落水
連結させた長い棒を人々が軽快に振り下ろして脱穀する風をもろに吸い込んでしまい
「なあ、まだ?」
「…………ないから」
「なんて?」
ぽそぽそと話す女は振り向く。気弱な白い顔でもう一度言った。
「牧草地は街を抜けないと、ないから」
「ふーん」
ツェタルは空の桶を振る。牧草地へ行くには市場を突っ切るのが早いのだが、くれぐれも油を売るなとリメドに釘を刺されている。それでも、物珍しいものばかりで歩みは遅くなった。
「ペジレット。あれは何をしてるんだ?」
今回のツェタルのお守り役はどう見てもアニロン人ではないが、その昔ヒュンノールの圧政から逃れてきた一族の子孫だそうで彼女も幼い頃から城に仕えているらしい。
ツェタルが示すほうを見る。売り子と客が長い袖を合わせ握手したままごそごそと。
「袖の中で指を組み交わして商品の値段を決めているの。お互い納得したら取引成立」
「へえ。
「ええ」
「じゃああれを覚えなきゃいけない?」
「いずれは」
建設途中の大きな家の上では男たちが歌っていた。
「なんで歌うの?」
「アニロン人は仕事の合間も歌を歌うわ。それが普通なの」
「あんたも歌う?」
そんなわけないか、と少し意地悪のつもりで言ったが、予想外にも頷かれた。
「私は
「いつはもそんなすぼまった話し方なのに?」
「これは、ただの癖」
「キレイなんだからもっと笑ったりすればいいのに」
ペジレットは表情を変えないまま首を傾げた。
「あなたも髪を伸ばして女物を着たらとても可愛らしいと思うわ」
「イヤだね!」「なぜ」
「髪を切ってたのは
ヒュンノールでは、女はいつも裏であくせくと働いて表には出てこなかった。身分の高い妃や愛妾は重んじられていたが、オグトログイが会議を召集するときは決まって男ばかりの場でさまざまなことが採決された。それを、脚にくっついていつも見てきた。そのせいでそう思うのかもしれない。
「わたしは、だれかの引き立て役なんかじゃなくて、頼りにされたい」
「洗濯も
「分かってるけど……」
「乳搾りだって、私たちがしなくては毎日の食べ物がなくなってしまう。そうなれば皆が困る」
牧草地へ着いた。黒いヤクがのんびりと草を食み、座り込んで居眠りしている。ツェタルはあまりの大きさにペジレットの背後に隠れた。こんなに近くで見るのは初めてなのだ。
「あ、あばれない?大丈夫?」
「平気よ。見ていて」
か弱い外見とは裏腹にペジレットは大胆に座り込み手本を見せた。ヤクの腹に埋もれるようにして作業する。最初はコツが
他の女たちも来て重くなった桶を手押し車に積んでいく。
「少し休憩しましょう」
それで、丘の向こう側はどうなっているのだろうかと女たちから離れた。さっきから気になってそわそわしていた。
「ツェタル、あまり離れて迷子にならないでね」
「わかった」
アニロンの空は近い。抜けるような蒼穹に綿花のような雲、雪を被った山々に囲まれて、水鏡をたたえた大小の湖が草原のあちらこちらに。その間をヤクと羊が散歩し、人も共に広大な平野を行き来していた。それら点の集まりを見渡し爽快感に溢れて楽しくなって、小さく歓声をあげながら一気に駆け下った。
「うわっ‼」
坂の終わりで段差があることに気づかず、面白いくらいきれいに泥沼に転び落ちた。
「わああっ‼」
わたわたと腕を振り回してなんとか岸にかじりつく。
「おい、大丈夫か!」
見ていたのか、遠くから人が来た。
「すぐ上がりな!そこに入っちゃなんねえ!」
もちろんそうしたいところだが底に足が着かない。衣の重みもあいまって再びずるずると沈みはじめた。待てよ、と焦った。ここってもしや、底なしなのでは。
数人の男たちが助けてくれようとするも、彼らの足場も湿地で一度入ると身動きできそうもない。伸ばされた棒を必死で掴もうとするが、すでに沼の冷たさで手が思うように動かない。
泥が口許あたりまできた。もう顔を上げていられるのも限界だ。男たちの怒号にも似た励ましが耳から遠のいていく。
ひときわ大きな悲鳴があがった。反応できず、うっすらと
霞む視界が一瞬にして闇に包まれた。
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