第3話 三井寺
三井寺は琵琶湖南西の長等山中腹にあり、平安時代から1200年以上の歴史を持つ天台宗の総本山である。近江八景の一つである三井の晩鐘でも知られている。この季節、桜の名所としても有名で、花見客が大勢、押し寄せている。
佐川はこの時期によくある渋滞にはまってしまった。だがすぐにルートを変更して細い通りに入った。それはごく一部の物しか知らない抜け道のルートだった。細い道を通り、角を何度も曲がって、それでなんとか渋滞を避けた。時間のロスを少なくして、ジープはようやく三井寺の駐車場にたどり着くことができた。そこからでもジープの窓越に咲き始めた桜の花が鮮やかに見えた。
「さてと・・・」
佐川はスマホを取り出して山形警部補に電話をかけた。だが今回もなかなかつながらなかった。呼び出し音が苛立てるかのように鳴っていた。
「またか・・・」
佐川は電話を切ろうとすると、スマホから、
「おかけになった電話は電波の届かない場所にいるか電源が入っていないためかかりません。」
というアナウンスが流れた。
(どういうわけだ? 尾行中にスマホの電源をオフにするはずはないし、この辺りは電波が圏外になることはないはず・・・)
佐川には不可解だった。しかし今はそんなことを深く考えずに、まず山形警部補を探さねばならない。佐川はジープを降りて三井寺の境内に入って行った。
桜の咲き始めにかかわらず、観光客は多かった。人ごみの中を佐川は懸命に探した。ショートカットで淡い紺のジャケットの30前の女性というだけではなかなか難しい。佐川は山形警部補の顔を知らないのだ。この広い境内では連絡がつかなければ探せないのかもしれない。
「困ったな。一体、山形警部補はどこに・・・」
佐川はもう一度、電話してみた。やはり、
「おかけになった電話は電波の届かない場所にいるか電源が入っていないためかかりません。」
というアナウンスが返ってくるばかりであった。佐川ははっと息を吐いて額の汗を拭いた。もうかなりの時間、探し回っている。そのうち嫌な予感がしてきた。
(何か、突発的なことが起こったのか? いや、もしかしたら山形警部補の身に何か起こったのではないか? それで連絡が取れなくなっているのか?)
そう思うと余計に汗が噴き出してきた。
(もしそうなら大変だ。早く探し出さねば・・・。待てよ。そんなことになっているなら
佐川は伽藍から離れた山手の、木々が生い茂っている場所を探した。そこにも桜の木がたくさん植えられ、美しく花を咲かせていた。だがそこから遠くに見える一本の大きな桜の木の根元に、淡い紺色をしたものが彼の目に留まった。
「ん?」
佐川は目を凝らした。よく見るとそれは倒れている人のようだった。
「まさか!」
佐川はすぐにその方向に走り出した。近づくとそれははっきりした。ショートカットで淡い紺のジャケットを着た女性がうつぶせに倒れていた。そしてその手は手錠で近くの桜の木につながれていた。
(山形警部補だ! 間違いない!)
佐川はすぐに抱き起した。
「大丈夫ですか! しっかりしてください!」
息はある。死んではいない。首をロープのようなもので絞められたらしく、その跡の索状痕がくっきりと残っていた。しかも激しく争ったらしく手足の所々に擦り傷もある。
「ううん・・・」
と言ってその女性はゆっくりと目を開けた。佐川はさらに声をかけた。
「わかりますか? 湖上署の佐川です。山形警部補ですか?」
彼女はまぶしそうに目をぱちくりさせていたが、そのうちやっと頭がはっきりしてきた様だった。
「ええ、山形です。ここは?」
「三井寺の境内です。何かあったのですか? 確か、日比野香を尾行中と聞いていますが・・・」
私が話しかけると、山形警部補は頭がしっかりしてきてやっと思い出したようだった。
「そうだわ! ここまで日比野香を尾行してきたのです。でもいきなり男が現れて襲い掛かって首を絞められて・・・。多分、香島だった。」
「香島が!」
香島がすぐ近くにいるのか・・・佐川は緊張して辺りを見渡した。だが他に人の気配はない。辺りは静まり返っていて、遠くから観光客の声だけが聞こえている。
(山形警部補は香島良一に首を絞められ気を失ったところを、手錠を掛けられてこの桜の木につながれたのだ。だとすると日比野香は? いや香島はどこに?)
