第10話 滋賀温泉病院
名神高速を八日市インターで降りてしばらく行くと滋賀温泉病院がある。歴史ある病院の一つであり、高速道路からもその建物が見えた。そこは天然温泉を利用した施設などリハビリに力を入れており、また認知症の患者を受け入れているなど高齢者の入院患者が多い。
ここに日比野香の伯母、15年前に彼女を引き取った大角伸江が入院している。夫の幸雄はすでに他界していた。日比野香は甲賀高校に通う1年少し、大角家で生活し、それから上京したようなのだ。彼女のことを覚えているかどうか・・・大角伸江は認知症なのだ。
駐車場にジープを停めて、佐川刑事と山形警部補は病院に入った。事情を話すと特別に大角伸江と面会できることになった。
「看護師さんの話では認知症が進んでいるようね」
「そうですね。もう人の顔が誰だか分からなくなっているとか。姪の香が死んだこと、いや香のことも分からないかもしれませんね」
面会室で佐川刑事と山形警部補がそう話しているところに、車いすを押されて高齢の女性が連れてこられた。それが大角伸江だった。彼女はぼうっと天井を見て生気のない顔をしていた。
「伸江さん。警察の方よ。お話があるようなのよ」
介護士がそう話しかけるが、伸江は返事をせず黙っていた。やはり意思疎通もままならないようだ。佐川刑事が話しかけた。
「湖上署の佐川です。こちらは静岡県警の山形警部補です」
そう言っても伸江はただ目の前の2人を訝しげに見ているだけだった。佐川刑事は言葉を続けた。
「あなたの姪の日比野香さんを覚えていますか? 先日、亡くなられたのですよ」
だが伸江は何の反応もない。じっと2人を見ているだけだった。佐川刑事と山形警部は顔を見合わせた。
「やはりだめなようね。堀野さんにそう伝えましょう。一応、本人に伝えたと」
「そうですね」
2人はこれで帰ることにした。実は佐川刑事は少し期待していた。伸江の口から日比野香についての情報を何か聞き出せるのではないかと・・・しかしそれは無駄だった。お別れに山形警部補が声をかけた。
「じゃあ。帰るね。お元気でね!」
すると急に伸江が何かのスイッチが入ったように山形警部補の袖をつかんだ。
「舞子! 舞子! 帰って来たんだね」
山形警部補は声も出せず、ひどく驚いていた。それを見て看護士が伸江の手を離させた。
「伸江さん。この人は舞子さんじゃないわよ。警察の人よ」
すると伸江は手を放してまたぼんやりした状態に戻った。介護士は山形警部補に言った。
「いつもはおとなしいんだけど、時々そうなるの。びっくりさせてごめんなさいね」
「いえ、いいんです。こちらこそご迷惑かけたみたいで」
山形警部補は「気にしていない」という風に少し微笑んでそう言った。佐川刑事は伸江の言った名前に聞き覚えがあった。
「舞子さんっておっしゃったけど・・・」
すると介護士が答えてくれた。
「伸江さんの姪だそうよ。こちらに来られた時は今のように悪くなくて、昔の話をいっぱいしてくれたんです。なんでもご両親がなくなった姪を2人預かったんだけど、上の子は高校を出てすぐに上京したし、下の子は家出して失踪してしまったそうなんです」
「舞子さんというのが家出した方ですか」
「ええ、それを悔やんでいらっしゃったわ。その当時はお金がなくて貧しくて、自分たちのことで精いっぱいで2人につらく当たった。香さんや舞子さんをひどくいじめてしまい、悪いことをしてしまったって。今頃、どうしているのかしら、元気でいるのかしらって心配されていたのよ」
「そうだったのですか・・・」
捜査には関係ないが日比野香のかつての家庭環境がよくわかった。ふと横を見ると山形警部補は少し涙をためていた。
(優しい人なんだな。同情されているんだ・・・)
そう思う佐川刑事ももらい涙をこぼしそうになっていた。一方、伸江は相変わらずぼうっと前を見ていた。
(この人は姪の香が殺されたことを理解できない。だがその方が幸せなのかもしれない・・・)
佐川刑事はそう思わざるを得なかった。つらい思い出は忘れ去った方がいいんじゃないかと。
面会の時間は終わり、伸江は看護師に車いすを押されて病室に戻っていった。佐川はそれを見送りながら山形警部補に言った。
「ああやって年老いて、人はつらい過去を忘れて行くのかもしれませんね」
「でも忘れてはならない過去もあるのよ。死ぬまでずっと・・・。さあ、行きましょう」
それから2人は病院を出た。夕方までにはまだ時間がある。
(さて今度こそ甲賀の日輝高校に行くぞ!)
