BABEL~バベル:言ノ葉が崩れ落ちる時~

梯子田カハシ

BABEL

◇ ◆ ◇


【Introduction】

見渡す限り雪に覆われた平原の中で、ハイイロオオカミの群れが休息を取っている。


柔らかな雪の上で1組のカップルが重なるように身を寄せ合う。

互いに脚を絡め合い、鼻を寄せ合う。優しく目を閉じ、ただ相手に身体を預け温もりを分かち合う。

互いの毛皮を舐めあい、甘く噛みつく。抱擁するかのように前足を相手の肩に載せ、相手の胸に顔をうずめる。

やがて、群れの子供たちがはしゃぎ出すと大人たちもそれに同調して遊びに興じる。

しかし、しばらく経つと、はしゃぎすぎた子供を制するように大人が唸り声を響かせる。子供はすぐに目を逸らして争いを避けると、やがて群れは落ち着きを取り戻す。

日が暮れ始めると何処からともなく群れの一匹が遠吠えをし、それに共鳴するように遠吠えが重なり合う。

共鳴する遠吠えに何かを感じ取り合うように狼達のハウリングはいつまでも続いてゆく。


狼たちは独自のシグナルを用いてコミュニケーションを取る。

触れ合い、視線を交わらせ(時に交わらせず)、牙を見せ、吠え合い、遠吠えをして、言葉など無くとも人間がする以上に互いを理解し合おうとし、高度な社会性を築き上げていく。

愛が、本質的に野生に潜むことを象徴するかのように。


◇ ◆ ◇


【Prologue】

フィクションの話をしよう。

これは、ある並行世界の歴史。

これは、人間の祖先が言語を持たなかった頃より始まる物語。

これは、かつてホモ・サピエンスが何者かからLogosを与えられ、やがて人間が神に見捨てられるまでを記した神話のようなもの。

そして、僕達ぼくらの手元に残った希望への、ささやかな賛歌である。


◇ ◆ ◇


【Ante Logos】

森の中にある洞窟にホモ・サピエンスの群れが戻ってくる。

トボトボと歩く彼らの身体にはそこかしこに傷跡が残っている。彼らは誤って“何者か”の縄張りへと侵入し、こっぴどく追い返されたあとだった。彼らが初めて遭遇した“何者か”は彼らと似た容姿をしていたが、彼らよりも背が高く、筋骨隆々としており、髪は明るく、肌は白かった。“何者か”は彼らと同様に毛皮を纏っており、彼らは見たことのない、先端に鋭い石を括りつけた武器を持っていた。

