夢寐



 記憶は、あの時からしかない。

 どっしりと構えた彼の下でぼんやりと俯いていれば、彫像のような完璧に造形された足がすっと伸びてきてあごを拾い、頬をつまみ、鎖骨を軽く押す。


「お前が俺に忠誠を誓うならば、示せ」


 おずおずと両手で足を捧げ持ち、口づけを落とした。

「わ、我があるじ、オグ、オグト、ログイ……」

 つっかえた覚えたてのつたない挨拶には微動だにせず足指が口に突っ込み、しばらく掻き混ぜられて引き抜かれた。

「お前のせいで汚れた。どうする?」

「あの、えと……」

 茫洋としたまま透明な糸を引く足と主の顔を見比べ、さっきと同じことをしてみせた。

きよまったのか?」

「いいえ、大君主デルグ……」

 指の間まで全ての水を丹念に舐め取り、最後にもう一度唇を押し当てると、ふ、と笑い声が降った。

「いいだろう、賢い奴隷よ」初めて優しげな声音で言った。



 ああ、今日も冷たい、と深く安堵した。主の足は春も夏もいつもひんやりとしていて、秋と冬はよりいっそう温度が無く、それが、嬉しかった。

 なぜなら自分は主の足置きだからだ。足置きで、洗い係で、ぬくめ係だと自負していた。玉座に腰を下ろした主の両足はいつも腕の中にあり、それを抱きしめて頬ずりすると塗りこんだ香油のいい匂いがしてすべすべした。耳を寄せるとわずかにとくとくと流れる血の音が聞けた。大好きだった。役立たずの自分に身体からだを預けてくれる。本来なら触れることさえ許されない至上の絶対君主がこんな素性も分からない小汚い奴隷をずっと使ってくれる。誇らしかった。


(デルグは忘れたと言ったけど)


 初めて出会った時のことは、もう何万回も夢で思い出した。

 今日もまた、夢が夢だと分かるなかでデルグは座っている。中腰で駆け寄って逞しい脚に抱きつく。ああ、やっぱり冷たい。自分がいなくては冷えて仕方ないだろう。待ってて、すぐ息を吹きかけて心地よくするから。


 しかし、いつまで経ってもちっとも冷たいまま、ぬるくさえならない。汗もかかない。おかしい、といぶかり、なぜ、と焦った。このままでは怒られる。要らないと言われる。捨てられる。

 ふいに足が持ち上がり、眉間を押された。


「オルヌド。もう


 まるで死刑宣告を受けたみたいだった。

「な、なんで……」

「使いものにならぬ」

「ま、待って。次はちゃんと」

 手が伸びてきて頭に置かれた。見上げた表情はぐんにゃりと歪む。他のすべての景色も曖昧になってゆく。


 必死で主を呼び、もがいたが、黒い斑点がかびのようにむしばみついには何も見えなくなった。




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