湖畔



 ――――間に合わなかった。


 はなをすすり、乱暴に目許をこすってとぼとぼ歩いた。行く宛も目的ももう無かったがとにかく誰かに見咎められて捕まったらまずい。しぜんに人の少ないほうへ、と市街地を回って王城の建つ山の裏手に向かっていた。


 首だけになっても、あるじは主だ。取り返して、きちんときれいにして埋めてやりたかった。たとえば、こういう見晴らしのいいところに……と山を登りつつ、時おり木々の間から覗く空に眼を細めた。


 標高はそれほどない。昼を過ぎて陽射しが強くなった。腹が減って死にそうだったが、野山に生えるものには詳しくない。いくら美味しそうでも毒があったら、と思うと不用意に口にできなかった。


 ヒュンノールでの食事は素晴らしかった。切なく思い出して溜息をこぼした。いつでも温かくて、柔らかくて、好きなだけ食べても良いと言われていた。務めをしっかり果たすなら金銀もたくさん。

 けれど、ごちそうやごほうびにさほども執着は無かったのだ。必要なのは主に褒められ、ずっと側にいさせてもらうこと。それがなければどんなものを与えられてもつまらなかった。



 オグトログイはなぜあのとき、自分を殺さなかったのだろう。



 だって、自分は彼の〝足の裏の眼オルヌド〟で、敵の手に渡ればと分かっていたはずなのに、そして死期を悟っていただろうに、なぜわざわざ隠れているようにと――隠れてやりすごして、逃げろと言ったのだろう。


(いっそのこと、殺してくれればよかったのに…………)


 こんな見ず知らずの、しかもかたきの国でいったいこれからどうやって。


 絶望でどうにかなってしまいそうだ。無心に斜面を登り続け、陽が傾き周囲があかく染まった時分に、ふと森がひらけて小ぶりの泉が現れた。


 水だ、と歓喜し安全を確かめず頭を突っ込んだ。夢中でがぶ飲みし、ぷはぁ、と満足してやっと落ち着く。泉は深い青と緑を混ぜ合わせた色で透けていて、中できらきらと小魚の群れが泳いでいた。衣を脱ぐ。汗をかいて乾いてを繰り返し気持ち悪かったのだ。

 冷たさを無視して足から滑り込み、ふちべりでしゃがむ。周囲は風が木の葉を揺らすささめきと呼び交う鳥のさえずりだけ。


 水がたくさんあるところだ、と垢を擦りながらねたんだ。遠くの川まで水汲みにいかなくてもいい。毎日桶いっぱいに湯をはって汚れを落として、毎朝洗いたてなのか。ここのやつらはずるいし楽をしている、と恨みがましく油脂あぶらのまわった頭を何回も洗った。


 そうだ、ここは人もいないし飲み水には困らないからしばらく泊まろう。食べられそうなものを探して、寝床をつくろう。本調子になってからヒュンノールに帰ればいい。馬は、今度はバレないよう上手くやらなければならないが。

 新たな計画を思いつき、少し前向きになって伸びをした。



「――――誰だ?」




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る