ストロベリーバリケード

雪樹セナ

ストロベリーバリケード

 親友が死んだ。長い付き合いだった。当然のごとく私は葬式に呼ばれ、当然のごとく泣いた。

 本来私にその権利は無いのだった。


 私は泣きながら、親友が死んだことを喜んでいた。親友が死んで清々したのである。上っ面で親友を演じていたというのならばそんな感情も特段おかしくないだろうが、私は今も間違いなく親友のことを親友と呼べる。それでも、嬉しいのだった。

 先ず、親友は簡単に言えば障がい者であった。障がいといえども、テレビで感動物のエピソードとして紹介されるようなものとも、余命幾ばくかと言って親戚や友人に憐れまれる対象のものとも少し違った。

 彼女曰く、「まあ、少し、人と同じ様に動けない場合に、公共料金が無料にて家に帰れる手帳」といった認識にて、それを証明する手帳を所持していた。

 前に述べた通り、私と彼女との付き合いは相当長いものであり、彼女がその手帳を持つ前と持った後、特段大きな変化もない関係性であった。

 即ち学生時代、ぺったりと分子同士のように引き合って行動していた時と何ら変わりなく過ごしてきたのだった。

 そんな私の人生にも、人並みの転機が訪れた。

 大学に入り、化学を専攻する機会を得た。

 私はそこで非常に苛立った毎日を送っていた。どうも、周囲の、特に歳を重ねた人間の認識では、私の大学生活は「人生の夏休み」であり、「結婚に良さそうな相手を物色する機会」なのだそうだ。

 幼少期から憧れた学問に携わり、アルバイトをかけ持ちしながら学費と生活費を賄う私にとって、そんな一般論は侮辱行為にも等しいものであり、いかに発言者に悪意がないことを分かろうとも、気分の良いものではなかったのだ。そして、そのような感情に1ミリでも決意を揺らがされるような自分自身にも心底苛立っていた。

 親友の彼女はというと、就職も進学も選ばず、地元に残ることを決めたらしい。

「親のスネかじりで生きていくと決めた」と満面の笑みで語っていたのが印象深い。

 私はそれについては特になんとも思っていなかった。お互いに自分の人生を選んだタイミングであり、それが良いのか悪いのかなどと考える余裕はなかった。ただ確実に言うのであれば、人生の難所というものは人それぞれにあるものであり、高校卒業時に同じ進学、就職というリスクを背負うことがなかったとてそれが不公平だとか、甘えだとか言う気持ちはさらさらなかったということである。


 互いの時間は進み、私は目指していた2年学部内賞を決める論文を書く時期になった。

 私が通う大学の学部内賞は、学年末に学部内攘夷10%の生徒のうちからそれぞれ論文を書いて決まるものであった。1年のそれは5万円の奨学金付与のみに留まるものであったが、2年では10万円の奨学金付与のみならず、3年次にて望む研究室に優先的に配属されるという特権的な制度であり、人気研究室への配属を希望する私にとって外せない機会であった。

 私は得意になって研究論文を書いていた。憧れの化学者になるべくして邁進してきた私にとって、化学がテーマの論文をひとつ、ふたつ書く程度なんの苦にもならないのだ。

 強いて言うならば、恐ろしいのは、収集データの間違いで主張が崩れることと、締め切りくらいであった。

 そんな最中、彼女から連絡が入った。曰く、泊まりがけの旅行に行かないかとの誘いであった。私は久々に顔を上げ、天井を見て、ぐるりと思考を巡らせた。

 彼女の言う「暇ならば」は私には存在しないものであった。

 それこそ暇などあるのならば、人生の夏休みなどというものに現を抜かして旅行など行くべきではないし、勉学に励むか生活費を稼ぐか、もしくは来たる論文発表に向けて睡眠時間を確保せねばならない。

 ましてや我が家はさして裕福ではなく、また、古来より伝わる男系家庭ゆえ兄と弟にしか学費は出ず、女性に大学など勿体ないと難ずる両親を押し退けて今の時間を勝ち取っている。

