第20話 日比野舞子

 甲賀の山側の土地に日比野舞子が住む家があった。だがここは本当の彼女の家ではなかった。

 以前、日比野舞子は両親と姉の香とともに静岡で暮らしていた。香と舞子は幼いころからその近所で美人姉妹として有名だった。小さいながらも会社を経営すると父のおかげで彼女の家は裕福だった。家中に笑い声が満ちて活気にあふれ、何不自由もない明るく楽しい家庭・・・それがある日、一変してしまった。

 それは舞子が中学生の時だった。姉の香とふざけ合いながら両親の帰宅を待っていた。するとそこに電話がかかってきた。


「静岡警察署です。日比野さんのお宅でしょうか。」

「はい。そうですが・・・」


 電話に出た香は警察からの電話に悪い予感を覚えた。


「日比野雄介さんと裕子さんのご家族の方でしょうか?」

「はい。娘の香です。」

「ご両親が交通事故にあわれました。静岡病院に行ってください。」

「えっ・・・」


 香は動転しながらも舞子を連れて病院に駆け付けた。しかしそこには顔に布をかけられた両親がいた。


「さきほど死亡確認をいたしました。交通事故でここに運ばれてこられましたが、もう尽くす手もなくて・・・」


 横にいた医師はそう告げた。香と舞子は崩れるように両親の遺体にすがって泣いた・・・。

 だが悪夢はそれだけではなかった。近所の人の手を借りて両親の葬式を出し、今後のことをどうしようかと思ったところ、2人は滋賀県の甲賀に行くことになった。香と舞子は伯父夫婦の家に引き取られることになったのだ。元々、この伯父夫婦とは疎遠だったのだが、役所が姉妹の保護者として何とか見つけてきて、投げ出すかのように引き渡した。

 この家は伯父の大角幸雄と伯母の大角伸江の2人暮らしだった。子供はいたが成人して家を出て、上京したきりで連絡をよこさなかった。幸雄は病気をしてからあまり働けなくなり、伸江のパートからの収入がこの家を支えていた。だから生活は苦しく、2人の姪の面倒を見る余裕などなかった。しかし彼女たちが持っていたわずかばかりの遺産に目がくらんだ。幸雄は後見人として財産の管理をすると言って、その遺産をすべて自分たちのものにしてしまった。そうなると2人の姪は邪魔な存在でしかなかった。しかし近所の人の手前もあった。


「香も舞子もかわいそうでね。少しでもここで楽しく暮らせるようにって気を使っているのよ。」


 伸江は近所の人にはそう吹聴して、2人を温かく迎えたふりをしていた。

 だが実際は違った。家事一切を香や舞子にやらせてこき使った。そして事あることに怒鳴り散らし、手を上げることもよくあった。香はそれに耐えていたが、高校卒業前には


「もう耐えられない。」


 とその家を出ようと思った。ただ気がかりだったのは妹の舞子だった。一人残していくというのが・・・。しかし連れてはいけない。香は舞子に言った。


「必ず、落ち着いたら迎えに行くから。それまで我慢して待っていて。」

「うん。待っている。お姉ちゃんを信じて・・・」


 香はその言葉を聞いて、高校を卒業すると上京していった。

 それからは舞子にとってその家は針の筵だった。幸雄と伸江はさらに舞子につらく当たり、彼女は一人で泣くしかなかった。

 舞子には中学を卒業して高校に行かずに就職して、その家を出る選択肢もあった。だが学校の先生の勧めと伯父母の世間体を気にして、舞子はなんとか日輝高校に入学できた。その頃、彼女は最悪なほど落ち込んでいた。


「私なんていない方がいい。」


 だがそんな気持ちを変えさせた出会いがあった。それは入学式の日だった。たまたま日輝高校に向かう道で香島良一と出会ったのだ。同じ制服を着ている舞子に良一から声をかけてきた。


「おはよう!」

「えっ・・・おはよう・・・」

「日輝高校だよね。これからよろしく。」

「ええ・・・」


 最初はぎこちなかった。だが少しずつ話して打ち解けていき、高校に初めて向かう不安がなくなっていた。偶然にも2人は同じクラスになり、一緒に登校するようになった。彼氏・・・とまではいかないまでも何でも話せる相手だった。もう舞子は孤独を感じなかった。