群れのリーダーは溜息交じりに群れの中心に灯る焚火たきびを眺める。

彼は自分の判断で群れの仲間たちを傷つけさせてしまったことを悔やみ、また遭遇した“何者か”の縄張りに侵入し触発させてしまったことを反省しているようだった。

ユラユラと色や形を変える炎を見つめるリーダーの下に仲間たちが集まり、慰めるよう微笑みかけ、肩を撫で、背中を擦る。

やがて、群れの1人が声を上げ、それに共鳴するように仲間たちも声を上げる。

自然と群れの仲間たちは踊り出し、声を合わせて一定のメロディーを紡ぐ。

互いの感情を共有するように、互いの思いを溶け合わせるように、ホモ・サピエンスの宴は続く。

その中心で、群れのリーダーは仲間達とより互いの事を理解し合いたいと、切に願ったのだった。


その時、洞窟の外で枝が折れる音が聞こえる。

騒がしかった洞窟内にピシリと緊張感が駆け巡る。

群れのリーダーはゆっくりと立ち上がると、木製の槍を構えて暗がりの広がる洞窟の外へと踏み出す。

そこには、昼に遭遇した“何者か”と思われる1人の少女の姿があった。少女は寒さのせいか、はたまた怯えているのか、ブルブルとその身体を震わせていた。

洞窟内にいた仲間達が一斉に唸り声を上げ、槍を少女に向けて構える。

そんな仲間をリーダーは振り返ってたしなめると、ジッとその少女を観察する。

夜の森で迷い、火の明かりに引き寄せられた哀れな少女は、己の無力を晒すかのように震え、血の気の引いた顔は自らに迫る運命を感じた恐怖の色に染まっている。

しばしの沈黙の後、リーダーは少女から目を逸らして受け入れるように身を翻す。リーダーの決定を仲間達も受け入れるしかない。


こうしてネアンデルタール人の少女はホモ・サピエンスの群れに受け入れられたのだった。


そんな光景を遥か天上でが眺めている。


◇ ◆ ◇


【Logos】

受け入れられた少女は、リーダーに向かって声を発する。

少女は何度も同じ響きの音を繰り返しリーダーに向かって発音する。

少女の不思議な行動にリーダーは首を傾げるばかりで、全く理解が出来なかった。諦めたように少女は立ち上がりリーダーに近づくと、そっとリーダーに抱き着く。

「A㈠=0≉≭Av」

その時、リーダーはその音の連続が感謝を意味するものだという事に気が付く。



〝〚あーあ。想定外の事が起きちゃったなぁ。〛〟

天上でがそう呟き、口角を歪めて嗤う。

〝〚少し疲れるが、、、面白そうだから、まあいいか。〛〟

そう言って彼は立ち上がるのだった。



地上に突如として大きな変化が訪れる。

今まで星々が輝いていた夜空が急に明るくなり、雲一つない青空が広がる。

洞窟に籠っていたホモ・サピエンス達は何事かと洞窟の外へと出てくる。唯一、何者かの少女だけは何が起きたのか理解できない様子でキョトンとした表情を浮かべる。


ホモ・サピエンス達の頭上に巨大な光の輪が現れる。

は目の前で起きている現象のを理解する。

そして祈る。

我らにも互いに分かり合うすべを!!

これまで成し得なかったを我が手に!!


光輪は人間達の視界を奪うほどに強く輝き、消滅する。

人間達がたまらず閉じた眼を開けると、頭上には星空が広がっていた。


人間達が洞窟に戻ると、ネアンデルタール人の少女が1人中で待っていた。

「何があったの?」

そう呟く少女の言葉をリーダーは理解する。

人間達は互いを見合い、そして感謝する。自分達に与えられた物と、天に存在するあるじに。

「神様が我らの願いを叶えて下さったのだよ。」

少女は突然ホモ・サピエンス達が自分達ホモ・ネアンデルタールの言葉を発したことに驚く。

「かみさま?なにそれ?」

「我らを見守って下さっている方だよ。」

「よくわからないけれど、、、それよりも!! 私の言葉が分かるようになったのね!!」

「ああ、ありがたいことだ。これで君とも、仲間とも分かり合うことができるよ。」

ネアンデルタール人の少女とホモ・サピエンスのリーダーが楽しげに言葉を交わし、それに他の仲間たちも加わる。

ただのメロディだった歌に意味が加わり、夜の宴は続いていく。


この日、地上にいる全てのホモ・サピエンスが言語を授けられた。地上にその姿を現したは天上に戻ると、疲れたよな表情を浮かべる。そのまま彼は横になり、転寝うたたねを始めるのだった。


◇ ◆ ◇


【Post Logos】

〚Aa:生存競争〛

神の出現から6万年。

地上は人間ホモ・サピエンスの物となった。

人間達は地上に存在した自分達以外の人類を全て根絶やしにしてしまった。

消えゆく者達の痕跡は地中に埋まる骨と人間の身体に流れる血に微かに残るのみとなった。


人間達は神の出現という共通の体験と、共通の言語の下に集団を大きくしていった。

膨れ上がった集団は個々では身体的・文化的に自分達にまさる他の人類を圧倒した。

人間はその行動範囲を広げては、その地に先住していた人類を駆逐する。

やがて地上の人類は人間のみとなり、共通の神と共通の言語を持つ人間の時代が幕を開けたのだった。


〚Ab:言語と理性〛

言語は人間の見る世界を分類可能な物にした。

概念は人間の見る世界を説明可能な物にした。

人間達は最初にと人間を分類し、神は世界の創造者であり人間じぶんたちを見守っていると考えた。次に人間は人間と人間以外の人類を分類し、人間以外の人類を神に選ばれなかった者達と呼んだ。

世界に溢れる性質・物質・存在はことごとく分類され、名前を授かり、説明可能となって、文字の記録として蓄積されてゆく。説明可能となった世界は人間にとって、恐怖の対象から変更可能な資源となっていった。


神の出現から6万5000年。

人間達は人類史上最大の都市を築いていた。

“バビロン”と名付けられた超巨大都市は、交易の中心地であり、文明の中心地であり、権力の中心地であり、人流の中心地である、謂わば人間世界の中心として君臨していた。


〚Ba:降臨〛

天上で1人の少年が目覚める。

思っていたよりも寝すぎてしまったようだ。

少年は眠い目を擦って地上の様子を確認し、驚愕する。

「これは、、、何があったんだ、、、?」

少し転寝うたたねが長かったとはいえ、せいぜい6万年程しか経っていないはずである。その程度の時間のうちに約150万年間ずっと保たれていた人類の種の多様性は消滅し、人間ホモ・サピエンス以外の全ての人類が淘汰され、さらに人間達は高度な文明をも築き上げていた。