 しかし、そうは言っても彼女にとっては知る由もない内容であり、2年もろくに会っていないのだから宿泊旅行くらい、という気持ちも分かるものである。

 私は思案した。

 紙手帳を広げ日程確認をし、2、3日ほど開けられそうな日程をスマートフォンに打ち込んで返信する。しかし、送信前にあることに気がついた。

 私には本格的にお金が無い。

 恥ずかしながら、ここ最近の食事と言えば安売りの卵で作った親子丼―――親が無い親子丼は親子丼と呼んで良いものだろうか―――と夜、半額になった刺身、それからもやし炒めのローテーションであり、旅費などは到底捻出できそうにないのだった。

 学食にて350円のカレーは、私のアルバイトの給料が入った日に限り食すことができる贅沢品だった。

 この状況に陥るだろうということは親の支援をなしに家を飛び出し、夢を追った時点で解っていたので、特段厳しいものではなかったのだが、彼女には申し訳なさがあった。

 しかし彼女は「良い子」である。

 頭脳明晰であり、倫理観もあり、決して他者を馬鹿にはしない人格者であった。そう、例の障がいがなければそれこそ彼女が昔語った脳科学者への道筋もあったろう。

 そうして私たちは夢を語り合い、時に手を取り、時に背を押しながら今まで付き合ってきたのだ。

 今回だってきっと私の事情を理解してくれるだろう。そう、私は己の甘えを彼女に押し付けた。


 ―――外で、猫が叫ぶ音。若そうな男達が嗤う声が聞こえてきた。


 私が住む大学にほど近いこの土地は少々、治安の悪い地域であり、夜な夜なバイクの音と、警察のサイレンが響く場所だった。


 もう少し場所を選べばより駅と大学に近く、そしてオートロック付きなどの物件も多い女学生向けの地域もあったが、家賃を払える気がしなかったのでここを選んだのだった。そんな物静かとは言えぬ部屋の中で2、3時間ほど呆けていた。


 彼女に何か言われた訳では無い。彼女は、2年会わぬうちも変わらず「良い子」であった。

 私の事情を受け入れ、体調を心配し、ホテルのランクはビジネスホテル等でも良い、と妥協案を提案してきたのだった。


 常々苛立っていた私の理性は、終ぞ感情に負けてしまった。

 彼女の優しさに、私が内心求めていたのは延期または旅行案の廃案であったのだと、俯瞰して考える。

 私は彼女に酷い表現をした、そう、親のスネかじりには分からぬかもしれぬが、こちとらビジネスホテルだろうと泊まるリソースは捻出できぬのだと。

 私は心底羨んでいた。彼女には、そもそも、ビジネスホテルではなくリゾート地に宿泊する選択肢があって、対して私には、ビジネスホテルに泊まる余裕すらない。それどころか、親友を親友として扱う心の余裕すらなく、子どもの癇癪の如く理不尽な嫉妬をぶつけたのだった。


 私は考えた。私は、自分で選んでこの生活を選んだ。それには間違いないのだ。

 私は20年にも及ばぬ短い人生の中で、数え切れぬほど、自分で道を選べない人間を見てきた。

 それは時に本人の決意がないことによって、それは時に親が決めた、親自身の夢のための道を選ばされることによって。

 彼らの殆どは、当然ながら、未だ人生の終着点にたどり着いていないので、選べなかった者たちがどのような終着点へとたどり着くかなど私にはあずかり知らぬところであった。


 しかし、漠然と、自分はこうはなるまいと自らを奮い立たせて、ここに来た。

 その結果が今である。

 返信内容を思案しているのか、失望しているのか、彼女からの返信はまだない。

 無いからこそ、私は思考を止めることができないのである。

 それはまるで未だ解かれぬ数式の証明のごとく、閉じたまぶた裏にチカチカと反射し、理性的な思考にシフトすることを許さない。

 必然的に、私は彼女との遠い、遠い昔のことを思い出すのだった。


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