焦燥



 今さらだ。本当に今さらだが、良くない予感はあったのだ。

 大祭主シェンラプの占いからしてかんばしくなく、最近は不吉や不可解なことがいくつかあり、どうにもすっきりとしなかった。

 ――――あの男を敵と定めてからだ。あの男、オグトログイ。



『俺の首をねたとて、アニロンがなかくにに覇を唱えることなど出来ぬ』


 血唾を吐き、北の王は嘲笑あざわらった。


『そなたらは北地を統べうる力を持たぬ。愚鈍で、能天気で、うぬらのおざなりな幸福しか考えられぬような小物どもには過ぎた土地よ』

 それに、と血走った眼をぐるりと回して見てきた。

『そなたらは無知だ。あまりに無知。無知で無垢。おとなしく狭き谷におさまっておれば良かったものを、欲をかいておのずから不幸を招いた。――――センゲ・タムチェン・オーカル』


 なまりもない自国の言葉で名を呼びかけられ、おくびにも出さなかったが動揺した。


『俺を殺せても俺は滅びぬよ。アニロンは龍のひげを撫で虎の尾を踏んだ。我がヒュンノールにみついたは必ずそなたへ呪いとなる。わざわいとなってそなたを苦しめる』

 なぜなら、と最期ににやついた。

『俺の万物眼ばんぶつがんはこの命尽きたとて消えぬ。あまねく天地の生きとし生ける、息あるものを支配する神のまなざし』



 お前には無理だ愚か者、とね散ってこびりつく赤黒い血までもが自分をわらっているようだった。

 もう幾度も、あの男の言葉と顔と、絶命してもなお笑みを浮かべたのままの首をありありと思い出す。まるで本当に呪いにかかってしまったようだった。


 彼女を〝放生ツェタル〟にしたことで波風が立つのは分かりきっていた。それでも、なぜか抗えない不可思議な引力により、はじめから連れ帰ることを当然のように思っていた。かつての、オグトログイの足の裏の眼オルヌド


 彼女は確実に何者かに騙されおびき出された。単なる悪戯いたずらとも思えない。何か――大きな良くないものを感じる。

 こんなことなら、と唇を噛んだ。はっきりと問い質しておくべきだったのだ。


 あの時、たしかにオグトログイを討ち果たして油断はしていた。だが、警戒はおこたっていなかった。見落とした伏兵の危険はあり、逆上した残党がまだひそんでいるかもしれないと、ちょうどそう思っていた。それが、急に眩暈めまいを感じ平衡感覚を失った。あの刹那の一瞬。

 まるで誰かに考えを見透かされているような、頭の中を覗き込まれるような激しい嫌悪と、しかし決して抗えないことへの恐怖がよぎった。知らず知らずのうちに忌避してしまう……あの感覚。

 それはたまにツェタルのあの赤い眼と視線を合わせた時に、かすかだが確かに感じる、背筋が凍るようなおぞましさだった。


 それでも、彼女自身は幼稚で我儘で、純粋で天真爛漫なただの愛らしい少女だった。だから……何かを隠している、と了解していたのに、なおざりにして流していた。


(そのツケが来たのか?)


 呪いは俺だけではなく、俺の周囲にも伝染した?オグトログイのオルヌドだったあの子にさえ?


 こんなことが。


 予想さえしていなかった。オグトログイを殺した自分が何らかの害をこうむるならそれも結構。彼が虐げる何千もの人々、これから苦しめられる何万人が救われるならそれでいい、そう腹を括って出兵したのだ。しかし、むくいが自分ではなく他者へ跳ね返るなど。



 飛ぶように馬を走らせた市場の近く、ツェタルの相棒の姿が見えた。鎖を切らんと激しく暴れているその前で、小さな老人が杖を振っていた。




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