「これは、まずい。」

与えられた世界の管理者として少年は焦ったように立ち上がる。

少年は地上の人間達の様子を凝視する。

立ち上がって地上の様子を確認する少年の視線は焦りから興味へと変わっていく。

人間達は与えられた言語と理性を基に文明を築き上げていた。

「へぇ。」

少年の口元が歪む。

「君達はどんな世界を作ったんだい。」

歪んだ表情を浮かべた少年は、少し振り返って何かを確認した後、その姿を消した。


神の出現から6万5423年。

バビロン郊外の砂漠に1人の少年が降り立つ。

太陽に反射する金髪に紅い瞳。整った顔立ちに、程よい身体つきをした少年は、遠くに見えるバビロンを囲む城壁を目指してゆっくりと歩き始める。

しばらく少年が砂漠を歩いていると、物を運ぶ人々の列が見える。

近付いていってみると、ラクダに荷物を載せた人と荷物を背負った人達の集団だった。

「やあ。」

「こんにちは。君もバビロンに行くのかい?」

少年が話しかけるとラクダに乗った人が応えてくれる。

「うん。なんで君だけラクダに乗っているんだい?」

少年は気になったことをそのまま質問する。

ラクダに乗った人物は、少し驚いた表情を浮かべる。

「なんでって、そりゃ、それが効率が良いからだよ。学校で習わなかったかい?」

「?」

少年が首を傾げる。

「私よりも彼らの方が身体的に強いから力仕事は彼らに、私達は測量に優れているから先導役をしているのさ。」

「彼らも何も君達は同じ人間ホモ・サピエンスだろ?」

ラクダに乗った人物は少年の言葉を聞いて笑う。

「何を言っているんだい。彼らと私とは違う人種じゃないか!!」


〚Ac:理性信仰〛

人間達は神に与えられた物達の根源を"理性"と名付けた。

やがて人間達は、言語によって世界を分類することは神より授けられた特権であり、野生的な本能からの逸脱こそ人間としての最上の徳であると考えるようになる。人間達にとって理性は神の存在の証明であり、人間達は理性をもつことが人間が人間たる所以ゆえんであると信じて疑わなくなった。


本能批判と理性信仰は過激化する。

やがて人間達は自分達自身をも分類するようになる。

分類された人種は、身体的特徴と安易な偏見とともに人種による職能の分類という形で結実する。

人種ごとの人口も合理的・・・に調節・管理されるようになり、結婚制度や家族制度といったものは消滅した。人種の混血もなくなり、人種の区別はより見えやすく・・・・・なってゆく。

人間達は子供時代に学校を通して理性的・・・に振る舞うことと自分に与えられた仕事の仕方を学び、大人になると自分の生まれ落ちた人種に与えられる仕事をこなすだけの、そんな存在へと変貌していた。

人種はおろか血の繋がったもの同士ですら彼らには、もはや分かり合う必要がなかった。


〚Bb:人の王〛

少年は絶望した。

軽い気持ちとはいえ“互いを理解していたい”という人間達の強い願いに応えて自身が与えたものは、人類から種の多様性を奪い、多くを殺戮劇を引き起こし、結果的に同じ種である人間同士の理解すら隔たらせてしまっていた。

「、、、こんなんじゃない。」

憂鬱な溜息とともにそんな言葉が口から漏れる。

「安定だ。完璧な人数調整と持続可能性。彼らはこれからも文明を発展させ、どんな災厄も克服するだろう。しかし、それでもやがてこの星の資源を使い果たし、いつかこの星を旅立つときが来るだろう。人間ホモ・サピエンスという種は、もはや安泰だ。」

バビロンの巨大な門の上から街を見下ろし少年が呟く。

少年の瞳に死んだような・・・・・・目で大通りを歩く人々が映る。

「ただ生命40億年の成れの果ての姿がこれでは、、、、悲しいじゃないか。」

少年は門から飛び降りると街の中心部へと歩き出す。

バビロン中央にある神殿は人間世界の中枢を担っている。

そこは世界で唯一人種に関わらず特殊な能力を持った者たちが集う場所でもある。彼らは自らをその他の人間達と区別・・してホモ・アドミニストレータと名乗っていた。

「皮肉なものだな。」

少年は迷わず神殿へと向かって歩みを進める。

ホモ・アドミニストレータは望む異性を手に入れる権利を有しており、普段は神殿の中で身内同士の権力闘争に執心していた。彼らによって人間世界は管理されていた。

理性に最も近いはずの者たちが、最も動物本能的に振舞うのだから。」

少年は何食わぬ顔で神殿へと侵入すると、そのまま施設の中心を目指す。

「何者だ!!」

何人かが少年に飛びかかろうとするが、それはできなかった。

少年と目が合った途端、人間達は身動きが取れなくなる。そんな彼らに少年は歪んだ笑顔を向ける。

「見るがい、これこそが王権だ。」

少年が台座に飛び乗り声を発すると、一斉にその場にいた者たちの視線が集中する。

少年の身体が輝きだし、天井に空いた穴から光が降り注ぐ。少年の周囲に光が集約し、人間達には暗がりが覆いかぶさる。そんな中、ひときわ輝きが強まり人間達の視界が奪われる。

