いつか当たり前になる朝

かざはな淡雪

いつか当たり前になる朝

 水底から湧き上がってくる泡のような電子音に誘われて目を開くと、見慣れない白い天井がそこにあった。電子音の主を黙らせると、その画面には『6:01』と表示されている。


 起きなきゃ……。


 そうは思うが瞼が重い。上半身も同じくらいに重くて、もう少し布団に体を鎮めていたい気分だ。その気分にかこつけて掛け布団を被っていたら、またしてもスマホが起きろとがなり立ててきた。

 ぐっと力を込めて体を起こす。床に直接敷いた布団の上からワンルームを見回すと、床に直接置かれたテレビ、真ん中に鎮座するこたつテーブル、隅に積まれた段ボール。とりあえず最低限生活できる様に取り繕いましたって感じだ。そして、掃き出し窓のカーテンの隙間からは暖かな光が漏れていた。


 ……朝ってこんなに静かなものだったっけ?


 窓の方から微かに車が通り抜ける音が聞こえてくるが、それだけだ。もっと階段をドタドタ昇る音でも聞こえてきてもいいと思うんだけど……。


 そのままどれだけぼーっとしていただろうか? ふとスマホを手に取ってみると、『6:24』となっていた。いけない。掛け布団を思い切り引っぺがすと、まだまだ重たい体を立ち上がらせた。


 眠い目をこすりながら洗面台に立つと、ピンク色の水栓を回す。ジャバジャバ流れ出る水に手を入れてお湯になるのを待っていたが、一向に水が温まる様子がない。給湯器の電源を入れてなかったのを思い出したのはもう少し経ってからだ。

 もうこれでいいか。温まることのない水を両手で掬うと、そのまま自分の顔に勢いよく浴びせかける。手で触れた時よりもひんやりしてると思ったが、眠たい瞼をパッと開かせるにはちょうどよかった。


 水栓を締めて顔を上げると、目の前の鏡に水滴が滴る自分の顔が映っていた。どこか眠たい、というより野暮ったい感じが拭えない男の顔がそこにあった。

 ……なんだか信じられないよな。そんなことをため息と一緒に呟く。まだまだあどけない印象を抱えた自分がこうしてワンルームの部屋に居ることに、未だ実感が湧いてこない。

 気づけばまた、ぼーっと鏡に顔を突き合せていた。いけない、朝ご飯を作らなきゃ。側にあったタオルに顔を埋め、それから洗面台を離れた。


 ……何食べよう? 一応昨日のうちに卵やウインナーとかを買い込んであるし、眠る前には炊飯器でお米も炊いてある。色々用意はできるけど、パッと浮かんだのはチーズ入りオムレツ。オムレツ自体は中学の家庭科で教わったし、材料も揃ってる。よし作ってみようか。


 冷蔵庫から卵をひとつ取り出して茶碗の中に溶く。牛乳を少し垂らして塩コショウを少し振り、菜箸で混ぜ合わせる。バターの代わりにマーガリンをフライパンに落として溶かす。それの形がなくなったところで卵液を付けた菜箸をその中に入れてみると、そこからチリチリとおいしそうな音が鳴り始めた。

 温まったフライパンの中へ卵液を流し入れると、途端に大きく派手な音がフライパン全体から湧き上がってくる。ここからは時間勝負。すぐに菜箸で全体をかき混ぜる。でもかき混ぜ過ぎたらただの炒り卵になってしまうので、程よく固まり出したところで菜箸を置いた。


 そろそろチーズを入れないと。冷蔵庫からスライスチーズを取り出して袋を開く。が、これがなかなか開かない。下手に力を込めると中のチーズが折れ曲がってしまいそうだ。

 仕方が無いので袋の端を千切って開く。が、今度は切り口が小さいまま千切れてしまった。そこから袋の側面を裂いていき、中からスライスチーズ一枚取りだした。


 IHコンロは火が入りっぱなしなので、フライパンの中の卵が完全に固まりそうだ。急いでスライスチーズを半分に裂いて卵の上に重ね、フライパンの端から菜箸で卵を慎重にめくり上げる。そのまま卵の下に滑り込ませるように菜箸を入れ、フライパンの柄を持ち上げる。が、微妙にフライパンとくっついていたところから卵が千切れていき、そのまま端まで雪崩れ込んでしまった。チーズもとろけない状態で偏ってしまっている。完全に失敗だ。


 なんとか白い平皿に落としてみるが、形がぐっちゃぐちゃで焦げ目もついてしまっている。実際に作ってみたのは中学以来だったから仕方ないが、それでももうちょっとうまくできたんじゃないかって思えてならない。


