二十七刻 春風

『拝啓、神崎衣織様


 あの忌まわしい出来事から時が経ち、季節は巡り、もうすぐ春が訪れようとしております。お身体の方は大丈夫でしょうか? 


 今日は、あなた様にお伝えせねばならないことがあり、筆を執らせていただきました。


 私、灯野朱里は日光本家の神子であり、御神様の付き人でございますが、私の祖母、灯野春陽もまた、前御神様の付き人でありました。祖母は大災厄の数年前に死んでおりますが、その祖母が残した遺品の中に、あなた様によく似た少年の写真がございます。それは、おそらく、間違いなく、あなた様なのでしょう。そして、祖母はその写真のほかに、一冊の日記帳を残しました。


 ここから書きますは、その祖母の日記に書かれていたことであります。きっと祖母は、この事実を誰にも言うことなく、一人で抱えて死んでいくつもりだったのでしょう。しかし、その真実はあまりにも重たく、吐き出す場所が必要だったのだと思います。


『御神様が子を産んだ。


 なかなか子宝に恵まれず、齢四十になっても子を産めなかった御神様が周囲から何度も責め立てられ、御神の血を途絶えてはならぬと言われ続けた結果生まれた子は、男だった。


 なぜなのだろう。なぜ、神は御神様に対してここまで残酷な事実を突きつけるのだろう。


 御神の本筋にて生まれた男は、忌子とされる。


 天照大御神を降ろすことが出来るのは、女だけなのだから。


 生まれた子の髪の色は闇のように黒く、左目だけが金色であった。


 周囲は御神様を責めた。ようやく生まれた子供が男だったことを知っているのは、日光の中でも上層部の者のみだ。その者たちは、忌子が身体の中にいたから子を産めなかったのだと、その忌子を殺せと言った。御神様は嫌だと言ったが聞く耳を持つものはいなかった。忌子を生かせば災厄が起きる。


 今でも鮮明に思い出せる。御神様は取り上げられようとする自分の子を必死に抱きしめ、泣きながら「殺さないで」と叫んでいた。「私の子を殺さないで」と何度も何度も繰り返し、子が取り上げられ、悲鳴をあげながら暴れて、周りの者たちに取り押さえられてもなお、「殺さないで」と叫び続けた。


 私は、そんな御神様を見て、たとえ忌子であってもこの人の子を殺してはならないと思った。これ以上この人を苦しめてはならないと。


 幸い、殺せと言った者の中に、自ら手を下して生まれて間もない赤子を殺そうとする者はいなかった。だから、赤子を殺す役を自ら背負うと言った私に反対するものは誰もおらず、私は赤子を受け取った。その時に御神様が私に向けたのは、懇願するような目だった。


 この子を殺してはいけない。でも、どうすればいい? 御神の忌子を誰にも見つからず、生かし、育て続けるのは不可能だった。だから、私は、一塁の望みにかけて、生まれて間もない赤子を山に捨てた。誰かが見つけ、育ててくれれば、と。そんな言い訳を何度も繰り返し、許されないことをした。


 御神様が死んだ今、このことを知っているのは私と宝刀当主しかいない。子を拾い、生かしてくれた宝刀当主がこの事実をその子に話すかはわからないが、ことの詳細を知っている私は、もしも、その子が自分の過去を知りたいと願った時のためにこれを残し、宝刀当主に預けることとする。必要ないと判断された暁には、この日記帳を焼き捨ててほしい。


 誰の目にも触れぬよう、この事実を隠してほしい。』


 この日記帳が宝刀前当主神崎虎太郎様のもとに渡っていないということは、祖母はこれを虎太郎様に渡す前にこと切れたのでしょう。


 祖母を許してほしいとも、日光を許してほしいとも言いません。


 だけど、どうか、あなた様の妹である御神様には、一度でいいから、会いに来てくださいませんか。

               灯野朱里』


    ◇


 満開の桜が咲き乱れる春の始まり。冷たい風が吹き荒れた冬を超え、世界は華々しい色彩に包まれた。


 日光本家の大広間の襖の前。一人の背の高い男が襖を開けようとして躊躇い、また開けようとするのを繰り返していた。


 肩に付くぐらいまでの、長い癖毛の黒髪をハーフアップにして、黒いパーカーにシワシワのジーパン、黒いスニーカーという恰好をしている男は前髪が長く、左目は隠されて見えないが、優しい春の風が前髪を揺らし、生々しい傷が残る、潰された左目が見えた。


「いつまでそこにいるつもりですか? 衣織さん」


 部屋の中から花蓮の声が聞こえ、衣織がビクリと肩を震わせる。そして意を決したように襖を開けると、部屋の中には衣織と同じように少し不安そうな表情を浮かべている御神がいた。


