正しいワンピース
気乗りしない朝の準備は余計に手間取る。乗るべき電車が遠くで駅に滑り込んでいくのをまぁいいかと見送ったりしていたら、待ち合わせの駅に三十分も遅刻した。先方は既に到着していたようだった。「僕は茶色いセーターを着ています」果たしてかき揚げはアプリのプロフィール写真と同じニットにコートを羽織って現れた。おい。一張羅かよ。お前という人間をこの場において最適に表現する服はそれしかねーのかよ。かき揚げは初対面でもわかりやすいようにと気を使ってアプリと同じ格好で来たのだったが、麻衣は他人を瞬時に慮ることができない。
「お待たせしてすみませぇん、初めましてぇ、mですー」
「かき揚げですどうも……」
「どもどぉもぉ〜。じゃ、行きますかぁ〜」
マッチングアプリで男に会うのは三回目だった。一向に慣れない。隣を歩いている男は、ほんの数週間前に知り合ったばかりの他人なのに、既に恋人候補であるという異常事態。麻衣はいつも頭を仕事モードに切り替えることで対応している。新人のとき広田に教わったまま、相手の目をじいっと見つめて、口角をあげ、声を高く作り、赤べこのように小刻みに相槌を打った。
「へぇ、じゃあ今繁忙期でお仕事大変な時期なんですねぇ」
人混みにぶつかりそうになりながら、かき揚げが食べログで見つけたというカフェを目指して駅ビルの自動ドアをくぐる。頷きすぎて首が疲れてきた頃、ふいに麻衣の視線がかき揚げの背後に釘付けになった。
あのピンクベージュの花柄ワンピースだ。服屋の入り口の新商品コーナーにかかっている。麻衣の足は独りでに吸い寄せられていった。三つのくるみボタン、フリルの施された袖、高めのウエストの切り替え。ネットで見たままだ。いや、それ以上かもしれない。色違いのホワイトとグリーンもあったが、やはりピンクベージュがぶっちぎりでかわいい。
「これ新作なんですよぉ」
血眼で震えている麻衣を見つけて、店の奥から店員が目ざとくすっ飛んできた。
「昨日ネットで見たんです。かわいいなーって思ってて……」
絞り出した声は震えていた。
「ありがとうございます~。いっかい着てみられます?」
頷く間も与えられず、流れ作業のように隅に設置された試着室へ案内される。荒っぽく靴を脱いでカーテンを閉め、もたつく指でコートも足元に落とした。続いて下に着ていたニットとプリーツスカートも脱ぎ捨て、ゴミのように足で隅に追いやると、いよいよワンピースに袖を通した。いつもこの瞬間は厳かな儀式のような緊張感がある。生唾を飲み込みながら恐る恐る顔をあげる。目の前の鏡にいるのは新しく生まれ変わった自分。
大勝利。
美容垢の界隈では、とても似合っていることをそう表現する。ピンクベージュが肌をほんのりと引き立て、高い位置の切り替えは足の短さや太さを絶妙にカバーしてくれて、まさに麻衣が大勝利のワンピースだった。高橋の整った目鼻立ちを綻ばせて喜ぶ様子が目に浮かぶ。見たことないけど。
試着室から得意げに登場した麻衣を見て、
「麻衣さん、かわいいです」
かき揚げは頬を耳まで赤らめている。そういえばこいつがいること忘れてた。
店員がワンピースの特徴を息継ぎなしで捲し立てる。先週入ってきたばかりの新作で今一番売れててラスいちで上に羽織るものもなんでも合わせやすいし色で形も綺麗ですし身体のラインも適度に拾ってくれて脚長効果もあって家で手洗いできてお手入れも簡単でオールシーズン着回しできてちょっとしたパーティーにも便利ですよぉ。
「あ、でも私いま持ち合わせがなくて……」
「僕が払いますよ」
かき揚げがあまりにもあっさり財布を取り出してにっこりと笑った。マジか!
「あとでATM寄ってくれれば大丈夫なんで」
買ってくれるんじゃないんかーい。冷静になって、下ろせる貯金額が全くないことを考えようとしても、高橋の顔を思い浮かべてしまってもう後戻りはできなかった。
背中についた商品タグをその場で切ってもらい、上からコートを羽織った。似合う。いちいち似合う。ちらりと覗くスカート丈も完璧で、まるでこのコートのためにあつらえたような長さだ。かき揚げがカードで支払いをしている。店員は麻衣が足蹴にしたままのニットとプリーツスカートを拾い上げ、やけに何度も畳みなおしてショップの紙袋に詰め、かき揚げに持たせた。
かき揚げがカフェに行こうとするので、強引にコンビニへ誘導した。
「かき揚げさん。お金下ろしてくるんで、ここで待っててくださいね」
麻衣はいつかテレビで見たアイドルの真似をして胸の前で両手を小さくふり、するりとコンビニへ入っていく。この店には反対側に狭い裏路地に面した小さいドアがあることを知っていた。店内を抜けて路地へ出た麻衣は、踵を返して駅へと戻る。だんだん身体が軽くなり、いつの間にか走っていた。パンプスでも結構いけるもんだな。信号も青。心なしか人の波が麻衣をよけていく。改札を抜け、そのまま電車に飛び乗る。ゆっくりと動き始めた車窓に、息を切らした自分が晴れやかな顔をして写っている。正しいワンピースを着て。ちくりと胸が痛んだが、それもすぐに忘れた。片手でマッチングアプリを開き、流れるようにかき揚げのアカウントをブロックする。
かき揚げは麻衣の抜け殻が詰まった紙袋を持ったまま、いつまでも麻衣を待ち続けた。
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