一章

凱旋



 湖の谷アニロンは周辺を山々で囲まれた水源多い国である。年中乾燥した高地なものの山野の恵み地の実りには事欠かず、暮らす人々もおおよそ勤勉で穏やか、ヤクと牛と羊を飼い良馬を育てる。とはいえ、ここ何世代かは他の国々とのつきあいが順調ではなく、頻繁に小競り合いを繰り返し安定しているとは言いがたい。


 山を隔てた北は地平続く大草原、そしてつい先日撃破したヒュンノールの領地が広がり、そのさらに上は巨人族がまう秘境があるという。南は持ちつ持たれつの関係を続ける小氏族集団が割拠する。西は踏破困難な高い高い山脈にどこまでも無窮むきゅうの荒野、そして東には、歴史上最も多くアニロンと剣を交える軍事大国ドーレンがあった。


 ヒュンノール討滅とうめつの知らせは瞬く間に各地に伝播し一方では解放と安寧をもたらしたが、他方では警戒と緊張を生んだ。かの国にしいたげられ恭順を余儀なくされていた無数の氏族は諸手もろてを挙げてアニロンに和平と友好の使節を送ってきたが、影で大国を利用し甘い汁をすすってきた者たちは都合悪く危険な英雄を早急に追い落とし消し去ろうとすでに画策を始めているかもしれない。



「とくにドーレンとかな」

「違いねえ」



 ふもとから街へと続く道を揚々と駆けくだる遠征軍団の中ほど、ンガワンは王と馬を並べた。

「ヒュンノールと密約を交わしてるっていう噂は案外本当だったみてえだ。投石機の飛距離がやばいくらい上がってたし。きっと金を積んで職人を囲いこんだんだ」

「かといってヒュンノールが絶対に約束を守っていたかといえば違う。ドーレンの北では首都の目が届かないのをいいことにあくどくやっていたみたいだぞ」

「卑怯な奴らだ。あいつらのおかげでどれだけ……」


 言いかけ、前方で騒ぐ一群に渋面をつくった。


「……おい、センゲよ、お前が情けをかけたあのクソガキだ。いっぺん馬に踏まれて死んだほうがいいんじゃねえか?」

 そちらもまた呆れた様子で苦笑していたが、一転、真顔になり手綱たづなを握り直した。

「……おそらく、オグトログイに最も近くではべっていたのだろう」

「〝足の裏の眼オルヌド〟なんて、えらく洒落しゃれた名だ。馬鹿みてえ。〝四つ目野郎〟の下僕にはピッタリだがな」



 オグトログイは生涯を侵略戦争に捧げた北の王だった。あらゆる戦略と戦術で領土を拡げ、反抗する者は連なる血筋まるごと闇にほうむった。処罰や報復においては残忍苛烈、右に出る者は今後もいなかろう。隷従させた諸族の婦女子を人質として召し上げ、多くの子孫をもうけて栄華を築いたのだ。


 畏怖された最も大きな理由がある。彼は敵の企みや同胞の裏切りを目敏く察知する能力に長けていた。どんなに綿密に計画を立て、露見は万一にひとつも無いというような謀反むほんも数日のうちに暴いてしまう。敵国から忍び込んだ斥候など、ヒュンノールの領土に入った瞬間に虎の餌になった。それでいつしか「大君主デルグには顔以外にもうひとそろい目があるのだ」とまことしやかに流布されるようになった。



「……そうだな。その名やあの懐きようからすれば、大層可愛がられていたのかもしれない」

「もしか、あの野郎はとんだ屑で変態だったってのか?」

「さあな」

「なんであんなガキ助けた」

 センゲは微笑した。

「さあな」


 ンガワンを後に残しくだんの子どもが乗せられた馬に駈歩かけあしで追いつく。うんざりした様子の臣下が不満を洩らした。

「寝たかと思えば下ろせ下ろせとうるさくてかないません」

「手間をかけた。俺のほうへ」


 一度群れから外れて受け取る。騒ぎ疲れたか、くつわと腕の縄を外して抱えても昏倒したまま起きなかった。

 憐れなほど髪が短いのは奴隷の身分ゆえなのか。煮込めた蜂蜜のような濃い肌の色、陰を落とした睫毛まつげに縁取られた眼は、今は見えず。それをなんとはなしに残念に思い、苦悶の表情でつむぐ浅い呼吸を微かに聞きながら再び進んだ。




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