 御神の傍らには花蓮が立っているが、着物から覗く両腕は木の枝のように変色しており、皺がよって老婆のようになっていた。神格解放の反動だ。


「……神崎……衣織……さん……ですか?」


 御神の問いかけに衣織が躊躇いがちに頷く。椅子に座っていた御神はゆっくりとした動作で立ち上がり、花蓮が支えようと手を差し伸べたが、御神は首を横に振ってそれを断った。


 御神はゆっくりとしたおぼつかない足取りで衣織に近づいていく。衣織が不安げに近づいていき、脚がもつれて倒れそうになった御神の身体を抱きしめる形で支えた。


「……お兄ちゃん……なんですよね……?」


 御神が衣織の腕の中で不安げな表情を浮かべながら問いかける、衣織は御神の目を真っすぐ見つめたが、すぐには答えることが出来ず、口を開こうとして息を吸うだけで終わった。御神は酷く不安そうな表情を浮かべ、衣織の返答を待っていた。


「……はい」


 衣織は小さく掠れた声で答えた。


「僕は……あなたの兄です」


 御神の瞳から大粒の涙が流れた。そのまま衣織の腕の中で泣きじゃくる。それは年相応の少女の姿で、衣織は自分の実の妹を強く抱きしめた。


    ◇


 月光本家の大広間。月光当主の尊はどこかそわそわした様子で机に座り、なにかを待っていた。老眼鏡のような眼鏡をかけている。


「おじいちゃん!」


 明るい声と共に襖が開けられ、美雨が現れた。尊が席から立ち上がり、飛びついてきた美雨を抱きしめた。


「久しぶりだな、美雨。また背が伸びたか?」


「うん! 一センチ伸びたよ!」


「お久しぶりです」


 続けて入って来たのは八作だった。八作の両腕には生々しい火傷の痕が残っており、左腕は右腕よりも酷く、左手はうまく動かせないようだ。


「目の調子はいかがですか?」


「いいとは言えんな。いまも光の具合しかわからないぐらいだ。だが」


 尊が自分の腕の中にいる美雨を優しい眼差しを向けた。


「孫の背丈が伸びたことはわかる。それだけで十分だ」


 尊が美雨の頭を優しく撫でる。尊の両目は濁っていて、色彩が失われていた。


「お前の腕こそどうなんだ。美雨の世話は出来ているのか?」


「なんとかやってます。左手はもう使い物になりませんが、右手は動きますから」


「八作さんはね、美雨がちゃんとお世話してるから大丈夫だよ!」


「そうか。美雨は偉いな」


 美雨を見つめる二人の眼差しは、優しかった。


    ◇


 月光本家の神子、豊穣美乃梨の料亭の一室で、将は一人縁側に腰掛け、ぼうっと外に広がる日本庭園を見つめていた。


 空は悲しいほどに晴れ渡っていて、温かい風が将の頬を撫でる。将の両手には痛々しい火傷が残っており、糸が食い込んだ部分は、永遠に残る赤い糸のようにくっきりと。痕が残っていた。


