邂逅
「そこにいるのは誰だ」
がさがさと下生えを掻き分ける音と共に男がやってきて
「お前……どうしてこんなところにいる」
せっかく水を浴びたのに汗が浮いた。どうする、と視線を左右に泳がせる。あの白髪頭だ。間違いない。アニロンの王、オグトログイの
迷っているうちに
「口はきけるだろう」
「………………」
「無視か?」
『……猿ときく口はない』
『俺は猿じゃない』
こいつ、と水を
『いけ好かないクソ野郎』
『センゲだ。北語でしか話さないのならそれでもいい。それより泉から出ろ。それ以上奥へ行くな。ここには……』
言いかけ、静止した。
「……なんだ、お前……女だったのか」
「なんだとはなんだ!」
センゲはくるりと背を向ける。「ひとまず休戦だ。とりあえず服を着ろ。風邪をひく」
「そんな簡単に後ろを見せるなんて、また刺すぞ」
「ああ、分かった分かった。とにかく、子どもといえ目のやり場に困る」
「ならその目潰してやる」
勇ましいな、と嘆息して頭を掻いた。「
「十と二だ」「嘘をつくな」
本当だ、と顔をしかめながら岸へ上がり、袖に腕を通す。服も洗おうと思っていたのに!こいつのせいで台無しだ。
「数のかぞえ方は習った!」
「まだ九つかそこいらだろう。背が低すぎるし棒きれみたいなのに」
「うるさい!」
手頃な石を拾って投げたがセンゲは見ないまま難なく受け止めた。
「六つのときに
「そうか。ならまあ、そうなんだな」
改めて少女を見下ろした。髪は短すぎ、
「中央語が上手いのは感心した」
「ふん。これもデルグに教わったんだ。『敵を知るにはまず言葉から』って、いつも言ってた」
「ふぅん。なぜオグトログイはそれほど手塩にかけたお前をただの〝足置き〟に?」
「それは……」
口を開いたが、次にはそっぽを向いた。
「どうでもいいだろ」
「そうだな。それはどうでもいいが」
ぐん、と背を屈めて顔を覗き込まれた。高いところから影が降りてきてびくつく。
「――――お前、俺に何をした?」
「……な、なんのことだ」
「はぐらかすのか。その眼の色、生まれつきか?」
閉じようとしたが初めのときのように顎を
「
じっと見てくる
「し……知らない。はなせ」
「嘘をついても良いことはないぞ。オグトログイの小姓でも
そこはかとなく怒ったふうで、センゲは荒々しく衣を脱いで泉に入った。
「おい、自分はいいのかよ」
「ここは
「王だからいいってのか」
「ああ。これから神託をもらいに行かねばならないから
「あっそう」
言いながら逃げようとしていた少女を待て、と止めた。
「火を
「なんでこっちが」
「俺は
ばかばかしい。オグトログイだって神々を
「……おい、火ってどうやって
「知らないのか?」
唖然と振り返ったセンゲに腕を組んだ。「知らない。飯炊き女じゃなかったし、猟のときは男たちが用意してた」
「それでお前はただ主人の脚にかじりついてたわけか」
「それがオルヌドのつとめだった。おまえがうばった」
センゲは濡らした髪を掻きあげた。
「……枯れ枝を集めろ。逃げるなよ」
なんでおまえから逃げる、と舌を突き出してみせた。むしろ殺す絶好の機会だ。
センゲが奥の深みでなにやらしているのをよそに彼の荷を漁ったが、武器らしいものは持っていないようで不平を垂れ、仕方なしに枝を集めた。とりあえず寒いから奴に火を点けさせよう。
センゲが水からあがってきた頃にはすっかり待ちぼうけで数発くしゃみをかました。せめて衣を洗わなくて正解だった。
「おまえ、いつまで入ってんだ。ふやけてぺらぺらになるぞ」
「誰のせいだと思っている」
丹念に体を拭いて着替えながら小さすぎる枝の山に鼻を鳴らした。
「たったこれだけか?すぐに燃え尽きてしまうぞ。もっと集めろ」
「命令するな。だいたい……」
取り出した火打ち石を見て憤激した。
「ずるいじゃんか、自分は石を持ってた」
「持っていないならふつうは訊く。……そら」
ぱちぱちと燃え上がった炎にほっとして手をかざした。センゲは袋から粉を取り出し、火と泉に
「なんだよ!」
「いいから静かに。じっとしていろ」
今や真っ赤な空を見上げる。つられて暗くなってきた周囲を見回した。昼にはあれほど爽やかだった森は今や鬱然と沈み、
ぞわりと背後に何かが通り抜けた気がして肩が跳ねた。センゲは
「振り向くな」
「な、なんなの」
「夜は
しばらくじっ、と息を殺していると、やがてセンゲは力を
「もういいぞ」
「おまえ、何者?
