第5話

 地上から見下ろせば、この世の終末かのように荒れ狂っていた海も、水中は思ったよりも穏やかだ。


 水泡や海藻、ビニール袋の残骸が横切る不明瞭な視界の中、目を凝らし、漆黒の海底を視線で探る。愛奈あいなの姿は見当たらない。当然だろう。海は広いし、波は速い。


 しばらく辺りを見回して、早くも呼吸が苦しくなってきた。息継ぎをしようと考え、無謀にも水面へと向かって行く。途端、強い波に身体を攫われて、岩礁に身体を打ち付けた。


 激痛に息が漏れる。貴重な酸素が海中に放出されて、いよいよ意識が朦朧とする。


 短慮にもほどがある。つい飛び込んでしまったが、あの時すべきだったのは、誰かに助けを求めることであった。


 自身の軽卒を無念がる気持ちはある一方、将は思うのだ。愛奈が目の前で溺れることがあったのなら、次回も同じように、後先考えずに飛び込んでしまうだろうと。そして二人して水底に沈み、命を落として……。


「まあ。あなたって、考え無しな子ね。いつもそうなの?」


 水中だというのに、妙に明瞭な女性の声が鼓膜を揺らす。まさるは苦痛で閉じ切っていた瞼をこじ開ける。眼前に、和服姿の美女が漂っていた。


「⁉」


 驚愕に、僅かばかり残されていた空気を全て吐き切ってしまい、いよいよ死を覚悟する。そんな将に、女は信じられないような言葉をかける。


「苦しいのなら、息を吸って良いのよ」


 それこそ自殺行為だ。将は顔を顰めたが、元々険しい表情をしていたので、美女には伝わらない。とはいえすでに我慢の限界を迎えており、将は両手で口元を覆い最後の抵抗をした後に、死を覚悟して海水を呑み込んだ。


「……あれ?」


 呼吸ができる。そのことに気づいた身体は自然と荒い息を繰り返す。肺が、空気で満たされている。混乱する思考の中、将は息を整えて、美女に詰め寄った。


「ど、どういうことだ。あんた誰? どうして水の中で生きて。あ、まさか俺もう死んだ?」

「まあ、愉快な子ね」


 美女は妖艶に笑い、白魚しらうおのような指で水底を指示した。


「あなたを地上に戻してあげたいところだけれど、時間がないの。一緒に行きましょう」

「一緒にって、どこへ?」


 女は微笑んで、将の腕を掴んだ。


のところ。そこに、彼女もいるはずよ」


 まるで魚のように滑らかな動作で闇の中を泳ぐ女に連れられ、将の身体もぐんぐんと海底へと向かって行く。


「おまえら、何者なんだ」


 女は肩越しに振り返る。微笑みに弧を描く目と視線が重なる。彼女の黒い瞳が束の間七色に煌めいて見え、将はやっと気づいた。彼女は、人間ではないのだと。

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