佐川はそう思いながらも山形警部補の繋がれた手錠が目に入った。早く鍵で手錠を外さねばと立ち上がると、そこから少し離れたところに肩掛けバッグが口を開けたまま捨ててあった。そしてそのそばにはぐちゃぐちゃに踏みつけられて壊されたスマホが落ちていた。
「あれは私のバッグとスマホです。すいませんが取っていただけますか?」
佐川が尋ねる前に山形警部補が言った。すぐに佐川はそのバッグと壊れたスマホを拾った。彼女の肩掛けバッグは思いのほかずっしりと重かった。佐川がそれらを渡すと、彼女はため息をつきながら壊れたスマホをバッグにしまった。そして中を探して小さな鍵を取り出し、自分で手錠を外した。
「助かったわ。さあ、行きましょう。」
「ちょっと待ってください。捜査員を呼びましょう。周囲を捜索したら、何か手掛かりがあるかも。それに山形さんは念のため病院で診てもらった方がいいと思います。」
「いえ、そんなことをしていたら逃げられてしまうわ。私なら少し首を絞められただけだから大丈夫。」
山形警部補はそう言った。確かにここで時間をつぶしているより早く手を打った方がいいと佐川も思った。
「ではまず湖上署に連絡を取ります。香島良一を手配してもらいましょう。まだこの辺りにいるはずですから。」
佐川はそこから少し離れて背を向けると、スマホを取り出して湖上署に連絡した。
「はい。湖上警察署、捜査課、梅沢です。」
電話に出たのはまた梅沢だった。彼は人手少ない捜査課で、また電話番をさせられているのだろう。
「こちら佐川だ。」
「佐川さんですか。今、どこにいるんですか?」
梅沢は何か慌てているようだった。なにか大きな事件が起こったのかも・・・佐川は嫌な予感がした。
「今、三井寺だ。迎えに行った静岡県警の山形警部補と合流した。何かあったのか?」
「ええ、殺人事件です。若い女性が殺されました。場所は琵琶湖疎水の大津乗船場の近くです。流された船の中に死体が乗っていたようです。被害者は、持っていた運転免許証から日比野香という女性です。」
「何だって!」
佐川は思わず声を上げた。山形警部補が尾行していた女が殺されたとは・・・。
(琵琶湖疎水の大津乗船場といえば、この近くだ。もしかして香島の仕業か・・・)
そんな気がした。とにかく確認せねばならない。
「すぐに現場に向かう。それからすまないが大津署に香島良一の手配をしてくれるように頼んでくれ。静岡での殺人事件の容疑者で、この近辺にいるはずだ。山形警部補は奴に襲われたかもしれないのだ。」
「えっ! そんなことがあったのですか!」
今度は電話の向こうで梅沢が驚いていた。
「首を絞められたようだが山形警部補は無事だ。気になるのは香島良一だ。奴は殺された日比野香とは内縁関係にある。琵琶湖疎水の殺人事件も関わりがあるだろう。とにかく頼むぞ。」
「わかりました。お気をつけて。」
そこで佐川は電話を切った。
(とにかく凶悪な犯人を早く挙げねばならない。そうでないと、また犠牲者が出るかもしれない。その前に・・・)
そう思う佐川は厳しい顔をしていた。その様子を見て、電話のやり取りを知らない山形警部補は訝し気に尋ねた。
「どうかしたのですか?」
「殺人事件です。琵琶湖疎水に浮かぶ船で女性の死体が発見されました。どうも日比野香のようなんです。」
「えっ! そうなんですか・・・」
山形警部補は驚きつつも落ち込んでいた。
「私が尾行に失敗したために・・・」
「いえ、あなたも香島に襲われたのですから・・・。それより私はその現場に行ってきます。山形さんはここで待っていてください。迎えの者を寄こしますから。」
「いいえ。私も行きます。私が関わっていた事件の関係者ですから。」
山形警部補はそう言った。彼女の刑事としての意地がそうさせているのだろうか・・・その意志は固いように見えた。
「わかりました。一緒に行きましょう。」
2人はすぐに三井寺の桜を抜けて外に出て、琵琶湖疎水の方に向かった。やはりそこも人通りが多い。香島がまぎれていても分からないかもしれない・・・佐川にはそう思えた。
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