そう思って佐川刑事がジープに乗り込もうとすると、山形警部補が頭を押さえてよろめいていた。
「どうかしたんですか?」
驚いた佐川刑事が尋ねた。
「ええ、めまいが・・・。たまに出ることがあって・・・」
「それはいけません。病院に戻りましょうか?」
「いえ、大丈夫です。いつもはすぐに収まりますから・・・」
しかしその表情はかなり辛そうなものがあった。昨日からのことで疲れがピークにさしかかっているのかもしれない・・・佐川刑事は心配だった。
「では少し休まれたらどうですか。ホテルまでこのまま送ります」
「でも・・・・」
「大丈夫ですよ。明日もあるのですから」
山形警部補は何とか歩けるようだった。佐川刑事は彼女を支えながらジープに乗せて、彼女が泊まっている滋賀ホテルに送っていった。その車内で彼女はため息をつきながらつぶやいた。
「私のせいですね。私が香島を捕まえていたらこんなことに・・・」
「そんなことはありません。山形さんはベストを尽くされたのです。私がもっと早く三井寺に行っていたら・・・私の落ち度です。山形さんは悪くありません」
落ち込む山形警部補に佐川刑事はこう言った。その言葉は少しでも慰めになればと彼の口から自然に出た。
「佐川さん。やさしいんですね・・・」
山形警部補はポツリとそう言った。その言葉は佐川刑事にとってうれしくもあり、いやな言葉でもあった。それは常々、上司の荒木警部に
「お前はやさしすぎる。刑事には向いていない」
と言われていたからだった。佐川刑事はふとそれを思い出していた。
「刑事としてはよくないのかも・・・。ははは・・・。」
佐川刑事は場を少しでも明るくしようと無理に笑った。すると山形警部補もつられて微笑んだ。それで少し彼女の表情が明るくなった。
滋賀ホテルに着くころには山形警部補の体調は良くなってきていた。めまいはなくなり普通に歩けるまでになった。しかし大事を取って休養してもらうことにした。それはもう時間が遅くなっていたからだ。
「送っていただいてありがとうございます。明日は大丈夫です」
「よくなったようで安心しました。明日の朝、湖上署の捜査課で待っています」
佐川刑事が山形警部補と滋賀ホテルの前で別れた頃はもう夕刻だった。これから日輝高校に行っても誰もいないだろう。そこでの捜査は明日以降になる。
(日輝高校に行けば、何かが見えてくるかもしれない。とにかく被害者の背景についてもう少し調べなければ・・・。きっとこの事件を解きほどくカギがある)
佐川刑事は何となくそう感じていた。
静岡の浜松で青山翔太が殺され、日輝高校の同級生だった香島良一に容疑がかかった。そして次の夜に彦根で長良渡が刺殺され、その次の日に三井寺で山形警部補が香島に襲われて、近くの琵琶湖疎水で香島と親しい日比野香が殺された。そして今日は立川みどりが石山寺で殺された。いずれも桜の木の下でだ。
(この殺人事件は一連のものだ。これはまだ序の口かもしれない。きっと手がかりがあそこにあるはず。早く解き明かさねば犠牲がまた出る・・・)
湖上署に戻る佐川刑事にはまた何かが起こりそうな予感がしていた。
第1章 花咲編 終わり
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