誤算



 荒い息遣いはまさに他人のものだったが、それを出しているのはまぎれもなく自分だ。

 何が辛いのかと言われると分からない。どこかが痛いわけでも苦しいわけでもない。ただ、発狂しそうなほどの焦燥がある。


 はやく、はやく元の身体からだに戻らなければ。でも、どうやって。


「で、でくち……」

 無い。いつも探さずともあるはずの出口も、辿る道も。

「なんで……」

 戻らなければ、たぶん――考えたくはないけれども、

「あんたはそのうちすり潰れて消えちゃうのよ」

「きえろ」


 つんつんと額をつついてくるチティと冷たく言い放つパティがいるであろうほうを睨みながら、垂れてくる汗を振って散らす。手は使えない。繋がれて両側から引っ張られ、膝立ちで今日も責め苦に耐えていた。連日嗅がされた甘すぎる香煙の匂いで頭は回らず胃がむかむかする。不調はなにより彼女たちの術によるものだ。


「ユルスンの身体という器に入り込んだといえ、異なる魂魄こんぱくがひとつところにいつまでも入ってはおれない。どのみちあんたの魂は剥離はくりしていくってことは自分でも分かってたわね?でもあんたはあたしたちのおかげでユルスンから出られず自分のはくがある身体に戻れないから、魂の行き場がなくなってそのうち消える。あんたが消えればあんたの術は解けてユルスンの魂はその身体に戻れる」

 チティはぞっとするほど冷たい手で頬をつまんだ。「だからね、もうあんたはなーんにもできないの。ユルスンの身体を壊したってどこにも帰れない。センゲも助からない。嫌でしょ?じゃあどうすればいいか、教えなくても分かるわね?」

「ぐ……う……」

「ユルスンはあんたの思惑なんてお見通しよ。あんたがただの子どもじゃないってこともね」

「言え」パティが命じてくる。

「…………わたしがおまえたちのもとにいれば、本当にゲーポは助かるのか?」

「少なくともユルスンは殺せなんて命令しないわ」

「メフタスは、わたしの手足が無いほうが逃げないから扱いやすい、って」

「野蛮なヒュンノール人はがダメなのよ。そんなの、世話するほうが大変じゃないの」

「………………」

 鼻先からぽたぽたと落ちる汗の不快感に耐え、見えない目を泳がせた。

「でも、わたしは、もう人殺しは」

 これが最後だと決めてここに来たのに。

「ユルスンは強制なんてしないのよ。力を使いたくないなら仕方ないと言うわ。だってあんたは居るだけで敵国にとっては脅威そのものなのだもの。あんたに頼りきりにならなくたってどうとでも優位に立てる」


 猫撫で声は嘘のあかしだと学んでいる。しかし、でも、ぐらつく。感覚がとぼしい。外が遠い。ユルスンの身体を掌握する力が無くなりつつある。無くなったら――恐怖でさらに呼吸が苦しくなる。消える。わたしが消える。死にたくない、死にたくない。


「げ、ゲーポ……たす、けて……」

「これからあんたは一生ユルスンのものになるの。なりますと言うの、本人にね」

「え…………?」

 衣のかすれさえ拾いにくくなった耳で微かに近づいてくる複数の足音を聞いた。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る