失楽



 悲鳴をあげて飛び起きた。周囲は暗闇、いいや、眼が、と絶望し慌ててこすったが、視界の端にほんのりと白い光が浮いていてどっとへたりこんだ。


 ここはどこだ……?見下ろすと真新しい夜着に着替えていた。清潔な寝台とたった今まで被っていた毛布。落ちていた濡れ布巾ふきんを拾い上げ、額に乗せ直した。ひんやり冷たい。

 彼の足みたいだ、と思った途端、じわりと涙腺がゆるんだ。


 ――――独りになってしまった。


 オグトログイだけがいればそれで良かった。彼が臣下たちに語るあいだ、黙るあいだ、怒鳴るあいだ、しがみついてることが仕事だった。自分は王の気に入りなのだぞと鼻高々に誇ったがそれはおくびにも出さず、必死に頭を垂れて這いつくばるつまらない男たちを一段高いところから見下して心の内でわらった。オグトログイは静かで泣きも笑いもしない、口ごたえしない自分が好きだったからそうした。

 機嫌が悪いときには蹴られたりつねられたりしたが不満はなかった。それは彼なりの愛情表現だと思っていたし、実際に遠ざけられはしなかった。ただ居るだけで許されていることに安心した。

 それなのにこれからどうすればいい。



 ぞっとする、依りどころない不安が襲い、いてもたってもいられなくなった。狭苦しくて暗くて息がしづらい。上にはほんの少しだけ明かり取りがあるだけ。出口は、と物にぶつかりながら歩き回る。眩暈めまいを感じて手をついたとき、黒い壁は予想外に押し出された。


「わっ……」


 そのまま倒れ込む。ゆさゆさと支柱が揺れた。簡易の天幕だったのだ。しかも獣皮で覆っただけの粗末なもので、がむしゃらに匍匐ほふくしてついに最後の一枚をめくりあげた。

 土のにおいを感じ、それから新鮮な空気をめいっぱい吸った。外だ。


 幕内よりは一段薄い黒が満ちた夜明け、よろよろと立ち上がり見回す。よく分からない。呼吸を整えながら足を踏みだした。ごつごつとした地面、ヒュンノールの草原ではありえない。


 側にもうひとまわり大きな同じ天幕があり、ふいにひらめき、灯を掲げた人が現れた。即座、駆け出す。

 制止する声を無視したまま一目散に小石を蹴りあげ、闇雲に走った。



 何度かけつまずき、転び、それでも背後を振り返らず、やっと立ち止まった頃にはあたりはずいぶん白くなっていた。乾燥して焼けつく喉がカラカラで咳き込む。体中が抜けるように痛い。

 近くは荒地で民家はない。家畜もまだ柵の中らしい。ぽたぽたと汗を垂らしもう一歩も動けず、悪寒のせいでまさに羽をむしり取った鳥肉みたいな自分の腕をさすり、前屈みにしぼんだ。

 どのくらいそうしていたか、眩しい、と感じ、なんとか身を起こそうとした。



「――――大丈夫?」



 間近で聞こえた声に汗が吹き出た。逃げなければ。でも、動けない。

 声のぬしはそっと背に触れてきた。


『さわるなっ……』

「こんな格好で」


 ばさりと重い何かが乗って、ぐいと肩を引かれる。力の入らない身体からだはいとも容易たやすくなすがままになった。

 思わずぎゅっとまぶたを閉じ歯を食いしばった。


「……どうしたの?頭でも痛い?風邪をひいてしまった?」


 柔らかな声にこわごわ薄眼うすめを開けると、暁光を背にして見下ろしているのはどうやら若い男だった。まだ少年と言ってもいいくらいだ。四つ耳帽の上にオオタカが鎮座しており、ぐわりと両翼を広げた。その影にさえ怯えた。

『は、はなせ』

「悪いけれど北語は少ししか分からない」

 分厚い上着にくるまれ、近くの林の側まで運ばれてしまう。

「いま火をおこすから、待っておいで」

 手際よくかまどをつくり器やら瓶やらを取り出す。タカが火のまわりをとっとっ、と飛び跳ねてこちらを睨み、再び主人の肩に乗る。一人と一羽の動くさまをぼんやりと見ていれば視線に気づいたのか微笑んだ。