「我が名はニムロッド。神より授けられし原初のインペトラルとなった者である。」

光が収まるとそこには王冠を頭にかぶり、右手には宝剣を、左手には黄金の小麦を握った青年が立っていた。

この日、6万5423年振りの奇跡とともに、人間世界に“王”が誕生した。

ニムロッド王は世界中に広がった人間のもとに姿を現した。

「全ての民よ。バビロンに集まれ。」

ニムロッド王はそれぞれの地域の人々に奇跡を見せ、そう言い残して姿を消した。


奇跡と王の誕生から21年。

全ての人間はバビロンの街に集まった。

街は拡大を続けたが、21年間続いた豊作により問題は起こらなかった。また、急激に増加する人口もバビロンのあるシナルの平地とニムロッド王によってもたらされた煉瓦によって問題なく受け入れられた。

「忙しいねぇ。」

「なに、我らが王のご命令だ。」

「ああ。全ての人間をバビロンの街に、だろ。」

そんな言葉をかわして働く人々の目には光が宿っていた。

かつてはバビロンは端にあった巨大な門は今や街の中心近くに変わり、その上で少年が街の拡張に勤しむ人々を見下ろしている。未だに人種による分業は残っているが、ニムロッド王の理想の実現という目標によって人々は働く意義を見出し始めていた。

「そろそろ次の段階だな。」

門上で少年が呟いた。


〚Bc:バビロンの塔Ⅰ〛

ニムロッド王の即位から22周年の日。

その日、全世界の人間がバビロンに集結していた。

太陽が天の最も高い場所まで昇った時、人々の脳内にニムロッド王の声が響いた。


〝〚さあ、我々の街と塔を作ろう。塔の先が天に届くほどの。ふたたびこの地に結集した我々が、あらゆる地に散って、消え去ることのないように、我々人間の為に名をあげよう。〛〟


ふたたび行われた奇跡に人々は感動に打ちひしがれ、人間じぶんたちの名を刻むという王の理想に心を震わせた。人々の瞳に光が宿る。ここに人間達の目的は、一致した。

その頃、現在は王宮となった神殿の奥でニムロッド王が笑い声を上げる。

「クククッ、、、ハハハハッ!! 完璧だぞ!!まさに完璧だ!!」

笑い声が徐々に少年の声に変化していく。

「無理難題。共通の理想。一つの仕事。目に見える仕事。全員に等しく降りかかる力仕事。」

少年が笑いを抑えながら声を発する。

「完璧だ。協調と相互理解がなければ成し得ない、課題・・にするには完璧な仕事だ。」

こうして、人間性の補完を意図する少年の壮大な計画は実行段階に突入した。


塔の建設に関する全ての権限はニムロッドに委ねられた。

神の寵愛の証たる王権の顕示は神以外の何者をも超越する権威だった。

「植えよ、耕せ。産み、増やせ。」

これがニムロッドが最初に発した命令だった。

その日のうちにシナル平野の北平原には大規模な植樹が、東平原では開墾が始まる。

同時に人口に関する調整も解除され無計画な妊娠・出産が認められる。男達は力仕事を、女達は子供たちの世話が主な仕事となっていった。

「掘れ、運べ、そして、焼け。」

最初の命令から30年、新たな命令が下された。

人間の人口は爆発的に増加し、それを補うように都市バビロンは肥大化する。

ニムロッド王誕生以来の豊作は未だに途切れることはなく、人間達が飢えに苦しむことはなかった。

新たな命令とともに塔の建設は第2段階へと突入する。

人間の男達はこれまでの植えるもの、耕すものに加えて、新たに石灰・粘土を掘りにゆくもの、それらをシナルの西にある煉瓦焼場に運ぶもの、運ばれた粘土と石灰を焼いて煉瓦を作るものの3つの仕事が振り分けられる。植樹され、森となった木々は煉瓦を燃やす薪として切り出されていった。女達は変わらず新たな生命を育む役割を与えられた。この頃から、子供たちは学舎でかつて理性信仰の時代に趨勢を迎えていた数学や物理などを教わるようになっていた。

