第4話

 売店は、海と山を繋ぐ階段の麓にある。前回来た時にはなかったはずなので、ここ数年のうちに建てられたのだろう。簡素なプレハブ造りの内部には、飲料や菓子類が並んでいる。


 さほど広い店内ではないのだが、なにぶん急いでいる。他に客の姿もなかったので、絆創膏の場所を尋ねようと店員を呼んでみる。


「すみませーん」


 反応はない。まさるの声の残響だけが、室内を満たした。


 もう一度呼び掛けつつ、レジを覗き込み、バックヤードとおぼしき扉を叩いてみるのだが、やはり人の気配はない。


「ったく、トイレでも行ってんのか?」


 呟いた時、不意に視線を感じ硬直する。


 目を向ければそれは、本物の視線ではなかった。ペットボトルが並ぶ冷蔵棚から、尋常ない数の眼差しがこちらに注がれている。


 GOZゴズのメンバーがプリントされたラベル付きのご当地ジュース。五色の頭髪の美男子が、それぞれの決めポーズを取りつつ、作り物のように端正な顔で、将を見つめているのだった。


「ちょっと怖えな」


 迫り来る視線の圧力を受けてぼやきつつも、青髪の青年、水上みずかみ竜助りゅうすけの微笑みが貼り付いた麦茶を手に取った。愛奈あいなが喜ぶだろうから、絆創膏と一緒に買って行こう。


 いやいや、そんなことより、まだ絆創膏を見つけていないし、店員もいない。セルフレジもないようなので、どうしたものかと途方に暮れた。


「少し待つか」


 だが、5を指していた時計の長針が10へと移動しても、店員が現れる気配はない。短気な将はとうとう我慢の限界を迎え、水上みずかみ竜助りゅうすけを棚に戻し、引き戸を引いて店を後にした。――そして、絶句する。


 店から出た将を打つのは、轟音を纏いつつ岩礁から強烈に吹き上げる潮風。視界いっぱいに広がるのは、鈍色にびいろの海と空。その境界線すらあやふやになるほど、波が荒れ狂っている。


 先ほどまでは穏やかな冬晴れで、海の果てには山の稜線すら見えていたのだが、今や島は、暗雲に覆われていた。


 将は慌てて、愛奈の待つベンチ方面へと駆ける。波が異様に高い。橋まで到達してしまうのではなかろうか。このような天候で、出歩くなど危険この上ない。他の観光客もそう考えたのだろう。岩礁を散歩していた家族連れも、磯釣りの小父おじさんたちも姿を消した。岩屋へ向かう橋上も無人。いや、二つだけ影がある。


 欄干にもたれるようにして、海を見下ろす見慣れた少女の影。それに寄り添うのは、街ですれ違えば思わず振り返ってしまうほどの青髪。まさかあれは。


「み、水上竜助?」


 いや、まさか。将は首を振って気を取り直し、声を上げる。


「危ねえぞ。おまえどんくさいんだから、そんなに近づいたら波に吞まれる!」


 声は、海からの轟音に掻き消されて愛奈には届かない。一方、青髪の青年は何らかの気配を感じたのだろう。彼はちらりとこちらを一瞥し、口の端を持ち上げた。遠目ながら、わかった。あれは、嘲笑だ。


「愛奈!」


 青髪の青年は視線を海に戻し、愛奈の背中を撫で、耳元に何事かを囁いた。次の瞬間。


 二人は手を取り合って、海へと身投げをした。海中に消える刹那、空が光り、雷鳴が轟いた。強烈な雷光に照らされた海の中、将は見た。とぐろを巻く、巨大な蛇……いや、あれは龍だ。


 あまりの光景に言葉を失っているうちに、入水の飛沫は岩を割るような波と同化して、二人の人間の姿を掻き消した。


 全力で橋を駆け抜ける。将は、二人が身を投げた辺りの欄干に手を突いて、叫んだ。


「……愛奈!」


 消えた幼馴染を呼ぶ。その声は呆気なく、海に吞まれて行く。


 辺りに響くのは、耳をつんざくような轟音。これは、龍の咆哮だ。将はそう思った。


 江の島には、龍神伝説がある。かつて人に害をなした五頭龍は、天女と出会い改心。善き龍となることを誓って天女と結ばれ、この地を守護した。


 まさか。まさかまさか、本当にファンタジーな現象が起きているのだとしたら。


 水上竜助は蘇った龍神の化身であり、死に別れた天女を探し、人間を攫っているのではなかろうか。


 将は拳をきつく握る。愛奈は龍に連れ去られたのだ。この暗い海の底に。連れ戻すには、龍を追うしかない。が、しかし。


 運動神経が良いと言われ続けて十八年、体力には自信がある将だが、唯一水泳だけは出来ぬのだ。理由はわからない。水に入ると人は浮くというけれど、将の場合はどんどん沈んでいくのだ。まるで、魂にカナヅチが刻み込まれたかのように。


 そもそも、たとえ水泳選手であったとしても、嵐の海に飛び込むなど正気の沙汰ではない。


 だが、この時の将には、一切の躊躇いがなかった。通行人がいれば、自殺行為だと引き留めただろうが、あいにく周囲には人っ子一人いない。


「くそっ、あいつイケメンに騙されて海に連れ去られて……!」


 精一杯の毒を吐き、将は欄干に手を突いた。そして身体のばねを使い、華麗に手すりを乗り越えて、真っ逆さまに海へと落ちて行った。

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