「珍しい?泊まりがけで狩りに行ってたんだ。みんなもうすぐ渡ってしまうからね。ウズラは食べられる?」

 腰に提げた袋から丸々と肥えてばたつくそれを掴みだした。まだ生きている。慌てて顔を逸らした。

「食べない!」

「そうなのか。じゃあ麦焦がしツァンパにしようね」

「いらない……!おまえ、だれだ」

 火の熱で顔がほぐされてようやく口もまわるようになった。

「おまえもここの奴だろ」

「そうだよ。きみは違うね」

「あたりまえだ!野蛮人と一緒にするな」

 彼はふぅん、と唸ったのみ。まったくこたえないようで、小さな器になみなみ注いだ乳茶オジャを差し出した。

「ここの言葉が上手だ。さ、自分で飲めるかい?」

 毒でも入ってやしまいかと疑ったが飲みたい欲に勝てず、しかしかじかむ指では受け取れるはずもなく、結局青年が近づいてきて器を口にあてがってくれる。

「ふぅふぅできる?」

「ばかに、するな……」

 慎重に冷まし、三口ほどすすれば熱がじんわりと腹に降りていって、思わず、ほぅ、と息をついた。


 何度か繰り返して全身の震えがやっと収まった頃に青年はまた笑った。

「落ち着いた?それで、どうして逃げているんだい?」

「…………帰る。ヒュンノールに帰る」

 ヒュンノール、と呟き、青年は前方の斜面を見た。「それならぜんぜん方向が違うね。ヒュンノールは西じゃなくて北だよ。それに、もうそんな国は無い」

 言葉に弾かれて見返す。彼は肩を竦めた。

「僕たちアニロンが討伐した。あの暴虐無道ぼうぎゃくむどうの大王オグトログイの首をねた」

「返せ」

「返す?どうしてきみに?きみは何者?ヒュンノールの奴隷でしょう?」

「奴隷だ。大君主デルグの奴隷だ。アニロンのじゃない」

 なるほど、と頷いた。「けれど北の王はもういない。帰るといっても、帰る場所は無いのじゃないかな。自分の一族の名が分かればまだ望みはあるけれど、分からないだろう?」

 唇を噛みしめて俯いた。一族なんて、いない。からいなかった。

「僕らの遠征軍は行き場のない者たちを引き取ってきた。きみもその中にいたのなら、これからはここがきみの生きる場所さ」

 首を振る。タカが、ピャ、ピャ、と鳴いて小馬鹿にするように覗き込んできた。足掻いても無駄だ、と嘲笑あざわらっている。

「イヤだ。デルグを斬ったあの白髪頭の国に住むなんて」

「白髪頭?ああ。じゃあ、きみが例の小兎こうさぎか。僕たちのゲーポが助けねば死んでいたと聞いたよ。それなのに恨むの?」

「許さない。ぜったい殺してやる」

「それなのに逃げるんだ?」

 うっ、と詰まった。青年は平然として小枝を焚き火に放る。

「殺したいほど憎いなら、選択肢は二つだね。ここを出ていってセンゲさまをたおせるくらいの力をつけるか、従うふりをして近くでお仕えして機会を待つか。きみには後ろ盾になる仲間も家族も何もないから、出て行くのは賢明とは思えないかな、僕は」

「え……なんで、そんなこと教える」

 呆気にとられて訊けば、逆に不思議そうな顔をした。

「どうやって殺すかも分からないようだったから」

「それは…そうだけど」

「まあ不可能だけどね」

 たのしげだ。

「アニロンの王を討ち果たしたいというやからはごまんといるよ。さすがにきみほど小さい子は初めてだけれど、過去何度そういう奴らが押しかけてきたかしれない。でも無理だよ、あの方は。北の覇者ヒュンノール討伐を成功させたんだから」

 それに僕が具体的な暗殺計画を余裕で提案してやれるほどにはね。言いきった調子にまたむかむかとした。

「ばかにしやがって」

「王が助けた子を簡単に見逃せはしないよ。さあ、では戻ろうか。送っていくよ」

 随分明るくなってきた空を見て立ち上がった。「今ごろ心配してるだろうな」

「戻らない」

「まだ言う?きみみたいな子、すぐにオオカミの餌食になるか盗賊に捕まって売り払われてしまうよ」

 思わず生唾を飲み込んだのがバレた。終始微笑みを絶やさない彼に危なげなく抱え上げられ、馬にしがみつく。後ろにタカが悠々と降り立った。


「大丈夫。すぐにここが気に入る」

 手綱たづなを曳き朝陽に向かって歩き出した背に問う。

「あんた、……名まえ、なに?」

「僕はユルスン。クンナク・トトリ・ユルスン。困ったことがあったらなんでも言って」

 助けになるよ、と優しく言った。




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