憂悶



 待たせた、と言った王に、本当に、と冷めた調子で返した男はとうの昔に中年を過ぎているはずが、いたばかりのモモのような白い頬にはシミひとつ、シワひとつない。

「待ちくたびれました」

「すまない、大祭主シェンラプ。いろいろあってな」

みそぎは滞りなく?」

「ああ、まあ」

 では、と優雅な所作でたっぷりとした裾をひるがえし歩きだした。

「お身体からだは問題ないですね?まさか宿酔ふつかよいなどではありませんか?」

「お前は俺が酔わないと知っているくせに」

「毎回とは限りません。神託を授かるのに不適正な状態では怒りを買いますよ」

「無論承知だ」


 きよめられた一室は白いとばりが張られて中は見えない。連れ立って入り、中ほどで座った。

 ヤク乳の灯火が規則正しく並び薫煙けむり漂うなかで儀式は進められ、占木が投げられる。出たかたちによって吉凶を判断した。左右に分けて置き、複数回重ね、シェンラプは長く息を吐き出した。


「あまり良くはございませんね」

「今までもそれほど良くはなかった」


 シェンラプは曖昧な答えの中に確実な事象を見い出そうとする。

「…………性急な施策はお控えなされませ。今はヒュンノールから解放された諸氏族と和睦し、いまだ落ち着かない国内の安定に重きを置くべきかと」

「もちろんだ」


 次いで、あぶったヒグマの骨を取り上げた。

「黒くはないが白いとも言えず。『湖の女王ツォゲル』のひびが深い。なにか心乱れることがあるようです。なだめの犠牲を捧げておきましょう」

「ああ、頼む」

ゲーポご自身は、他に気がかりはございますか?」

「東の動向が引っかかる。戦が終わってもう五日だが、なにも表明してこないし特に変わった噂もない」

「肩透かし、ですか。すぐに出てこられるよりよほどマシでしょう。いまは新たな戦よりも英気を蓄えるほうが大事です」

「そうだな」


 あといくつかの懸念と今後の政事についてを占断し、日が暮れた頃に辞した。シェンラプの下す卜占ぼくせんを丸々鵜呑みにして信じているわけではないが、今後の方針のアテになるし高い地位からの注進は重要だ。まつろわぬ神霊がわざわざ教えてくれたかもしれない前兆や予兆を馬鹿馬鹿しいと一蹴する気もなかった。しかし惑わされないようにとも気をつけている。異界の声を聞きすぎるのは良くない。あちらに引きずり込まれるからだ。


 どうせ手探りだ、と自嘲した。結局のところ、己が決めなくてはならないがあまりに責任と周囲への影響が多大な事柄を、見えない何かの後押しがあったのだから間違いないはず、として確信や安心感を得たいだけの行為だ。こんなことを言えばシェンラプは「神霊の導きに従うのは何より重要です」と憤り、冒涜ぼうとくは許されないと叱ってくる。


 …………北の覇者は、この重圧をどうやってやり過ごしていたのだろう。


 いや、そもそも重圧なんて感じることはなかったのか。

 ヒュンノールの他者をかえりみることのない独りよがりな征服戦争は周辺国にとってはあまりに痛烈無比にすぎたが、彼一個人の王としての権威や肥大した国内を治めきった手腕においては驚異的な力を有していたのは間違いなかった。

 見えないものを見通す四つ目の君主と恐れられ、実際に敵の出方を読み先手を打つ戦法で圧倒し、ほぼ負けなしで蹂躙じゅうりんし強奪した。凍てつく大地に我が世の春を築き上げた。

 しかしそのすべての戦いになんら不安や懸念が無かった、そんなはずはなかろうのに、なぜあれほど自信たっぷりに悪辣なまつりごとし進めることが出来たのか。


 これが器の違いか、と嘆息した。分かっている。自分は戦死した父親の後釜を継いだだけ、本当は国民をまとめあげる力など見せかけで、ただそれらしく振る舞っているだけなのだと。だから決定しなくてはならないあらゆることに己の知らないうちでもひどく迷い、無意識に誰かに指標を示してもらおうとしてしまうことも。



