魔犬



 ぐぐっと恐ろしい勢いで引っ張られ、呼吸出来ないままわけもわからず激しい何かの力により沼から引き抜かれた。自分の咳き込みで我に返った。

「ツェタル!大丈夫⁉」

 騒ぎを聞きつけて城の女たちも丘を下りてきていた。いち早く駆けつけたペジレットが泥を拭ってくれる。

 しかし、その青褪あおざめた顔があらぬほうを向き、さらに血の気をくした。同時に取り囲む大人たち全員、波が引くように離れる。


 何が、と放心したままでいれば、ぽつりと上から雨が降ってきて、雷鳴のような低いうなりがあった。


 唸り?


 はっと首をよじると頭上には黒い塊。虎のような低い咆哮ほうこうき出しの鋭い牙、雨だと思ったのは大量のよだれ。どろどろと血混じりにしたたる、ツェタルはちょうどその下にいた。


「…………な、あ…………」


 食われるのか、この化物に。心臓だけが元気に爆速でねて痛いほどだ。泥と冷や汗と涎にまみれて、無意識にその化物の目を探した。どこだ。どこだ――――。

 つぶらな小さく光るものが汚い毛むくじゃらの中にひとつ。

 ツェタルは自身を『溶かした』。



 刺すような痛み。右目を押さえてあえいだ。苦しい。苦しくて暗い。

 腹が減って喉が渇いていたけれども、いつも与えてくれるあるじはどこにもいなかった。どうして。どこに。

 いつまでも来てくれない主をいつのまにか恨んだ。ここにずっといろと言ったのに。あんなに愛してくれたのに。縄がほどけない。動けない。苦しい。息ができない。

 目がかゆい。痛い。燃えるように熱い。熱くて暑くて喉が渇いた。

 さみしい。暗い。怖い。

 誰か、助けて。



「…………もう大丈夫だ」

 泣きながら塊を抱きしめた。

「辛かったな。けど、もう心配ない。わたしが見つけた」

「おいボウズ、離れろ!それは鬼憑おにつきだ!」

 周囲は農具を構えて警戒している。ツェタルはちがう、と叫んだ。

「ただの捨て犬だ!目を怪我してこの沼で冷やしてただけだ」

「ツェタル!危ないわ!」

「待って、待って」

 牛追い用の石投げ紐で狙いを定める男たちに慌てて手を振った。「もう危険はないよ!見てよ、ほら!」

「だめだ、ここで打ち殺す。おいだれか、巫師ハワを呼んでこい」

「待ってったら!」

 ツェタルは巨犬を庇った。「わたしを沼から引きあげてくれたじゃないか!ちゃんときれいにして目を治してやったらここから出ていくさ!」

「邪魔だ、どきな!」

「ツェタル、いい加減こっちへいらっしゃい。食われてしまうわよ!」

 ぜんぜん通じない。言葉は伝わっているはずが、まったく耳を貸してくれない。今度は焦りと悔しさで涙が出た。


「――――何をしている?」


 丘の上に影が射し、一同は見上げた。馬が二、三そのまま駆け下りてきて、膠着した沼地の面々を見渡した。

将軍ヤソーメフタス……」

 抱き合っていた女官たちが一斉に座り込む。街の男たちも驚いて倣った。

「これは、どうした?」

「そこのツェタルが鬼に取り憑かれた犬の化物に襲われたのです」

「ちがう!助けてくれたんだ!」

 メフタスは馬上からぎょろりとした目を向けた。

「ツェタル?王の気に入りの元奴隷か」

「わたしがそれだ。お願い、こいつを殺さないで」

 犬に抱きついてみせる。メフタスは口々に説明された状況を全て聞き、あごを撫でて観察した。

「……なぜその犬が目を怪我していると分かったのだ?」

「なぜって……」

 もじゃもじゃで体の輪郭も分からない森のような犬とメフタスを見比べて口をつぐんだ。まあいい、とメフタスは手を振る。

「見たところ、危険はないようだが」

「ヤソー、でもあんなに汚れて」

「それは理由にはならない。……ツェタルとやら、その犬の鼻を掴み、口に腕を入れてみなさい」

 女たちは悲鳴をあげた。「そんな、食いちぎられてしまいますわ!」

「ヤソー・メフタス、ツェタルが怪我をすればその責めは私どもに下されます」

 ペジレットが静かにしかしつよくうったえる。「もしあの子の腕が無くなっても、私どもはヤソーのお指図だったと王に申し上げます」

「構わん。責任は私が負う」


 ツェタルは苦しげに息継ぐ犬に呼びかけた。

「いいか、おまえを助けるためなんだから、絶対にむなよ?」

 そろそろと鼻と思われるところを押し上げ、牙が伸びる巨大な口に片腕を突っ込んだ。

 犬は、涎を垂らしたままじっとしていた。ツェタルはよくやった、と小さく褒めて皆に向き直った。

「もういいだろ?」

「…………良いだろう。洗って毛を切ってやりなさい。なんなら私の部下を貸そうか?」

「ううん、へいき!」

 胡乱うろんな見た目によらず良い奴じゃないか、とツェタルはメフタスを見直した。てっきりンガワンのような底意地の悪い男かと思った。

「あんた!城の奴らにも念押ししといてくれ!この犬はわたしが面倒みるから!」

「王には自分で報告しなさい。婦人方、これで良いな?貴殿らも武器を収められよ」

 メフタスが周囲をなだめているあいだに犬の首あたりをまさぐり、食い込んでしまっていた縄を苦労して切った。すると両手に乗るくらいの血の塊を吐き出し、ぶるぶると首を振った。やっと楽になった、というような万感の思いが込められている気がしてツェタルは声を上げて笑った。



 帰ってきた泥だらけの一人と一頭は案の定リメドにこっぴどく叱られ、大きなたらいでいっしょくたに洗われた。

 犬の右目はもう潰れてしまっていて固まった腐肉を取ってやるしかなすすべ無かったが、何年もそのままだった伸び放題の毛を刈って爪を切り揃えるあいだ、ひとつも嫌がらず吠えなかった。図体は呆れるほど大きくて邪魔だが、ともかく賢い、とみなされ、とうとう女官たちの信用を勝ち得た。


 全身は黒い、しかし首回りの長い毛だけ金茶の犬。だから、誰からともなく〝金のたてがみセルラーパ〟と呼んだ。




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