二十六刻 大禍津日神
美雨がミーちゃんに攫われたその時、美雨はミーちゃんの手に握られたまま、叫び声のような大きな声をあげながら村を走るミーちゃんを呆然と見つめていた。ミーちゃんはまるで何かから逃れようとするように叫び声をあげ、けして美雨を離さないように強く握っているが、その力は美雨を握りつぶさないように加減されているように思う。
「……ミーちゃん……」
美雨がミーちゃんの名前を呼んだ瞬間、ミーちゃんの動きが少し鈍った。それにより、走っていたミーちゃんの足が絡まり、ミーちゃんがそのまま横転する。
「きゃあっ‼」
横転したミーちゃんは悲鳴を上げた美雨を守るように抱きかかえ、体勢を変えると、背中から倒れた。ミーちゃんの身体は地面に倒れ、走っていた勢いで地面を転がっていく。そのままミーちゃんは村の半壊した建物に背中から激突し、止まった。
「……」
ミーちゃんに抱きかかえられた美雨は、信じられないという表情を浮かべたまま固まっていた。ミーちゃんは腹から飛び出た無数の腕で美雨をしっかりと抱いており、美雨はかすり傷一つ負っておらず、ミーちゃんの身体には所々傷が出来て、血のような何かが流れ出している。
『ミウ』
ミーちゃんから発せられたその声は、複数の人物の声が重なり合ったような不気味な声だったが、美雨はその声にどこか安心感を覚えた。
『ミウ、ミウぅ』
「……なに? ミーちゃん」
美雨がミーちゃんに優しく問いかける。その時、ミーちゃんが大きく裂けた口をゆっくりと開いた。人間の歯に似た歯が並ぶその口に、美雨が噛み砕かれると思って青冷める。
だが、ミーちゃんの口は美雨の頭にはかぶりつかず、ミーちゃん口の中から赤ん坊の手のような小さな赤子な手が出て来た。
「……え……?」
困惑する美雨に小さな手が伸びてくる。手は美雨の頭に触れると、さらさらとした美雨の白い髪を優しく撫でた。美雨はミーちゃんの行動が理解できず、しばらく呆然としていたが、安心したように目を閉ざした。
「……ミーちゃん……あのね。美雨、ミーちゃんとずっと一緒にいたいよぉ……」
美雨がミーちゃんの身体に頬を摺り寄せながら、瞳から涙を流した。
「ミーちゃんが……美雨を助けてくれた時。美雨が助けてって言ったのに、答えてくれた時。美雨の……美雨の……」
美雨が言葉につまり、しゃくりをあげた。
「ママとパパを食べてくれた時」
ミーちゃんが美雨の言葉にピクリと反応する。
「ミーちゃんだけは、ミーちゃんだけは美雨とずっと一緒にいてくれるって思ったんだ……ミーちゃんは、美雨の家族なんだって……ミーちゃんだけが、美雨のことを守ってくれるって……」
小さい手がミーちゃんの口の中に引っ込み、美雨がゆっくり目を開ける。ミーちゃんは大きく口を開け、美雨を頭から吞み込もうとしていた。
「美雨……ミーちゃんと一緒にいたいよ」
美雨がミーちゃんに呑み込まれる。その瞬間、ミーちゃんの身体が唐突に痙攣し、ミーちゃんが苦しみだした。
『ミウ ミウぅぅッ‼』
「ミーちゃん⁈ どうしたの⁈ 苦しいの⁈」
美雨が驚いてミーちゃんの身体に縋り付く。ミーちゃんは口からブクブクと赤い泡を吐きながら美雨の名前を呼び、短い腕で身体を掻きむしりながら苦しんでいた。
『ミウ ダメ』
「……え……」
美雨がミーちゃんの言葉に目を丸くする。その瞬間、ミーちゃんの口から大量に赤ん坊のような短い手が飛び出し、美雨に襲い掛かった。美雨が「ひっ」と小さく悲鳴を上げる。
