素早く川野に耳打ちし、二人は目を見合わせてクスクスと笑った。
おなじワンピースを着ているのに。しかしだからこそ、麻衣と川野は、既に決定的に違っていることが、鈍い麻衣にも一瞬でわかった。どうしてタイツを履いてこなかったんだろう。ワンピースの裾は、両手でぎゅっと伸ばしても無防備な膝頭に届かない。私は間違っている。
誰かが金切声で叫んだ。麻衣が立ち上がり、ワンピースをたくし上げて脱ごうとしたのだ。店長が慌ててたしなめる。佐々木さん、佐々木さん一回落ち着こう。ね。ごめん誰か佐々木さん止めて。下着まで見えている麻衣に、広田は肩を震わせて笑いを堪えている。川野と高橋は事態についていけず、ぽかんと口を開けているばかりだった。麻衣は冷静なつもりだった。このワンピースは間違っているのだから脱ぐ。私は当然のことをしている。それなのに、大粒の涙が次々と零れるのが腑に落ちなかった。噛み締めすぎて痛む奥歯が、荒い鼻息が、キンと遠くなった耳が、机にしたたかに打ち付けて痛む脛が腑に落ちなかった。後頭部がじんと冷たく痺れる。これは怒りだ。私がどうしようもなく私であることに対する怒りなのだ。
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