使命



 崖下で主人を受け止めた忠犬はともかくも全速力で湿原を横断した。陽が傾けば低木と湧き水のある場所を見つけ勝手にねぐらとし、朝になれば吠えたててまた進む。爪は割れて血がにじみ、片方しかない目には目脂めやにがこびりついていた。


 それでも歩みを止めない自分を乗せたセルラーパの、首まわりの金茶の毛が濡れそぼってごわつくまで泣いた。ナムラーとダワの最期の瞬間がまぶたの裏にこびりついて離れなかった。何度も吐いた。


 こんな気持ちだったのだ。

 見知り合った者が、助けてくれた者が殺される、心臓がぐちゃぐちゃに踏み潰されるような耐え難い絶望を初めて味わった。

 こんな気持ちを味わわせていたのだ。わたしは。


 誰かに『入って』その生命を絶つ、間際の恐怖を繰り返し経験はすれど、仲間が殺されるとてつもなく胸糞の悪い気持ちはその比ではなった。しかも守られた自分はのうのうと犬の背で運ばれ生きている。これが罪悪感なのだ、とまさに実感した。


 力を使って憑依した者を自刃させるとき、相打ちさせるとき、もちろんその者の声は聞こえない。ただ身体からだは強ばる。感情も少しは伝わってくる。分かっていた、中で意識があることも、聞こえないだけで叫んでいることも。分かっていてすべて無視してきた。


「わたし、わたし…………」


 人殺しはイヤだと思った。痛いし怖いし気持ち悪くなるから。でも、本当は、それだけではなかったのだ。生傷なまきずに指を突っ込まれるようなこのとがめの激痛に頭がおかしくなって狂い死にしてしまいそうだ。


 うわ言のように謝罪を繰り返した。言い続けた。泣きすぎて瞼が腫れて、セルラーパが零れる涙を舐めとってくれても悲しみは収まらなかった。火傷やけどのひきつれみたいにいつまでもひりひりとしてうずいた。

 自分の罪を自覚した。許してくれる者もあがなうべき相手ももういない。なら、ずっとこのままだ。このさき、この重すぎるとげかんむりを被ったまま生きていかねばならないのだ。きっとこれは頭に深く刺さって死ぬまで抜けはしないのだ。


「やっぱり、あのとき大君主デルグと一緒に殺されてばよかった…………」


 オオカミの遠吠えが聞こえる。セルラーパは逃がすとして、いっそ襲われて食べられないだろうか。死を受け容れられないだろうか。あてどなく自責の念に駆られて泣くしかなかった。


 しかし、きっと土壇場になってどうせおじけるのだろうとも分かっていた。死ぬのは恐い。怖い。これはオグトログイと会って務めをこなす前からそう思っていた。死は怖い。全てが終わって消える。消えるのが怖い。

 チティとパティに魂を消されそうになったあのときを思い出して身震いした。こんなにも怖いのだから消極的にも自殺なんてできそうになかった。

 それに…………。頭に強く残っているのだ。あの異国の王の言葉が。



 ――――お前がこの名でいるかぎり、誰もお前を殺せない。



 はじめはただ、そうされたくなくて従った。口約束なんて信じられないと言ったら、名をくれた。石をくれて誓ってくれた。守る、と。

 それでも、石が救援を呼んだり実際に彼がすっ飛んできて庇ってくれたりはしなかった。だが、確実に死ぬだろうという窮地をからがら抜け出して、今、ここにいる。


 ツェタル。この名そのものがお守りであるかのように、まだしぶとく命を繋いでいる。それがなんだか、あかしの気がした。


 生きていていい、と誰かから認められたみたいで。都合の良い思い込みだと分かっている。罪悪感を薄めたいがために自分にはこれからもやるべき使命があるからだと、意味を付そうと。ならばせめて。


「あいつを助けるためにこの命を使う」


 ダワは別れ際に言った。この力は、奪うためではなく与えるために使えと。

 なら、彼の活路を見い出すために。

 逃げるのはそれからでもいいはずだ。



 やっとふんぎりがついて大きく深呼吸した。セルラーパの熱をもったあしを包む。

「ごめんな、セルラ。おまえを巻き込んだ。でもあと少しだけ付き合ってくれる?」

 がぽりと頭をくわえられ、久しぶりに少し笑った。満天の星空を見上げる。静けさをたたえた水鏡に映り、さながら銀河のなかにいるみたいだった。

「キレイ……」

 懐かしい白銀の姿を思い起こす。あと少しで会える。それだけを胸に望み、美しい夜景を夢に連れていった。




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