『チェン』ソーマンね

 バイト先のネットカフェは、地元の駅近くの古い雑居ビルの中にある。昼の雲ひとつない空にやましいことでもあるかのようにエレベーターに駆け込むと、階数表示の消えかけたボタンを押した。備えつけの鏡で服装をチェックする。今日は黒のダウンに細身のデニムスカートで合わせた。程よく気の抜けた出勤コーデ。階に着くと否応なく店の入り口が現れる。自動ドアが開いて、窓のない密室で圧縮された生暖かい空気が、前髪をふわりと撫でて実感する、またここで五時間働くのかー。すぐ横のカウンターの隅に備え付けられた扉のドアノブを、いらだちをぶつけるように強く握った。中のキッチンには、業務用の炊飯器で作っている食べ放題のピラフのにおいが充満している。その奥に事務所がある。


「おはよーございまーす」


 小太りの店長がウンウン言いながらシフトを作っていたが、異性である麻衣に気を使って、ノートPCを抱えてキッチンへと出ていった。小さい事務所は更衣室も兼ねているのだ。ツッパリ棒で無理矢理設置されている薄汚れたクリーム色のカーテンをひいた。ロッカーに鞄を放り込み、奥にくちゃくちゃに突っ込まれている緑のエプロンと黒いTシャツ、黒いスキニーパンツに着替えた。引きこもりを脱出するとき、なんでもいいから制服があるところがよくてここを選んだ。どんなに仕事ができなくても、制服に着替えさえすれば平等に店員の一人として扱われるのではないだろうかという期待が、十年分の重い腰を上げさせた。


 カウンターに置かれた二台のレジは、タイムレコーダーも兼ねている。そのうちの一台で、首から下げた名札のバーコードを読み取って勤怠を入力する。背後でベテランであるフリーターの広田が、細い目をさらに細めてブランケットのホコリを一枚一枚コロコロでとっていた。広田は二年前、麻衣の教育担当だった男だ。普段は鋲のついた革ジャンと靴を愛用している。おしゃれの基準が思春期の中学生なんだよ、と内心小馬鹿にしながらも、実際には私の恋人として相応しいのはこういう人なんだろうな、とかつての麻衣はがっかり半分に思っていた。十年引きこもりをしていた麻衣は最初は全く使い物にならなかったが、広田はずっと物腰柔らかに接し続けてくれた。麻衣は徐々に広田に惹かれていく自分を発見し、とうとう学生時代以来の気持ちを抑えきれなくなった。頬は緩み、身体はクネクネ、話す言葉の語尾に全てハートマークがついていた。恋は突然幕を閉じる。広田が恋人とのデートの場所を麻衣に相談してきたのだ。婉曲表現だ、と麻衣は理解した。ドラマや映画では度々見かけるが、現実のコミュニケーションでは初めて認識した。水路に水が通ったようだった。感動すら覚えた。僕には先約がいるから好意を向けるのはやめてくれ、とこの男は言っているんだ。今までずっとニコニコして注意しなかったのも、私のことが好きなんじゃなくて、必要以上に関わりたくないというサインだったんだ。その事件以来、麻衣は広田のことが極端に苦手だ。カウンターでブランケットのホコリをコロコロする、それも一枚一枚執拗に、毛が剥げそうなほど行うこと。これも暗にお前が清掃へ行けという合図なのだ。麻衣はこの二年間で学んだ。


 レジのモニターで未清掃のアイコンが表示されているブースをいくつか確認して、小型のゴミ箱に雑巾とアルコールスプレーを入れて向かった。ワンフロアに、四方の壁面を這うように漫画の詰まった本棚が配置されている。内側には仕切りと扉が奥まで均等に並んで簡易的な個室が作られており、中で人間がネットをしたり漫画を読んだり食事をとったりマスターベーションしたりしている。外から見たら婚活パーティーの会場にそっくりだ。一人一人のブースに入って聞いてやろうか、「初めまして佐々木です。お休みは何されてるんですか?」。

 未清掃のブースのプラスチックの扉を開ける。黒光りしたマッサージチェアが横たわっている。これが巨大生物の死体だったら面白いのにな。余計なことを考えながら、全体にアルコールスプレーを吹き付け、雑巾で拭き取り、そのままキーボードを往復して撫でた。机の上の飲みかけの正体不明の液体が入ったカップと、備え付けのゴミ箱の中の何に使われた分からない大量のティッシュをまとめる。最後にテーブルに無造作に積み上げられた大量の漫画を抱え、巻数順に正確に棚に戻していく。簡単で単純な作業だが、いくつもこなすのはなかなか腰にくる重労働だ。隣の席で客が大きないびきをかいている。麻衣はわざといちいち大きな音を立てて清掃を続けた。

 ひと仕事終えるとカウンターに戻る。広田はまだ悠長にブランケットをコロコロで撫でまわしていた。こいつ、今日は一切清掃するつもりねーな。麻衣は聞えよがしに舌打ちしてから、裏のキッチンへドリンクバーのコップをとりにいった。清掃のあとはアップルジュースを飲むのが麻衣の楽しみだ。勢いよく扉を開けると、男が前を塞いでいてぶつかりそうになった。


「あっぶな!気をつけてよ!」


「すみませんっ」


 顔をあげて、固まった。この人後光がさしている。


「高橋です。おはようございますっ」


 振り返った高橋は整った目鼻立ちで、上背もあって、なにより麻衣には似合わないブラックのチェスターコートを、素材の良さそうなパーカーの上に上品に着こなしていた。コートのポケットから慌てて手を出して、ぺこりと頭を下げる様子もたまらない。


「高橋くんよろしくー! 佐々木ですー。大学生? なにやってる人? 若いねー。漫画好きなの?」


 麻衣は男慣れしていないことを悟られないようにわざと元気そうな声を出して雑っぽく、しかし矢継ぎ早に返した。


「チェーンソーマンとか好きです! マニアックなんすけど!」


「『チェン』ソーマンね。てかまぁ、チェンソーマンは全然マニアックじゃないけどねー」


 高橋は困ったように笑ったが、それを鋭い指摘に対する親しみの証として受け取る麻衣だった。


「わからないこととかあったら気軽に聞いてね!」


 もっと高橋と絡みたかったが、最初からグイグイいくのも多分よくない。麻衣は高橋の肩を拳で小突き、自分の名前のラベルが貼られたコップを手にとると、背を向けた。


「あ、佐々木さん。エプロン、タテムスビになってます」


 言葉の意味が理解できず、何も聞こえなかったふりをしてフロアへ出た。機械からアップルジュースが注がれるのを待ちながらなんとなく自分の背中を確認すると、なるほどエプロンのリボン結びの目が縦になっている。「縦結び」だったのか。指摘されるということは間違ってるんだろう。麻衣はその場で紐を解いてなおしながら、頭の中で高橋に感謝した。


 従業員は休憩中や就業前後に自由にブースを使うことができた。五時間勤務の麻衣に休憩はないので、勤務が終わってから、お気に入りの八十八番ブースの席をレジで押さえる。少年ジャンプの棚から、チェンソーマンをまとめてとってきて貪るように読んだ。五時間かかった。帰り際にシフト表をチェックしたら、高橋の夜勤シフトが手書きで追加されていた。やった、明明後日に一時間被ってる。麻衣は指折り数えて二日間を過ごした。正しく紐が横に結ばれたエプロン姿を見てほしかったのだ。

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