「さあ、煉瓦を積み上げよう。我らの偉業が、この地から消し去られることがないように。」

最初の命令から60年、3番目の命令が下される。

人間の人口は更に増え続けるが、問題はなかった。そして、2番目の命令以降に誕生した2、30代の男達が煉瓦の積上げの仕事を与えられる。バビロンの中心、かつて神殿から王宮へと変わったこの場所は、今は一辺は1500mにも及ぶ正方形の空き地となっていた。

空き地に集められた若者たちの前に、ニムロッド王が姿を現す。その姿は年老いてなお直立する老王の姿があった。若者たちは無意識のうちに老王の前に跪く。

「積み上げよ。」

ニムロッド王がそう言うと、突如ニムロッド王の身体が砂のように崩れ風に吹き飛ばされていく。

〝〚頼んだぞ〛〟

突然の出来事に身体を強張らせて動けない若者達の頭にそんな言葉が響く。

人間の若者達が王の立っていた場所に駆け寄ると、そこには塔の詳細な設計図と建設計画が書かれた石版が残されていた。この時、正式にニムロッドの計画は人間の手に授けられ、それは同時に人間に与えられた課題の始まりでもあった。


天上に1人の少年が戻ってくる。

「随分と人間の時間感覚に馴染んじゃったな。」

少年は軽く伸びをしてそんなことを呟く。その後、ちらりと地上の方に目をやる。

「まあ、これで理性への信仰は失ったでしょ。次に起きるのが楽しみだ。どうせ感覚狂ってるから2〜300年程度ですぐに起きちゃうだろうし。その頃にはどうなっているかな。」

そう言って少年は目を閉じ、転寝うたたねを始めるのだった。


〚Bd:バビロンの塔Ⅱ〛

ニムロッド王崩御から298年、天上にて。

「んんーーー!!」

数百年振りの目覚めに少年が伸びをする。

「やっぱり、あんま眠れなかったなー。」

そんなことを言いながら少年は立ち上がると、地上を見下ろす。

「おお!! しっかりやってるじゃないか!!」

そこには、まさに少年のいる場所に届かんばかりの巨大な塔がそびえ立っていた。

頂上で煉瓦を積む人の姿がくっきりと見えるほどに塔は天上に迫っていた。

まさに塔の建設は大詰めに至っていた。

「様子を見てこよう。」

少年がそう呟く。


かつては砂漠が広がっていた場所に少年が降り立つ。

今は麦畑となっているその場所では今日も人々が働いている。

「何者だ!!」

いきなり現れた少年に農夫の男達が警戒心をあらわにする。

少年が顔をあげると、農夫たちは少年の整いすぎた顔に驚きの声を上げる。

「なんて美しい顔なんだ!!」

「これはきっと“塔の人々”に違いない。」

「きっとそうだ。塔から落ちてきてもピンとしてらっしゃる。やはり我らとは違う。」

農夫たちは口々に話すと少年に跪く。

少年は一瞬、己の素性がバレたのかと考えたが、すぐにそうでないと気づく。

「“塔の人々”とはなんだ?」

「何をおっしゃられる!! 貴方もかつて王より最後の命令を与えられた最も優れた人々の末裔じゃないのですか。」

農夫の言葉に少年はかつての砂漠でのやり取りを思い出しつつ、何かを察する。

「いかにも。お前たちはどの序列の者たちだ?」

「へい。我らは王から最初の命令を受けた“耕す民”にございます。」

「ほう。お前たちの上にはどんな序列があるのだ?」

「我らの下には“産み・育む者達”が、上には“掘る民”が、その上に“焼く民”、そして“塔の人々”がおられます。本来、我らは貴方様と口を利くような階級ではございませんので、、、」