 そんな後ろ向きな憂鬱をひとまず頭から払い、夜市でも見ておくか、と城門をくぐった。門前で巡回する兵のなか、姿にいち早く気づいたひとりが礼をとった。


「何かご入用か、我が王」

「ジンミーチャ」


 がっしりとした上背のあるいかにも武人の彼が隣に立つと並の男では子どもに見える。センゲの父の時代からアニロンの王軍をまとめてきた古参の武将だ。

「少し散歩だ」

「使い走りなら小姓に頼めばよろしい」

「歩きたい気分だったのだ」

 すると横から別の静かな声があった。

「仮にも替えのきかない王が御自おみずから危険な市中に下りずともよいのでは」

「メフタス。なぜお前まで?」

「ジンミーチャどのに案内をお頼みしていたのです。まだまだ城内のつくりさえうといもので」


 メフタスもまた衛兵ではない。先ごろ討伐したヒュンノールの司令官の一で南域を守っていたが、戦の始めのうちにアニロンに投降し拠点を明け渡した。その後も追従を示し、新たに王軍の将に任じられた。

 四十半ばで長身痩躯そうく、ぎょろりとした目は独特の威圧感がある。松明たいまつにつるりと光るはずの禿頭とくとうは今は毛帽で隠れていた。


「凱旋したばかりで浮かれているのは分かりますが、王は目立ちすぎますゆえお控えなされたほうがよろしかと」

「そうそう。それにバレたら街の娘もほっとかぬ」

 あべこべな二人だが同じように反対されて頭を掻いた。街の賑やかさを肌で感じておきたかったのだが、今夜は無理らしい。

 分かった、と答えようとしたとき、


「ゲーポ!」


 しわがれた声に振り向く。城門の外、すぐそこに小さな塊がちんまりと座っていた。衛兵が厳しい顔で排除しようと駆け寄ったが止め、近づいて膝を折った。

巫師ハワドゥクモ。どうした、ここにいては冷えるぞ」


 ハワは祭司シェンとは違い、日々の修行は積まず御霊神クラの神託によっても任じられていない、まったき清い斎戒者とは認められていない民間の占者だ。薬や医療にも詳しいが呪術や妖術にも長ける。人々は頼りにする一方、高額な報酬を要求してくるのでけむたがる存在でもあった。


 ドゥクモはその中でも昔から高名なハワだ。

「ゲーポをお待ち申し上げておったのじゃ」

 老爺とも老婆とも分からない、顔を隠した老人は杖を揺らした。シワだらけの手を挙げる。

「ゲーポはよからぬものを持ち帰った」

「よからぬもの?」

むべき魂を傍に置いてはなりませぬ。災いが、災いがありまする」

 予想を無視して憮然と問うた。「どのような災いだ?」

「火でございまする。アニロンを火の風が襲いまする。魔物のを殺しなされ。でないとゲーポよ、あなたさまは死にまする」

 一緒に聞いていた衛兵たちが槍を構えた。ジンミーチャが威圧する。

「この無礼者!王の死を預言よげんするのかいやしい守銭奴!」

「ゲーポは呪いの眼に囚われる。北の王はそれで身を滅ぼした。このままでは必ず、必ず同じようになる」

「舌を抜かねば分からんか!」

 ドゥクモはひゃらひゃらと笑ってよたよたと立ち上がった。びしりとかぎ針のように曲がりきった指を向けた。

「我らが雪獅子センゲなる英雄パウォよ。足の下に気をつけなされ。じゃが、魅入られてはならぬ」

「…………お前の勧めはいつも意味深で俺には難しい。よく分からないが、励ましてくれているのだな?」

「もちろん、もちろん。ドゥクモはいつでもこのアニロンに身を捧げるハワですゆえ」

 ちょいちょい、としたこまねきに苦笑し、指環ゆびわを渡してやった。




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