 良一には包み込むような優しさがあった。家で辛い日々を送っていたが、良一といると心に安らぎを覚えた。舞子は良一と付き合って、初めて心を許せる人に会ったと思った。舞子の心は次第に解きほぐされていった。

 そしてもう一つ、高校で舞子が得たものがあった。それは音楽の楽しさだった。入学して間もないころ、舞子がふざけて何かの歌の一節を歌ったことがあった。それを偶然聞いていた軽音楽部の当時の部長だった大杉南が耳にしたのだ。


「あなた、軽音楽部に入ってみない?」

「えっ! 私が?」

「ええ、歌がよかったわ。」

「でも・・・」

「大丈夫。私が教えてあげるから・・・」


 南は何度も舞子を勧誘した。迷った舞子は良一に相談してみた。


「やってみなよ。ここじゃ、君はスターになれるかも。」

「えー! 私が!」

「そうなったら僕とはもう口もきいてくれなくなるな。」

「そんなことはないよ。良一とはいつまでも一緒だよ。」

「じゃあ、決まりだ。僕も応援するから。」


 良一は冗談を言いながらも入部を勧めてくれた。舞子は躊躇していたが、良一に背中を押されて入部することになった。

 南は舞子の素質のすばらしさに気付いていた。自分のお古のギターを与えて、手取り足取り教え始めた。するとめきめきと腕を上げていった。


「これで我が軽音楽部は安心だわ。平塚響子と日比野舞子がいるし。私も後を任せられるわ。」


 そう言い残して南は卒業していった。舞子は面倒を見てくれた先輩がいなくなって寂しい思いをしたが、それ以上のことがこの部の陰でうごめいていた。南に目をかけられていた舞子に嫉妬する者が少なくなかったのだ。


「あの子、いい気になって・・・」

「少しばかり歌がうまいからと言って・・・」

「先輩に取り入ってうまいことした・・・」


 陰口を言う者が後を絶たなかった。響子も口に出しては言わなかったが、面白くはなかった。

 舞子に耳にもそれは聞こえてきたが、家のつらさに比べれば何のこともなかった。彼女の高校生活は充実していた。そばには彼氏のような良一がいて、軽音楽部のバンド活動も彼女を夢中にさせた。高校2年の秋までは・・・。

 良一は成績優秀で、教師たちの間でも評判が良かった。彼は将来、世界を股にかけた商社で働きたいと思っていた。それでアメリカへの短期留学を決めたのだ。それがその時期だった。舞子は良一にそっと言った。


「さびしくなるね・・・」

「何言っているんだよ。半年ぽっちさ。そんなのすぐだよ。」

「でも長く感じそう。」

「手紙を書くよ。舞子も書いてくれよ。それなら少しはましだろ。」

「ええ、そうね。そうする。」


 そうして高校2年の秋に良一は半年間のアメリカ留学のために旅立っていった。その時は舞子の心がかなり動揺したものの、やがて彼から届く手紙が彼女を不安から救った。

 そして舞子はさらにバンドに力を入れた。彼女がギターを鳴らして歌うとそれは絵になった。年に4回行われる軽音楽部のコンサートには、彼女を見に学外からも観客が来るほどだった。舞子は響子を差し置いて、この部のトップバンドのボーカル兼ギターのメンバーになるはずだった。それが一変することが起きたのだ。


 その日、舞子は街に買い物に出た。それは久しぶりの息抜きだった。ここには彼女があこがれるようなものが何でもあった。背伸びしたい年頃の少女にとって化粧品や大人びたファッションアイテムは心をくすぐった。だがそれらは舞子が自由に買えるものではなかった。伯母の伸江は舞子に小遣いなど与えるわけはなかったからだ。彼女はただ見つめてそれをつけた時の自分を想像するしかなかった。


(こんなのをつけたら素敵だろうな・・・)


 そう思った舞子に一瞬、魔が差したのかもしれない。無意識に新色の口紅を握って、それをバッグに入れていた。そしてふらっとその店を出てしまった。舞子は万引きをしてしまったのだ。