そう言って農夫は怯えたように少年を見る。

震える瞳は、上の階級からの仕打ちを物語るようだった。

「そうか、すまなかった。」

見ていられなくなった少年はそれだけ言ってその場を立ち去る。

「こんなはずでは無い。」

少年はそう言って他の階級の人々を訪れるが、結果は変わらなかった。

「これでは、、、これでは最初と何も変わらないではないか!!」

少年は門上に立って街を見下ろす。

人々の目は、あの頃と変わらず、死んでいた。

人間種としての偉業を持ってしても、少なくとも地上ではその結末は変わっていなかった

「塔にいる人間はきっと違う。人類の偉業に直接関わっているのだ。地上の者たちとは違うだろう。」

少年はゆっくりと街の中心にそびえる塔へと向かうのだった。


塔の真下はひどく騒がしかった。

煉瓦の詰まった荷車を届ける者と荷車を受け取って塔を登る者を中心に様々な物資が届いては塔を登っていく。

塔は先が見えないほどに天に一直線に伸びていく。

「凄いな。」

人間達の塔の建設は正しく偉業と呼べるものであり、少年は思わず感嘆の声を漏らす。

「お、坊っちゃんはここに来るのは初めてか。」

そう言って片足のない杖を持った老人が少年に声をかける。

少年が頷くと、老人は楽しそうに話を続ける。

「これらの煉瓦は大体5ヶ月ほどかけて頂上に届けられるんだ。塔の人々が何人も交替で運んでくんだよ。」

老人はまるで子供のように嬉しそうに塔を見上げる。

「きっと塔の頂きからの景色は素晴らしいんだろうなぁ。塔の頂上で煉瓦を積める御方が羨ましい限りだよ。」

そう言って老人は目を輝かせるが、少しやるせないような微笑みを口元に称えている。

「私は幼い頃に片足を失って以来、この偉業には携われてないからね。」

気遣うような少年の視線に老人はそう言って笑うのだった。

老人と別れた少年は塔を改めて見上げる。

塔の登り口から見える限りの高さでは人と荷車の姿が見え往来は激しそうだった。

「人の少ない場所まで行ってみよう。」

少し元気を取り戻した様子で少年はそう呟くと姿を消すのだった。



少年は塔の中腹に姿を現す。

地上と天上の中間であるその場所は遮るものなく地上をどこまでも見渡すことができた。

天を見上げれば、上下感覚が失われ天に引っ張られるような感覚に陥る。

この場所からは、はっきりと地平線が平らではないことが見て取れ、太陽の移動とともに塔の落とす影が時計の針の様に移動していくのを眺めることもできる。

「いい景色だ。」

少年がそう言って塔を一周する。

この高さにおいても、塔の外壁を一周するのには少年の足で30分程を要した。

少年が塔を一周する間に、すれ違う者はおらず少年は首を傾げる。

「誰か見つけるまで登ってみよう。」

少年はそう言って歩き出す。


半日ほど塔を登って少年はようやく人影を発見する。

荷車を引いて5人組の男が塔の外壁を登っているのが見えた。

少年が男達に近づくと男達も少年の存在に気づいたようだったが、少年を無視するように進んでいってしまう。男達の間にも会話はなく、1団は黙々と荷車を引いてゆく。

荷車には煉瓦や穀物、水などが積まれていた。

「おい。」

少年が声をかけるが、男たちが反応することはなかった。

男達は夕日が沈む景色に目もくれず、ただ荷車を引く。

男達が止まったのは日が完全に沈んだあとだった。

平らな場所に荷車を置くと、男達は無言のまま各々で食事をし、眠る。

まるで、互いの世界に互いが存在しないかのように彼らは振る舞っていた。

そして当然ながら、彼らの世界に少年も存在はしなかった。

男達は4日間かけて塔を登り目印の刻まれた場所に着くと、荷車を置いて来た道を戻っていく。

少年がその場に留まっていると、新たな5人組の男が塔の上から姿を現す。

彼らも無言のまま荷車を持つと、塔を登っていく。

「おい。」

少年が声をかけるが、結果は先程までの5人組と変わらなかった。

少年は荷車の1つに乗っかり塔を登ることにする。

それから荷車は1組約7日間のペースで6回程引き継ぎされて塔を登っていく。

その間、荷車を引く男達は何にも関心を示すことはなかった。少年も諦め、ただ荷車に乗って運ばれていく。

だからこそ、男の1人に声をかけられたときには衝撃をもってそれを受け止めた。


「君はなんで荷車に乗ってるんだい?」

男が荷車に乗る少年に声をかけたとき、少年は思わず立ち上がる。

「急に立ち上がると危ないよ。」

「、、、」

少年は何も言えないまま荷車に座る。

その間、他の4人の男は無反応のまま前を向いている。

「なぜお前は喋れるんだ?」

少年がそう言うと、男はどこか諦めたように笑う。

「ってことは下の人達も彼らと一緒なのか。」

「どういうことだ?」

「以前は彼らも僕と変わらず普通に喋っていたんだけどね。」

そう言って男は先に行ってしまった4人の後ろ姿を見つめる。

「そうなのか?」

「ああ。まだ、僕達が煉瓦を積んでいた頃は普通だったんだけどね。煉瓦を積み終わって、荷車を引くようになってから彼らはあんなふうになってしまったんだ。」

