陰謀



 震えて呼吸もままならない。凍った川に突き落とされたみたいに寒い。また胃から酸っぱい水が込み上げてきて盛大に吐き出した。

「で……大君デル

 にじんだ視界のなか、あるじは玉座で頬杖をついている。足で肩を押され、そのまま倒れ込む。

「いくら消した?」

 とん、とん、と指を肘掛けに打ちつけた。

「いくらだ?オルヌド」

「………うぇ……、あ」

「オルヌド」

 まぶたを閉じ、覚えているかぎりの数を答えた。聞いた主は無感動にじっと見下ろし「来い」と命じた。

 苦労して這いずり、傍に辿り着くと足の甲であごすくわれる。

「辛いか?やめるか?」

「……や、やめない……」

 すると若干、目尻がゆるんだ。それを見ることだけが自分が存在する意義なのだ。

「それで良い」

「デルグ……デルグ」

 もっと褒めて。脚にすがりつこうとしたが払われた。

「湯を浴び、着替えてこい。――――明日は倍であれば、なお良い」

 いつまで、と言いかけて俯いた。

「返事をしないのは俺の願いが聞けぬということか。……そうか」

「ち、ちがう!やる。やるから」

 離さないで。


 焦燥は絶えず心にあり、失敗はすなわち主の失望と己の廃棄を意味した。

 敵なんて、同じ人間じゃないのだからいちいち体を凍らせなくてもいい。どうってことない。デルグが喜べばそれでいいじゃないかと言い聞かせている。だのに、意思に反していつもこうなる。

 なんでだ。


 首を刺した同輩の顔。

 崖へ突き落とした上官の断末魔。

 毒を飲ませた隊の仲間が噴いた血。


 最も覚悟が要るのは借りた身体からだを傷つけること。馬からけて骨を折る恐怖。槍で串刺しにされる激痛。溺れて沈むときの絶望。


 いったい、何回『死んだ』のだろう。

 何回『このまま死にたい』と思っただろう。


 それなのに、いつもやっぱり死にたくない、と強烈に望んでしまうのだ。だから戻ってこれる。くる。くるしかない。

 どこにも、行けない。



 ――――ああ、でもついに本当に終わりが来たのかもしれない、と薄れゆく意識のなか感じた。脳裏にちらつくのは白髪の男。


 新年ロサルってあんなに楽しいものだったんだ。うるさいくらい賑やかで、きれいで、美味しい食べ物がたくさんあって。

 手を繋いで歩いた。かつての主みたいに冷たくなかった。あたたかかった。その持ち主の顔も声も、とろける蜂蜜みたいに甘かった。


 いまやまつりは消滅し、あたりは暗闇。聞こえるのは寒々しく吹きつける乾燥した風とほつれたとばりのはためき。


 あのぬくもりはどこへ?


 取り戻したい。強く念じると眼が覚めた。


 それなのにまだ暗いままだ。随分寝ていたように思うが、まだ夢の中なのだろうか。手を伸ばそうとしたが動けない。起き上がれず、ここは湿しっけた布団の上だ、と気づいたときに声が降った。


「いま誰かに『入る』ならお前を殺す」


 硬直したのを面白がる下卑た笑い声が別のほうからした。

「お、おまえら、だれだ」

 はっきり覚醒して思い出した。ここ数日、拘束されたままなのだ。知らない誰かに最低限の世話を受けていたが皆ほぼ無言で、脅しといえきちんと話されたのは初めてだった。

「知ったところでどうする?」

「いつまで目隠ししてるんだ。はずせ」

「そりゃアンタが他人様ひとさま身体からだを乗っ取る化物だからサ」

「わたしのこと、知ってるのか」

 知ってるとも、と新しい声の女は得意気になった。「北の覇者ヒュンノールの王、オグトログイの力の源。アンタがあのクズ野郎の手駒になってからヒュンノールは三十の氏族を併合し百の集落を潰した。継いできた血を絶やし、守ってきた文化を壊し、大地を灰燼かいじんに帰した」

「デルグは投降した奴はちゃんと助けた」

 下卑た声が吹き出し、女は呆れた。

「傑作だァ。腹がいたい」

「アンタさあ、雑巾ぞうきんみたいにされてたってェのにまだあの男の肩を持つのかい?」

「デルグは……悪く、ない」

「気が変わった」


 歩み寄る靴音、いきなり顔に巻かれた布をがされ眩しさに耐える。


「アタシらに一瞬でも入ってみな。喉が裂けるよ」

 首筋に当てられた冷たい感触に汗が垂れた。

「ふぅん。話のとおりの眼だ」

 唇を歪めて笑ったのは婀娜あだな女。見慣れない顔貌かおつきに変わった服に装身具。部屋の奥には真っ黒い影のような、頬のけた男。

「……あ‼」

「おはようボウズ。いい夢見れたかい?」

 街で襲ってきた男で間違いない。乱暴に引き起こされて睨みつけた。

「おまえら、なんなんだ」

「アンタは飼い主をアニロンに殺された、そうだろ?」

「そ…うだけど」

「さぞ恨めしいだろうね。気持ちは分かる」

 女は猫撫で声になる。「たとえまわりからとんでもない奴だと言われてても、自分にとっては良い主人だったものネ。悲しいねェ、墓さえないなんて」

「悲しい。悲しい」

「…………な、なんなの。わたしをどうするんだ」

「復讐を手伝ってやるよ」

「復讐……?」

「手伝う代わりにアタシらにも協力する。どうだい?」

「復讐なんて」

「おや、したくないのかい?オグトログイはアンタを守って死んだんじゃないのかい?」

 考えないようにしていた事実を至極当然に指摘されて瞠目どうもくした。

「それ、は」

「あの野郎自身だってとんでもない剣の使い手だったろう。敵に包囲されても独りならいくらでも逃げられたろうさァ。それが、アンタが脚にかじりついてたせいでむざむざ死んだんだよ」

 アンタのせいじゃないか。胸が剣でえぐられたときのように痛んだ。

「デルグも報われないよねェ、可愛がってた下僕を庇って死んだのに復讐もしてくれない腰抜けだったなんてさァ」

「腰抜け!腰抜け!」

「うるさい!わたしに何しろってんだ‼」

 叫びに呼応したように、ぼろ部屋の黄ばんだとばりが開いた。

「私たちが国をつくるのを手伝って欲しいの、ツェタル」

 静かに入ってきて体の前で手を重ね、玲瓏れいろうと見下ろしてきた女。理解の追いつかないままその名を呼んだ。

「ぺ……ペジレット?」

「気分はどう?」

 いつもと変わらず無表情に首を傾げた。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る