「
あたりに冷たい霧が立ち込め、美雨に襲い掛かろうとしていた無数の手を凍り付かせる。霧の中から飛び出してきた衣織がミーちゃんを短刀で切りつけ、ミーちゃんが悲鳴を上げた。その隙に衣織は美雨を抱きかかえ、ミーちゃんから離れる。
『アあアアアあアアアアあアッ‼』
ミーちゃんが叫び声をあげ、衣織と美雨に向かって猛スピードで走ってきた。衣織がそれに気が付き、咄嗟に身を翻して美雨を守るようにミーちゃんに背を向ける。ミーちゃんは衣織の左肩に食らいつき、ミーちゃんの歯が衣織の肉を抉った。
「ぐっ……!」
衣織が苦しげな声をあげ、痛みに耐えながら息を吸いこんだ。
「
衣織がそう言った瞬間、衣織の姿が霧のように消え、美雨が支えを失くしてその場に尻もちをつく。一瞬中に投げ出されたミーちゃんは着地すると、消えた衣織の姿を探そうと振り返ろうとしたが、突如、衣織がミーちゃんの真後ろに現れ、ミーちゃんを後ろから短刀で切りつけた。
ミーちゃんが『ギャッ』と短い悲鳴を上げる。衣織が更にミーちゃんを切りつけようとしたその時、ミーちゃんの身体から生えた無数の腕が衣織の身体を掴み、ぶん投げた。
衣織の身体が地面を転がっていき、ミーちゃんがそれを追いかけていく。地面に倒れた衣織は立ち上がろうと顔をあげ、自分に迫ってきているミーちゃんの姿を見た。
「……美雨ちゃんは、君と一緒にいちゃいけない」
衣織が呟いて、痛む身体を持ち上げ立ち上がった。
「
衣織が持つ短刀から大量の霧が放出される。辺りが霧に覆われ真っ白になったが、ミーちゃんは真っすぐ衣織に向かって来て、霧をかき分けて衣織の目の前に現れた。
「
ミーちゃんが目の前の衣織に食らいつく。だが、衣織の姿は霧のように消え、ミーちゃんの後ろに現れて、ミーちゃんが振り返りながら手で衣織を薙ぎ払ったが、また衣織の姿が消え、ミーちゃんの後ろに現れる。
霧の中でミーちゃんはがむしゃらに腕を振り回し、衣織を潰して薙ぎ払ったが、そのすべてが幻のように消えては現れる。ミーちゃんが苛立たしげに咆哮をあげ、目の前に現れた衣織に食らいついた瞬間、もう一人の衣織がミーちゃんの後ろに現れた。
衣織の左目が、霧の中で金色に光り輝く。
衣織は短刀をふりあげ、ミーちゃんが振り返る前に、ミーちゃんの脳天に向かって短刀を突き刺した。
『ウギャアアアアアッ‼』
ミーちゃんの悲痛な悲鳴が響き渡る。衣織はミーちゃんをけして離さないように短刀を深く突き立て、ミーちゃんの頭に突き刺さる短刀は深く、深くミーちゃんを傷つける。
ミーちゃんがもがき、衣織の身体を掴むと、地面に向かって叩きつけた。背中から地面に叩きつけられた衣織の口から、少量の血が飛び出し、衣織の喉から変な声が出る。ミーちゃんは地面に倒れた衣織の上から、衣織に食らいつこうとした。
その瞬間、衣織の姿が霧のように消え、ミーちゃんが歯を噛み合わせる音がむなしく響く。衣織はミーちゃんから少し離れた場所に現れ、息を整えたが、霧をかきわけて目の前にミーちゃんが現れた。
衣織が咄嗟に腕で自分を庇い、ミーちゃんが衣織の右腕に噛みつく。ミーちゃんの歯が衣織の腕に食い込み、血が噴き出る。衣織は苦しげな表情を浮かべながら、左手の短刀をミーちゃんの大きな目玉に突き立て、ミーちゃんが悲鳴をあげた隙にミーちゃんに回し蹴りをくらわせた。
ミーちゃんが地面を転がっていき、途中で止まって動かなくなる。息を切らせた衣織は、腕から血を流しながらゆっくりと一歩を踏み出した。