(あっ! どうしよう・・・)


 その行為に気付いたときは、もう店を離れて道を歩いていた。返しに行こうとも思ったが、恥ずかしさで今さら引き返せなかった。振り返ると、幸い誰もその万引きに気付いて追ってこない。このまま…と舞子は思って歩き出すと、その前には響子が立っていた。残忍な笑みをしながら・・・。


「見たわよ! そんなことして・・・」


 響子の言葉に舞子の目の前は真っ暗になった気がした。こんなことがばれたら学校は停学、家ではあの冷酷な伯父母にこっぴどく叱られ叩かれるだろう。それだけは・・・。


「お願い。誰にも言わないで・・・」


 舞子は半泣きになりながら響子に言った。響子はその哀れな姿を見てうすら笑いを浮かべていた。響子は軽音楽部では1年の初めからスターだった。ギターもボーカルも人並み以上で、1年生の時から文化祭でバンドを組んで活躍した。だがそれは次第に舞子に取って代られようとしていた。最初は暗く、いじいじしていた舞子は目立つ存在ではなかったが、先輩に目をかけられ少しずつ自信が出てきて、次第に明るく積極的になっていた。そうして舞子はめきめき腕を上げて響子を追い抜いて行ったのだ。しかも舞子が舞台に立つとその姿は映えた。響子はその姿がうとましく、舞子が妬ましかった。


「わかっているわ。舞子。だから・・・」


 響子は優越感に浸っていた。これで舞子の弱みを握れたと・・・。響子は残酷だった。持ち前の女王様気質を前に出して、舞子をまるで奴隷のように扱った。それも響子が軽音楽部の部長になってから著しくなった。


「舞子! さっさと片付けて! あと掃除しておいて!」

「舞子! 私のギターを持ってきて!」

「何度行ったらわかるの! ちゃんとして!」


 舞子には響子の怒鳴り声が飛んでいた。舞台に立つどころか、もうまともに練習さえさせてもらえなかった。ただの雑用係、使い走りにされてしまったのだ。だが舞子はがまんして響子に言うとおりにするしかなかった。この楽しかった軽音楽部も彼女にとって苦痛となり、心を悩ませていた。学校も休みがちになった。高校に行く振りをしてじっと公園のベンチに座って地面を見ていた。


(どうして・・・つらい・・・)


 それでも舞子は毎日を耐えてきた。彼女が心を寄せる良一は3か月前に半年間のアメリカ留学に出てしまっていたが、彼からの手紙だけが今の彼女を支えていた。


(良一が帰ってきたら、またいろんなところに遊びに行こう。2人きりで。それまでは・・・)


 舞子は良一への手紙には辛いことは一切書かなかった。彼を心配させないために・・・。学校生活や部活動の楽しいことを便箋一杯に書き送った。それは全くの彼女の虚構だが・・・。


 だが新学期を前にしてもう限界が来ていた。高校を休んでも響子からの電話があり、その脅しによって学校に行って軽音楽部で響子の奴隷にならなければならなかった。舞子は精神的に追い詰められていたのだ。もうこんな生活から逃げ出したいと思うようになった。そんな時、姉の香から久しぶりに手紙が来た。


『舞子。元気にしていますか? 私はやっと念願の女優になりました・・・』


 その手紙には香が東京で成功しているようなことが書かれていた。それを見て舞子もそこに行きたくなった。


(確か、お姉ちゃんは落ち着いたら迎えに来ると言っていた。もう私が行っても大丈夫よね。)


 姉のもとに行けばこの地獄のような日々を抜け出し、楽しい生活が待っているのではないかと期待していた。そうなると舞子には何も見えなくなった。待っているはずの良一のことも頭から消えていた・・・。

 舞子は身の回りのものを大きなカバンに詰め込んだ。明日朝、この家を出る。今までのことはすべて忘れて・・・。東京までは特別切符で行ける。その旅費はバイトして貯めてあるので何とかなった。響子にせびられてもこれだけは渡さなかった。これで明日、東京に行って自由に羽ばたける・・・彼女は久しぶりに気分が明るくなった。希望の光に届くまであと少しになっていた・・・ような気分になっていた。それは4月5日だった。

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