「いいや、そう呼ばれる者は他にいる。ヒュンノールではどうか知らないが、ここでは目に見えないものたちの機嫌を損ねると悪いことが起きるとされている。だから怒らせないよう祈る。もし無礼をはたらいたら、怒りを
「そんなの、気のせいだ」
「かもな。だが気のせいじゃなかったときのために祈り、感謝する。泉で獣や人が沈むのも、森の中で迷うのもままあるが、それらがすべて自分の不注意だとは限らない」
「……おまえがいなかったら、オルヌドは死んでたのか?」
どうかな、と小首を傾げて彼は離れた。聞いたことをまるきり信じはしなかったがまだ後ろを見れず、ぞわぞわとした感覚が続く腕を
センゲは含み笑う。
「
「また?ど、どこ行くんだ?」
「火のそばを離れるなよ」
いま独りになるのは正直怖いものの意地でも表情に出さないよう奥歯を噛み、
「この裏山では肉を食べてはいけないが地の実りならば採りすぎなければいい」
「イチゴ!」
歓声と同時に手を出したがセンゲはひょいと包みを掲げた。「言ったろう。まず育ててくれた
「そんなの知らない!」
「ではせめて『いただきます』くらい言え」
「……いただ、きます」
かなり腹を空かしていたのか、よし、と許すと夢中で頬張りはじめ、口許を真っ赤に染めた。衣に垂れてもおかまいなしだ。とても十二の少女がするようなふるまいではなかった。
再び泉にことわって汚れをすすがせ、改めて向かいに腰を下ろしたセンゲは火を透かして興味深げに見つめた。
「主人の首を取り戻しに来たのだな」
満足気な顔が一瞬にして歪む。
「……そうだ。でももう無かった」
「ああ、もう無い。それでお前はこれからどうする?」
「おまえを殺す」
「却下だ」
光をよく弾く白髪を乾かしながら首を振った。
「諦めないなら俺がお前を殺すしかなくなるぞ。助け損だ」
「だれも助けてくれなんて、」
「ではあの場でンガワンに斬られていたほうが良かったか?」
言い返せず黙った。
「なぜそれほどオグトログイを慕っていたのかは知らないが、どのみちもういない。死者をいつまでも追うな」
「でもじゃあ、だって、どうしたらいいんだよ……」
膝を抱えた。「家族も仲間もいない。どこにも行けない」
「城に来い」
「え?」
「お前は何も知らない。そんなことでは生きていけない。生きていくには仕事をしなくてはならない。死にたくないなら共に来い」
生真面目にまっすぐ見つめられて戸惑った。オグトログイの濁った曇天のような瞳とはまるで別物の、澄んだ湖面を彷彿とさせる眼差しだった。
「でも……でも、オルヌドは……」
「その名は捨てろ。いいか、自分を言う時は『オルヌド』でも『こっち』でもなく、『わたし』と言え」
「わたし……」
「そうだ」
焚き火を土で埋め水をかけ、「悪いものに
「わたしは、だれになるの?」
「考えてやる」
「あんたが?」
「不満か?」
しばらく黙り、それから首を振って握り直した。
「べつに、イヤじゃない。あんたは、イチゴをくれたし」
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