「やめてっ‼」
ピクリとも動かないミーちゃんを守るように、美雨が両手を広げて衣織の前に立ちはだかった。
「ミーちゃんに酷いことしないで……‼」
「……美雨ちゃん……ダメだよ。美雨ちゃんはミーちゃんと一緒にいられない」
「わかってる‼ わかってるよ‼」
美雨が涙を流しながら叫び、衣織が悲しそうな顔をする。
「ミーちゃんと一緒にいられないことも……ミーちゃんが美雨を守ろうとしてくれてることも……美雨を守るためにミーちゃんが苦しんでることも……ミーちゃんを美雨が縛り付けてることも……でも……!」
美雨の声に反応するように、ミーちゃんの身体がピクリと動いた。
「こんなお別れあんまりだよ……‼」
ミーちゃんがゆっくり身体を持ち上げる。衣織がそれに気が付き身構えたが、美雨は振り返ると、ミーちゃんに向かって歩き出した。
「ちゃんとお別れしたいの……だから……」
美雨がミーちゃんの前にたどり着き、ミーちゃんに手を伸ばす。ミーちゃんの頭に触れ、美雨はミーちゃんの顔に自分の顔を近づけて、額を合わせた。
「最後に……もう一度だけ力を貸して。美雨、ここにいるみんなを助けたい」
ミーちゃんの腕が美雨の身体に触れる。美雨を優しく抱きしめるように美雨の身体に絡みつき、衣織が美雨のしようとしていることに気が付いて、止めようと走り出した。
「
衣織の攻撃によって縮んでいたミーちゃんの身体が徐々に大きく膨らんでいき、美雨の身体を離さないように短い手が美雨を抱きしめる。美雨は微笑みを浮かべて、ミーちゃんの身体に頬を摺り寄せた。
「神格解放 その名を
ミーちゃんが大きく口を開き、美雨のことを吞み込もうとしていた。
「美雨ちゃん‼ ダメだっ‼」
衣織が美雨に叫び、止めようと手を伸ばしたが、大きく膨らんだミーちゃんは美雨のことを頭から呑み込もうとしている。叫び声をあげる衣織に向かって美雨は微笑んだ。
「大丈夫。美雨を信じて」
その言葉を最後に美雨はミーちゃんに呑み込まれた。
「美雨ちゃんっ‼」
衣織の声は虚しくあたりに響き、美雨を呑み込んだミーちゃんは自分に手を伸ばしていた衣織をひらりとかわすと、そのままどこかに向かって走り出した。
手の行き場を失くした衣織はその場に倒れこむ。美雨を呑み込まれたことに動揺し、衣織は呆然とその場に倒れたままで、後ろから、ミーちゃんが走っていく足音が聞こえた。
◇
『それ』の左腕を食いちぎったミーちゃんは、静かに『それ』を見つめると、その姿を変え始めた。
ミシミシと骨が軋むような音を立て、気味の悪いトカゲにも似た百足のような姿から、徐々に人型になっていき『それ』と瓜二つの姿に変わる。だが『それ』とは異なり、髪の色は常闇のように真っ黒で、裂けた口は存在しなかった。
その姿はミーちゃんではなく、美雨の守神、大禍津日神だった。
突然現れた大禍津日神に、花蓮と尊が息を呑む。左腕を食いちぎられた『それ』は、低いうなり声をあげながら頭を掻きむしった。信じられないというように声をあげ、その声は徐々に唸り声から耳を劈く悲鳴のような声に変わっていった。
『それ』は髪を振り乱し叫び声をあげて、大きく裂け、吊り上がった口を開けると、口からドロドロとした乳白色の液体を吐き出した。その液体から人の顔のようなものが浮かびあがり、地面を伝って大禍津日神に向かっていく。大禍津日神の前までたどり着くと、液体は大禍津日神を呑み込もうとした。
