十章

売国



 霧にまぎれ、黒い影絵のようにかすむ城はすでに遠く彼方、ぽつりと染みとなっておぼろに浮いていた。もはや後ろ髪引かれる気持ちなど毛一本もない、と半ば言い聞かせ振り返らなかったため、ンガワンの目にその光景が映ることはなかった。


 よろしかったのですか、と配下に問われ、知るか、と吐き捨てる。

「センゲのことは俺たちが良いようにすればいいとあいつが通達したなら問題ないだろ」

「ですが、東城シャル・ゾンにあの娘御の身柄を引き渡しておしまいに」

「しょうがねえだろ」鞭打つ力を強めた。「ユルスンは本気だった。わざと落馬したり川に飛び込んだり敵に刺されようとしやがった。あんなのいつまでも連れてられるかっての!」

 あのままでは確実にツェタルの身体からだは死んでいた。

「余計な真似しやがってクソチビめ」

「しかし結果的にツェタルどののおかげで我々も消耗を避けられます。それに将軍ヤソーは王弟君を信じきってはいない。だから万一のためにできるだけの手は打った。そうですよね?」

 別の配下の言に大きく息を吐いた。

「……まあな。ユルスン、あいつは昔から落ち着いた奴だったが、あの余裕ぶりはどうも引っかかる。王城での反乱もそうだ。たかだか五万で決起してこのアニロンを治められると思うか?仮に八方城砦ゾン・ギェーすべてが反乱側だったとしても、まさか五十以上ある各領地の首長ゴパたちが全部寝返ってるとは考えにくい。しかも追い落としたはずのセンゲを殺さず俺たちにくれてやると言う」

「罠……ですか?」

「分からねえ。分からねえが、あいつは山猫やまねこみたいにこすい。都合の悪いことは隠す癖がある。嘘は言わずとも、必ずしも真実を明かしてるわけじゃねえ。警戒はおこたるなよ」


 東城に戻ったユルスンが伝令を出したのは間違いない。敵影は不気味なくらい消え失せ、行く先騎馬が駆け去った砂塵もなければ土埃もない。斥候もいない。


「チビは東にまっすぐだと言ってたが…………」

 高低のある丘の上から臨む草地は草地というには地肌の多い荒野、たまに小池と小川と色の薄い林が点在し、視界はそれほど良くはない。

「だいぶん走ったがまだ敵の尻も見えねえとはな」

 ということは、だ。ンガワンは丘から降り、野営の跡と思しき薪の消し炭を足で払った。

「あっちもなかなかの速さで移動してやがる」

 一体どこへ行こうというのか。東城の先は辺境だ。せいぜい五十から百戸ほどの田舎民がのんびりとヤクを育てている村がいくつかあるだけ………………。



『カラスだがの。新年ロサルの夜明け、鳴きながら西へ一羽飛んでいった』

『不吉も不吉。けがれた獣がやってくる前兆しるし

『罪なき民の血をすする、たけり狂った化物よ。そちのあるじを喰わせてはならぬぞ、絶対に』

『黒い、どろどろのきたない何かが、ぐんぐんこっちへきて全部飲み込む。なのにゲーポはそっちに向かってどんどん行っちゃう。だめなのに』

『あれが来たら、アニロンはめちゃくちゃになっちゃうんだ、きっと』



 ぞわりと背筋を氷で撫でられた気がした。急いで宿営に取って返す。


「ヤソー?」

「斥候を立てる」

 配下たちは不思議そうに見交わした。

「今さらですか?」

「俺たちが戦ったのがただのおとりだったとしたら?」

「どういう……」

「お前ら、敵の顔見たか?」

「顔?ええ。我らと同じく赭土あかつちを塗って、鉄槍に革甲かわよろいの。急ぎですので死者の弔いは簡単にしかしておりませんが。もしやなにか、神々から咎めが?」

「そんなんじゃねえ」

 ンガワンは目の良い少年を数人選んだ。

「俺たちと同じ見慣れたおなじみの戦装束で疑問にも思わなかったが、戦い方が妙だった」

「たしかに卑怯な奴もおりましたが。メフタスが裏切ったなら元ヒュンノール人もかなりの数加担しておりますしね」

「それだけじゃねえとしたら?」

「それだけではない?」

「いいかお前ら、多分むこうは二、三日離れた場所に一軍、それからもっと先にまだいるはずだ。鳥を連れていけ。少しでもやべえと思ったらなりふり構わずすぐに戻ってこい。いいな?」

 斥候を散らし、怒りの形相でこぶしを反対のてのひらに叩きつけた。

「ユルスンはたしかにセンゲのことは好きにすればいいと言った。だがな、あれはたぶん解放を承諾したんじゃねえ。『やれるもんならやってみろ』って言ってんだ」

「兵は退かせたが、引き渡すつもりはない、と?意味が分かりません」

「おそらくユルスンはそこまで干渉しねえし、できねえんだ」

「いったいどういうことです」

「もう分かるだろ!ああ、まんまとやられたぜ‼」

 ンガワンは頭を掻きむしり盛大に悪態をついた。

「奴らが寡軍かぐんで反乱を起こし、ユルスンが王位を簒奪さんだつしても勝算があるのはヒュンノールよりもっとでかい後ろ盾がついていやがるからだ。残りのアニロン軍全てを相手にできるほどの強力な後押しがよ。きっとセンゲを連行してる奴らはそれだ」

 男たちは息を飲み、宿営は沈黙で満ちた。導き出された答えはひとつしかない。


「――――ドーレン…………‼」

「あのクソ野郎、自分の国と兄貴を売りさばきやがったッッ‼‼」


 怒髪天の咆哮ほうこうが暮れなずむ錆色の空を引き裂いた。




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