「……僕が離すまいとした君との縁は、いとも簡単に途切れてしまったのに、僕の心は今もまだ、君の姿を見続けている」


 将は空に向かって独り言をつぶやく。その声は、いまは亡き者へと送られていた。


「……君を焦がした炎の熱さを僕は知らない。だけど」


 将の両目から涙が流れ落ちる。


「僕の両目から流れ落ちる涙の熱さが、僕の中に残る君の熱さなのだと、息苦しいほど理解するから」


 風が将の髪を揺らす。その風は温かく、だがそれは突き放すような温かさだった。


「さようなら。またいつか、会う日まで」


「将く~ん? ご飯できましたよ~」


 後ろから聞こえた美乃梨の声に、将は自分の目をこすって涙を拭った。


「はい。いま行きます」


 将は振り返りながら笑顔を浮かべ、美乃梨の声に答えた。


    ◇


 宝刀本家の廊下。宝刀当主の不知火沙乃と、月光本家当主の幻燈翼が並んで歩いていた。


「身体の調子はどうなん?」


「日常生活に問題がないかと言われたらそうでもないが、まあ、生きてるからそれでいいだろ」


「でも、内臓、何個か持っていかれとるんやろ?」


 沙乃が不安そうに問いかけ、翼が苦笑する。


「全部体内に二つずつある臓器のうち一つだけだ。生きていこうと思えば生きられる。神様にも慈悲はあるらしい」


 翼は沙乃の浮かない表情を見て、言った。


「そんな顔するな。お前はなにも悪くない」


「……翼は優しいなぁ」


 沙乃が立ち止まり、翼もそれにつられて立ち止まる。風が二人の髪を揺らした。


「……うちは、いつだって誰かに守られてたんや。うちはどうしようもなく、弱い女や」


「そんなことない」


「誰かの優しさに気が付きもせんと、ただのうのうと生きてきた。最後まで、誰かに守られた」


 翼がうつむいた沙乃の顔を覗き込む。沙乃はいまにも涙が零れ落ちそうな濡れた瞳をしていて、唇を噛んでただ堪えていた。


「……涙なんて、もう枯れはてるぐらい流したって、思っとったよ」


 涙を堪えた震えた声に、翼が沙乃を抱きしめようとして躊躇う。そして、そっと沙乃を抱き寄せた。


「泣いたっていいんだ。……強くなろうとしなくていい。誰かに守られていたっていいじゃないか。お前のことを守りたいと思ったんだ」


 沙乃が翼の服に顔をうずめて嗚咽を漏らした。しばらく沙乃の泣き声が響いたあと、沙乃が拳を握りしめ、震えた声で言った。


「うち、たぶん忘れられへんよ」


 絞り出したような声に、翼は少し悲しそうな表情を浮かべながら「うん」と優しく答える。


「ずっと忘れられへん。ずっと、覚えとる。大きな手も、優しい声も、最後の表情も、全部全部、心の中に沁みついて、忘れたくても忘れられへんよ」


 翼がもう一度「うん」と優しく答えた。


「それでも、それでも」


 翼が沙乃の身体を強く抱きしめる。もう二度と離さないように、強く、強く抱きしめた。


「うちのこと、許してくれる……?」


「もちろん」


 翼は間髪入れずに答えた。その声は力強かった。


「沙乃のことを愛してる」


 二人の頬を撫でた風は、優しく温かく、二人のことを祝福していた。


    ◇


 日光本家の門から衣織が出てくる。振り返ってもう一度日光本家を見ると、背を向けて家に帰ろうと歩き出した。


「いおり!」


 聞こえて来た元気な声に足を止める。向こうから走って来た美雨が、満面の笑みを浮かべて衣織の元へと走ってきていた。その後ろから八作が歩いてきている。


 美雨は衣織の元へとたどり着くと、勢いよく衣織に抱き着いた。衣織が「うわっ!」と情けない声を出しながら、なんとか美雨の身体を支える。美雨は嬉しそうに笑顔を浮かべ、衣織の身体に頬を摺り寄せた。


「あのね、あのね、美雨ね。明日、蓮華に会えるの!」


「そう……なんですか……?」


「うん! だからね、いおりも一緒に来るの!」


「え……?」


「行ってあげてください」


 二人の元にたどり着いた八作が言った。


「楽しみにしているようですから」


「八作さん……腕は大丈夫ですか?」


「えぇ、問題ありません。衣織さんこそ、左目は……」


 その時、美雨が衣織の頭に手を伸ばし、衣織の前髪をあげて、衣織の傷ついた左目が見えた。


「み、美雨ちゃん……? あまり見て楽しいものでは……」


「まだ、痛い?」


 美雨が酷く不安そうに問いかけ、衣織が少し驚いた後、ふっと笑う。


「痛くないです。大丈夫」


 美雨の頭を優しく撫で、衣織は笑う。そして、八作に問いかけた。


「あの……美雨ちゃんはどうなったんですか……?」


「私ともども、神子との関係は完全に断たれました。私ももう戦えませんし、ミーちゃんもいません。美雨は月光前当主の実の孫ではありますが、月光当主は翼さんになりましたので、もう関係ありませんから」


「そう……ですか……。僕も、そうです。沙乃さんが、もう普通の人として生きていいと。僕の守神は天照大御神と共に御神のもとへ行ってしまって、もう僕も戦えないですから……」


「だから、美雨も衣織も八作さんも、もう普通の人だよね!」


 美雨が嬉しそうにそう言い、八作と衣織がきょとんとする。


「普通の家族だよね!」


 その言葉に衣織と八作はお互いに目を見合わせ、笑い出した。


「そうだね、美雨。普通の家族だ」


「そうですね……ん? 家族……?」


 衣織がはっと我に返り、首を横に振る。


「あの……僕は家族ではなく友達では……?」


「ううん! 家族。だって……」


 美雨が衣織の手を引っ張り、衣織が美雨の声を聞くために腰をかがめて顔を近づける。


 美雨はその頬にキスをした。八作が目を見開く。


「美雨は将来、衣織のお嫁さんになるから!」


 そう言うと、美雨は少し恥ずかしそうに顔を赤らめながら衣織から離れ「帰ろ!」と走り出した。美雨に置いて行かれた二人はしばらく放心状態になり、衣織がはっと我に返って八作の方を見る。


「……あ、あの……八作さん……」


 八作は衣織の声に少し遅れて反応し、衣織に向かって微笑みを浮かべた。その目は笑っていない。


「詳しく……教えていただいても……?」


「し、知りません……! 僕はなにも……!」


「ねえ、帰ろうよー!」


 少し離れたところで美雨が手を振っている。八作はやれやれというように息をつき「ちょっと待ってください」と言いながら歩き出す。衣織も八作の顔色をうかがいながら、その後を追いかけた。


 不意に吹いた風が、三人の頬を撫でる。優しい春が始まろうとしている。

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喰らう者 柚里カオリ @yuzusatokaori

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