第4話 琵琶湖疎水

 琵琶湖疎水は琵琶湖と京都を結ぶ水路である。京都への飲料水の供給と灌漑、水運、発電を目的として明治18年に工事が始まり、5年後の明治23年に完成した。それは現在も京都に琵琶湖の水を送りづけている。この疎水沿いに桜並木がある区間があり、この時期、行き交う観光船に美しい姿を見せていた。その疎水の桜も今、咲き始めている。


 大津乗船場は三井寺の近くだった。死体の乗った船が発見されたその大津乗船場からしばらく行ったところだった。そこの疎水の両岸にも桜が多く植えられ、一斉に咲き始めていた。そしてある一か所のところに人だかりができていた。殺人事件と聞いて辺りにいた人が興味本位で駆けつけてきたのだろう。辺りは殺された女性の変死体の出現で騒然としていた。


 佐川と山形警部補は人ごみをかき分け、警備している警官に警察バッジを見せて黄色いバリケードテープの中に入った。鑑識や捜査員が忙しく動き回っている。佐川は邪魔にならないように死体のそばに寄って観察した。

 それは観光船ではない。ごく小型のボートの中に長い髪の濃い茶色のレザーコートを着た若い女性が倒れていた。胸をナイフで一突きされており、そのナイフはその胸に突き刺さったままだった。そのレザーコートにはべったりと血がついていた。だが飛び散った血痕はボートの中にはなく、他の場所で殺され、この船に乗せられたのだろう。黒縁のやや大きめのメガネの奥でその目はぐっと見開き、死に際の苦しみを見せていた。

 山形警部補はその女性を一目見て、


「日比野香だわ。間違いない。」


 とはっきりと言った。確かに髪型、服装は彼女が佐川に電話で伝えた姿に一致していた。


(殺したのが香島良一だとすると一体なぜ? 2人は近しい間柄でなかったのか? 殺さねばならない程、2人の間に何かあったのか・・・)


 様々な疑問が佐川の頭に交差していた。そこに県警の捜査1課の堀野刑事がやって来た。


「おう! 佐川。どうしたんだ?」

「堀野か。ちょうどよかった。事件の状況を教えてくれ。」


 堀野刑事は佐川の警察学校の同期だった。それに以前、佐川は堀野刑事の捜査を手伝ったことがあり、貸しがあった。


「わかった。でもどうしてこの事件に?」


 堀野刑事の問いに、佐川は隣にいる山形警部補を紹介した。


「こちらは静岡県警の山形警部補です。静岡で起きた殺人事件の容疑者の香島良一を追って来られた。この被害女性が日比野香ということだが?」

「所持品のバッグに日比野香の運転免許証があった。」


 堀野刑事はそれを見せてくれた。ビニール越しだが、名前は確かに日比野香のものだ。写真の顔も黒くて太いフレームの大きな眼鏡をかけており、長い髪など全体の雰囲気は似ていた。大型免許の他、大型2輪、大型特殊などマニアなのか、いろいろ取っているようだ。


「日比野香は我々が追っている香島良一と同棲していた。2人は山形警部補に目撃されている。この女性が日比野香なら、その香島良一が犯人であることが十分に考えられるのだ。」


 それを聞いてその堀野刑事は「ああ。」とうなずいた。


「先ほど香島良一を重要参考人として手配すると連絡があった。緊急配備がこの付近に敷かれている。」


 香島はこの付近にいるはず・・・身柄を抑えるのは時間の問題だろうと佐川は思った。


「第一発見者は誰だったんだ?」

「観光船に乗っていた人たちだ。途中で岸に乗り上げて止まったボートに不審に思っていたところ、すり違いざまに胸にナイフが刺さった女性の死体を発見した。」


 堀野刑事はそう説明した。すると山形警部補が尋ねた。


「死因は胸の刺し傷ですか?」

「恐らくそうでしょう。ただ犯行現場はこのボートの上ではなく、別の場所でした。大津乗船場の近くに倉庫があり、そこに血痕が残っておりました。そこで殺害してそばにつながれていたボートに乗せて流したというところでしょう。」


 それで事件の様子が大体わかった。佐川は山形警部補に言った。


「倉庫の方も見ておきましょうか?」

「そうですね。行きましょう。」


 山形警部補はそう言ってうなずいた。佐川は堀野刑事に言った。


「じゃあ。堀野。何かわかったら教えてくれよ。」

「わかった。またな。」



 佐川と山形警部補は犯行現場と思われる倉庫に向かった。そこは大津乗船場の近くだが全く人気ひとけがなく、目撃者は期待できないかもしれない。そのすぐそばを疎水につながる水路があり、そこにボートがつながれていたのだろう。

 倉庫の中はすでに鑑識が調べていた。たしかに飛び散った血痕があり、ここが殺害現場に間違いはないようだった。それに争った跡、死体を引きずった跡もある。


「殺害現場はここで間違いはないようですね。」

「ええ、そうね。」


 山形警部補はうなずいた。香島の犯行として考えると、三井寺で尾行中の山形警部補の首をひもで絞めて気絶させ、日比野香をこの倉庫まで連れてきてナイフで殺害して船に乗せて流したことになる。しかし・・・


(日比野香の死体をボートに乗せ換えるという手間のかかることをどうしてしたのか? 人気のない倉庫に置いたままの方が発見が遅れるというのに・・・)


 佐川は疑問に思っていた。


「犯人は手間のかかったことをしたようですね。何かわけがあるのかもしれませんね。」

「それは訳があるのです。きっと・・・」


 佐川の言葉に山形警部補は確信があるかのように言った。だがそれが何であるかは今のところわからない。

 鑑識は現場の証拠になるようなものをいろいろと採取していた。その中には1メートルほどのロープがあった。倉庫の床に落ちていたようだ。それはよくあるロープで細いがしっかりしていた。物を括っている同じロープは倉庫の中に何本もあった。関係がないのかもしれないが、その幅を見ると山形警部補の首の締められた跡と一致するように思えた。


「もしかしたらあれで絞められたのかもしれませんね。」

「さあ、どうかしら。」

「もしそうなら犯人は香島の可能性が強まります。ここでロープを捨てたか、落としたでしょう。」


 佐川はそう考えていた。香島がどこかでロープを手に入れ、三井寺で山形警部補の首を絞め、ここに残した・・・それで決まりだと思っていた。あとは大津署を上げて緊急配備をしているはずだから、香島が網にかかるのを待つだけだ。逮捕して聴取すればすべてがわかると。


「山形さん。捜査本部のある大津署に行きましょうか?」

「ええ。」


 山形警部補は岸に咲く桜を眺め、何か、心ここにあらずという風だった。

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