 失敗オムレツをテーブルに運び、茶碗にごはんをよそって、インスタントの味噌汁を電気ケトルのお湯で溶かしていく。できあがったのは和洋折衷と呼んでいいものかよく分からない朝食セットだ。


「いただきます」


 テーブルの前に正座して両手を合わせ、味噌汁に口を付ける。寝ている間に冷えていた体の隅々にまで温かいものが染み渡っていく。ほっと息を吐くと、立ち上る湯気に吐息が混ざり合った。

 味噌汁を置いて失敗オムレツに箸を入れる。卵は完全に固まってしまっていたが、熱のお陰かチーズが程よくとろけている。口に運ぶと塩気とチーズの酸味が思ったよりも控えめでケチャップが欲しくなってくるが、買い忘れたので我慢するしかない。


 テレビを点けるとすでに七時を過ぎていて、アナウンサーがカメラ目線でニュースを読み上げていた。それを眺めながらごはんを口に運ぶ。テレビのお陰で賑やかにはなったが、それでもなんだか物足りない気分だ。


 すべて平らげて流し台へ食器を持って行くと、テーブルの上からレトロゲームのBGMみたいなメロディが流れ出した。音の主であるスマホを手に取ると、発話ボタンを押した。


「もしもし」

「おはよう」


 その声を聴いた瞬間、ほっとため息が漏れた。電話の主は自分の母さんだった。


「おはよう」

「よかった、ちゃんと起きれたみたいだね」

「うん。なんとかね」

「ごはん食べた?」

「いま食べ終わったとこ」


 そう、と返事をする母さん。自分は寝起きがよくなかったから、その辺りを心配して電話してくれたのだろう。


「何食べたの?」

「……チーズオムレツ」

「お、偉いじゃん」

「でも母さんみたいにはうまく作れなかったよ」

「まあ、初めてなら仕方ないよ。回数重ねていけばうまく作れるようになるよ」


 やっぱりそういうものなんだな。そして、その言葉にいろんな事が腑に落ちていく様な気がした。


「じゃあ、準備もあるだろうから電話切るね」

「あ、ちょっと待って」


 通話を終えようとする母さんを呼び止める。このまま終わってもよかったけれど、なんとなく終わるのが名残惜しかった。


「どうしたの?」

「その……、ありがとう」


 通話越しに沈黙が訪れる。自分でもいきなり何を言い出していると思ったが、なんとなくお礼を自分の口で伝えなきゃいけないって、そんな気がしたからだ。


「あ、いや、なんとなく寂しい気がしてたからさ。電話をかけてきてくれてありがとうって言うのと、自分で朝の準備とかしてみて色々大変だなって思ったから、その……。今までありがとうって」


 スマホ越しに息を呑む音が聞こえる。まさかそんなことを言われるとは思っていなかったのだろう。


「……まあね。朝の準備って大変だからね、実際にやってみて分かるでしょ」

「うん、すごいことだなって思った」


 朝は忙しい時間だってよく聞くけど、その準備を自分でしてみるとそのことがよく分かってくる。これを世の主婦は毎日続けてるんだなって。


「まあ、私はもうそれが当たり前になっちゃってたからね。でも、こっちも隆仁が居なくなったからね。作る分は減ったけど、それはそれで寂しいなって思っちゃったよ」


 寂しいと思うのは母さんも同じなんだな。でも、その生活がこれから当たり前になっていく。ドタバタと自分を起こしに来る声がない生活が。自分で何もかも準備しなきゃいけない生活が。


「ところで時間大丈夫なの? そろそろ出かける時間じゃない?」

「まだちょっと余裕有るよ」

「そう。じゃあ気をつけてね」

「うん、じゃあね」


 そう伝えて通話を終える。芸能ニュースを伝えるテレビの音声だけに戻ると、再び胸に去来するものがある。この気持ちもいつか慣れていくものなんだろうか?


 食器を洗い、歯を磨き、ネクタイを締める。今日は入社式だ。鏡の前で自分のスーツ姿を確認。ピシッと決めたつもりだが、どこかおかしいところがある気がして不安が拭えない。でも、このスーツもいずれは着慣れていくんだろうな。その時には鏡に映る姿が今よりも垢抜けているんだろうな。


 ……行きますか。


 鞄を手に持って靴を履き、扉の鍵を開ける。そして扉を開いたタイミングで部屋の方を振り返る。誰もいない殺風景なワンルームに向かって、


「行ってきます」


 そう声をかけてから扉を出た。

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