「それでは何故お前だけ変わっていない。」

「わからないよ。彼らと違いがあるとすれば、仕事が一つ多いくらいかな。」

「仕事? それは一体なんだ?」

「それじゃ、その仕事場所まで行こうか。」

男はそう言うと荷車を引き出す。

もどかしくなった少年は男と荷車もろとも一気に次の目印まで移動する。


そこは道の最終地点だった。

その先は煉瓦でできた半径1m程の煉瓦でできた円柱があるのみだった。

「びっくりした。君は一体何者だい?」

「そんなことはどうでもいい。仕事を見せろ。」

「分かったよ。結構力仕事なんだからな。」

男はそう言うと、円柱の上から垂れ下がっている縄にくくられたカゴに煉瓦を載せる。

ある程度まで煉瓦を載せると、男は何もついていない紐を引っ張ってカゴを円柱の先の頂上へと引き上げる。

「これが仕事だよ。上は滑車になっていて、カゴが勝手に煉瓦を落とすようになってるんだ。」

カゴが降りてきたのを確認して男がそう言う。

「これが仕事か?」

「ああ、そうだよ。今だとだいたい600mくらいかな?」

男はそう言ってポケットから取り出した紙を見て確認する。

「それはなんだ?」

「これはロープの説明書きだよ。頂上にいる人が書いてくれたんだ。」

「見せてくれ。」

少年は奪うように紙を受け取ると、それを覗き込む。

そこには、滑車の仕組みや載せれる煉瓦の量、ロープがどれほどの高さまで使えるのかなどの詳細な仕組みや計算がびっしりと書き込まれていた。そして、少年はその設計書を初めてみた・・・・・

「こんなのは俺の設計図に書いていないぞ」

少年が呟き、設計書をじっくりと読む。

「そろそろ返してくれないか?それがなきゃ困るんだ。」

男にそう言われ、少年はハッとする。

「お前はこれを理解できるんだな。」

「一応ね。俺が若いときに頂上にいる人に教えてもらったからな。もう30年くらい前になる。」

「その頂上にいる人物がこれを書いたんだな?」

「そうだよ。その時にはもう大人だったな。」

「そうか、ありがとう。」

少年はそう言って設計書を男に返す。

「それじゃ、僕は煉瓦を取りに行かなければならないから。」

男はそう言って塔を降りていく。

1人残った少年はその場に留まる。

「頂上の、その人物とやらに合ってみるか。」

少年はそう言って遥か見えない頂上を眺め、目を細めるのだった。



〚Be:バビロンの塔Ⅲ〛

塔の頂上に少年が姿を現す。

そこでは、1人の老人が腰を屈めて煉瓦を積んでいた。

「おや、こんな所になんの御用ですか?」

老人が少年の方に振り返る。老人の目は閉じられている。

頂上は老人が立って、上からロープで送られる煉瓦を置く場所ほどのスペースしかなかった。

約600m程下から塔の太さは変わっておらず、人が往復できるようにはなっていない。

「驚かないんだな。こんな場所誰も来れないだろう。」

「ははは。何を仰る。貴方様なら来れるでしょう。私は貴方様を信じて待っておったのですから。」

老人はケタケタと笑う。

「目は見えていないのか?」

「はい。太陽が近すぎますからな。雲などはここから遥か下にありますので。」

「そうか。1人になってどれほど経つ?」

「わかりませんな。はじめの5年ほどで数えるのは止めてしまいました。」

「そうか。」

少しの沈黙の後、老人が口を開く。

「それで、この世界の観測者・・・たる、いえ、もはや干渉者である貴方様が1人間のわたくしになんの用ですかな?」

「、、、お前はなにを知っている?何者だ?」

「私はあくまでこの世界の人間の1人に過ぎませんよ。それ以上でも、以下でもない。」

「そうか。」

再びの沈黙。

「俺はどこで間違えたんだろうな。」

少年が小さく呟くと、老人が明るく笑う。

「そりゃ、初めから、全てですよ。貴方はあくまで観測者を貫くべきだった。そうしたらこんな数あるうちの1つの世界に執着せずに済んだのに。」

「、、、そうかもな。」

「その上で、あえて私の口から申し上げるのなら貴方は1つの大きな間違いを犯したと言えるでしょうな。」

「ほう。言ってみろ。」

「貴方様は与えるものを間違えた。」

少年は少し考えるように黙り込む。

「言葉を与えることの何が間違いなのだ?人間お前たちは互いをより深く理解し合うことを望んだじゃないか。言語はそれを最適に実現させる道具ではないか。」

「その通りです。しかし、言語・・はそれを歪ませるものだった。それだけのことです。」

「どういう意味だ?」

「見てきたでしょう。地上でも、塔でも、そこにあるのは無理解と無関心だけだ。」

「それは言葉のせいではないであろう。たんに人間達の努力不足だ。」

「それは違う。言葉こそが、言語こそが彼らを怠惰にさせているのです。そして貴方様も、それは一緒です。」

「それは俺に対する侮辱か?」

「私に貴方様の絶望がわからないように、貴方様にも私の絶望はわからない。私が貴方様の心の内を読めないように、人間達が無意識に抱える言葉にすらできない絶望を、定められた運命塔の建設への諦観を、貴方様はわからない。最初から、完璧な理解など存在しないのです。」

