第9話 石山寺の桜の下

 石山寺は琵琶湖から流れる瀬田川の西岸にある真言宗の寺院である。ここは紫式部が源氏物語の構想を練ったことで有名である。この季節、境内は桜の花で染まっていた。

 そこは人が滅多に来ないであろう、境内の建物の裏だった。そこにも桜の木が見事に花を咲かせていた。佐川たちが石山寺に到着したときには、辺りは騒然としていた。野次馬が口々に大きな声でしゃべりながら現場をとり囲んで、そこはちっとやそっとのことでは動けない程の人だかりとなっていた。佐川は人ごみをかき分けていき、山形警部補と何とか現場にたどり着いた。そして警察バッジを見せて、ようやくバリケードテープ内に入った。


 桜の木の下に若い女性がうつぶせに倒れていた。その周囲には鑑識が群がって詳しく調べている。近くには寄れないが、見たところ着衣に乱れはない。後頭部を何度も殴打されたようだ。その血の付いた石も死体の横に転がっている。現場の様子から殺されたのはここだろう。しかし争った跡はないから、いきなり背後から殴打されてようだ。そして倒れたところを何度も・・・佐川にはそう見えた。彼はそばにいた刑事に聞いてみた。


「湖上署の佐川です。どういう状況だったのですか?」

「持ち物から被害者は立川みどり、28歳。職業はスーパーの店員。昨日の深夜、殺されたようだ。」

「そんな時間になぜこんなところに?」

「それはまだわからない。誰かに呼び出されたのかもしれない。同居している家族から詳しいことを聞いているところだと思う。」

「目撃者はいたのですか?」

「いや、今のところ見つかっていない。今、聞き込みをしているところだ。」


 ここもそうだった。犯人について何もまだつかめていない。桜の木の下で28歳の女性が殺されたという事実だけだった。佐川は、手口は違うが一連の殺人と同一犯のような気がしていた。


「捜査本部は大津署だ。昨日の琵琶湖疎水の事件といい、桜のきれいなところでこんなに人が殺されるとはな・・・」


 刑事はつぶやいた。


(確かにそうだ。それに浜松の事件も・・・。アラサーの男女が桜の名所で殺されるのはどういうわけだ・・・これは何かあると佐川は思った。犯人が香島であるとしても、これらの事件に何らかのつながりがあるはずだ。動機があるに違いない。被害者の周囲を洗わなければ・・・。)


 佐川はそう思った。横にいた山形警部補が口を開いた。彼女は死体を前にしてまた緊張しているようだった。


「また香島の犯行でしょうか? 手口がずいぶん違うようですが。」

「ええ。でもナイフを日比野香に残したままだったから凶器がなかったのでしょう。手近な石で犯行に及んだのでしょう。」

「では犯人はまだこの近くに潜伏しているかも。」

「もし香島の犯行だとすると、奴はうまく姿をくらませているのかもしれませんね。」


 被害者の立川みどりの情報は限られている。これから聞き込みなどでもっと詳しいことがわかるだろう。しかし捜査本部の山上管理官は、部外者の佐川や山形警部補が捜査に頭を突っ込むのを嫌がるだろう。佐川は捜査1課の堀野に電話を入れた。彼には貸しがある。今までいろいろと捜査を手助けしたことで・・・。


「佐川だ、今、いいか?」

「ああ、また忙しくなったが、少しならいい。」

「石山寺の事件のことを聞いてすぐに彦根から引き返して、今、現場に来ているんだ。すまないが日比野香の伯母の大角伸江を訪ねる件は後回しになっている。」

「それはいいんだ。病院からは伝えてもらっているらしい。一応、念のためと思って。それより用事は何だ?」

「琵琶湖疎水の事件、石山寺の事件は捜査1課が担当しているのだろう。」

「そうだ。それに彦根の事件も捜査1課の担当になった。忙しくて全くかなわんよ。」


 堀野刑事のうんざりした声が聞こえてきた。


「お前も捜査に加わっているのか。」

「もちろんだ。もっともここでは下っ端だから、捜査資料のまとめなど捜査本部の雑用が多いがな。」


 それは佐川にとって好都合だった。


「それならそちらの捜査資料や情報を送ってくれないか? 山上管理官は我々を外そうとするし、 久保課長に頼んでもいい顔をされないからな。」

「えーっ! そんなことをか!」


 電話の向こうの堀野刑事は驚いていた。ここで断れたらどうにもならないから佐川はさらに頼んだ。


「頼む。迷惑はかけない。捜査のためだ。お前のために力を貸してやっただろ?」

「むむむ・・・。仕方がない。」

「ありがとう。このことは秘密にするから。情報は俺と静岡県警の山形警部補だけにしか回さない。では頼むぞ。それに・・・」


 佐川は言葉を続けた。


「この石山の事件、俺の勘では同一犯だな。」

「俺もそんな気がしている。上の方ではその考えに懐疑的だがな。じゃあな。」


 スマホを切って佐川はふっと息をついた。被害者の立川みどりも28歳だ。多分、日輝高校の卒業生・・・ということになっているに違いない。それで何かが見えてきた。

 横にいた山形警部補が声をかけた。


「電話の相手は堀野さんですか?」

「ええ、そうです。捜査会議にも出られないので堀野に資料と情報を送ってもらうように頼みました。」

「そんなことができるのですか?」


 山形警部補は目を丸くしていた。


「ええ、少し脅せばすぐです。」


 佐川は少し笑って冗談を言った。すると山形警部補も少し表情が和らいだ。少し緊張感が解けてきたようだった。


「ここにいてもこれ以上のことはわからないわね。行きましょう。」

「ええ。そうしましょう。甲賀の日輝高校で昔の彼らのことでも調べましょう。」


 佐川がそう言うと山形警部補は意外な顔をした。


「日輝高校? それはどうして?」

「被害者の青山翔太や長良渡、そして香島良一は日輝高校の同級生だったんですよ。きっとそこに何か今回の事件につながるものがあると思うのです。」


 しかし山形警部補は同意しなかった。


「偶然じゃないの。彼らが卒業してもう10年もたっているでしょう。多少、付き合いがあったとしても今回のような事件の原因があるとは思えないわ。」


 山形警部補にそう言われると佐川もこれ以上、自説を通すこともできなかった。


「とにかく甲賀行はやめて、滋賀温泉病院に行きましょう。堀野刑事に頼まれているじゃないの。」

「それはそうですが・・・急ぐことはないかと・・・」

「いえ、身内が亡くなったのよ。認知症があるからと言って伝えるのが遅くなったのはまずいわ。」

「それはそうですが・・・・」

「では決まりね。行きましょう。」


 それで佐川と山形警部補はまたジープに乗って名神高速を走った。佐川は不本意だったが山形警部補の意見には逆らえなかった。運転をしながらも彼は日輝高校のことが気になっていた。

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