「それがどうした。それが言葉が人間を怠惰にさせる理由にはならないだろう。」

「いいえ。言葉と、それに伴う思考は人間を理解した気にさせる・・・・・・・・・。」

「、、、」

「貴方は確かに見たはずだ。本当に理解などしようとしない、上辺で物事を理解した気になり、あまつさえ同情しようとする。もはや言葉をかわさずとも互いにそうと決めつけ、根拠なく見下し、見上げる。ときには理解した気になる努力すら止めて自らの視界から排除しようとする。」

老人はそこまで言うとにっこり微笑む。

「それだけこの世界は複雑なのです。」

「どういうことだ?」

「そもそもこの世界にある多くのものが名称一つ与えるだけで理解できるような単純なものではないのです。なにか一つの事象を完璧に理解することすら人間には不可能なことなのですから。身近で、単純に見えるものに程、そうであることを見逃してしまう。そして言語は、それに画一的な視線を与える。」

「もういい。」

少年がそう言うと老人は黙る。

「わかったよ。」

少年はぶっきらぼうにそう言うと立ち上がる。

「お前の言いたいことは分かった。ならば償いとしてお前たちに理解する努力をする余地を残して俺はこの世界を去ろうじゃないか。」

「それは逃げることと同じですぞ。この世界の結末を見届ける義務が貴方様にはある。」

「うるさい。」

少年が手を振り上げる。

次の瞬間、塔の頂上は爆音とともに雷電を帯びた白に塗りつぶされた。


〚C:神様のいない日曜日〛

その日、世界は神に捨てられた。

塔の頂上に落ちた雷は塔にいくつもの亀裂を与え、塔は先端からバラバラと崩れだす。

天を支えるようにそびえ立っていた塔はゆっくりと、しかし、確実に崩れ堕ちていく。


雨が降り出す。

雨に打たれた人々は何かを失ったように立ち尽くす。

雨は止むことなく振り続け、人々はただ呆然と立っている。


雨は降り続け、やがて洪水を巻き起こす。

我に返ったものから悲鳴を上げ、助けを求めるが、互いの言葉が通じ合うことはなかった。


濁流、悲鳴、真っ暗な空。

洪水は人間もろとも粉々になった塔をシナル平原から洗い流す。

人々は世界各地へと流されてゆき、気がついたときには自らに課されていた使命などは忘れていた。ただひとつ、降りしきる雨空に浮かぶ、巨大な光の輪の存在以外は。



◇ ◆ ◇


【Pathos】

言語の断絶という苦難を与えられて神に見捨てられた僕達は、同時に、互いを理解することの難しさの自覚という微かな「希望」も与えられた。


その後、人間が肌や瞳の色の違いや、思想、信条、それぞれの正義の名のもとに分かれ、争い続けたことは歴史が教えてくれる。


「互いを理解することの難しさの自覚」という微かな希望は、理解することの拒絶という形で、またもや打ち砕かれた。


それでも、僕らは確かに感じることができる。


やけに濃い夕日のあまりの美しさを。

静けさの中に浮かぶ月の幽玄さを。

お互いを求め繋がっていたいと思う希望を。

誰かを慈しみ、救いたいと願う勇気を。

あなたをただ愛おしいと想う、この情念pathos


僕らの本能・・に刻まれた愛は、ふと日常に出現する野生に触れて僕らの心を震わせる。


かつて僕達ホモ・サピエンスが求めたもの・・は、僕達自身の本能の内にはじめから宿っていた・・・・・・・・・・

それこそが僕らの手元に残った、希望なのだろう。


◇ ◆ ◇


【Epilogue】

これはあくまでフィクションの話。

どこかの並行世界で歩んだ人間達の歴史。

それとも、いつかの過去から分岐した縦列世界で語られる神話なのかもしれない。


人が言葉を持つ限り、逃れることのできない世界とのひずみ。

僕の瞳に映る世界を、君の胸を打ち鳴らす感情を、他人が掲げる正義を、きっと誰かと完璧に共有することなどできない。言の葉kotonoha最初から崩れていた・・・・・・・・・

それでも、だからこそ。

また今日も、悲しくない話をしよう。

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BABEL~バベル:言ノ葉が崩れ落ちる時~ 梯子田カハシ @noblesseoblige1231

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