だが、その液体は突如として弾け飛び、あたりに散らばった。
大禍津日神は右手を突き出し、人差し指で『それ』を指さしていた。指さされた『それ』の身体に弾けるようにして穴が開く。
『アアアアアアッ‼』
『それ』が甲高い悲鳴をあげ、救いを求めるように大禍津日神に向かって右手を伸ばしたが、その腕が弾け飛んだ。『それ』の身体から、ドロドロと乳白色の液体が流れ落ちる。
『それ』が髪をかきあげ、顔が見えた。目があるはずの場所には永遠に闇が続く穴だけが開いており、右目は穴すら開いておらず、穴を囲むように顔の上半分の全体に、赤黒い傷のようなものがある。穴から涙のように大量の人間の眼球が落ち、地面に叩きつけられて音を立てながら潰れた。
『それ』が叫び声をあげながら、崩れかけの身体を引きずり、大禍津日神に向かって走ってくる。大きく裂けた口を開け、左の穴から人間の眼球をボロボロと落としながら、大禍津日神を呑み込もうと迫ってくる。
『それ』が大禍津日神の目の前までたどり着いたその瞬間、大禍津日神の口のあたりから胸、腹にかけて縦に線が入り、大きく裂けた。勢いよく大禍津日神に迫っていっていた『それ』は止まることもできず、そのまま大禍津日神の身体の中に吸い込まれていく。
『それ』の叫び声があたりに響き渡り、『それ』は抵抗しようと暴れたが、バキバキグチャッという音を立てながら『それ』は呑み込まれていき、ついにその叫び声すらも呑み込まれ、大禍津日神の身体が閉ざされた。
一瞬の間にも満たなかったその光景に、花蓮と尊は呆然としているほかなかった。
蛭子と呼ばれた神木村の人々の成れの果てであり、堕ちた神の成れの果てであったものを完全に呑み込んだ大禍津日神は、ゆっくりと花蓮と尊の方を向く。
その瞬間、大禍津日神の胸のあたりを突き破って人間の左腕のようなものが飛び出した。
大禍津日神の身体から黒い液体が溢れ出る。飛び出した左腕は大禍津日神の身体から這い出そうとしているのか暴れだし、大禍津日神の身体を突き破って『それ』が顔を出そうとしていた。
『それ』の両手が大禍津日神の身体から飛び出し、頭が徐々に表れようとする。大禍津日神は両手でそれを押さえつけ、『それ』が出てこられないようにしようとしたが、『それ』は大禍津日神の身体を裂きながら這い出て来た。ぼたぼたと黒い液体が地面に零れる。
『ギャアアアアッ‼』
大禍津日神はなんとかそれを押さえようとしているが、『それ』は叫び声をあげながら徐々に顔を出す。
「……ああ……だめだ……」
花蓮がぽつりとつぶやいた。瞳から涙を一筋流し、腕の中の御神を抱きしめる。花蓮の隣では、尊が呆然と大禍津日神を見つめ、口を開いて掠れた声を出した。
「……奴の怒りは……憎しみは……晴れることはない……」
『それ』が大禍津日神の中から這い出てくる。
その時、ミーちゃんを追ってきた衣織と将がその場に駆け付けた。その場の絶望的な状況に、将が青冷めて動きを止めた。
「……なんで……」
将がその場に崩れ落ちた。
「もうこれ以上、なにを犠牲にすればいい……?」
『それ』がけたたましい悲鳴を上げる。大禍津日神の手から逃れ、身体の半分ほどを飛び出させたそれは、いまにも蘇ろうとしていた。
「もう、なにも犠牲にしない」
響いた声に将が顔をあげる。将の隣に立つ衣織は、まっすぐ大禍津日神を見つめていた。
「僕は、美雨ちゃんを信じる」
衣織の金色の左目が光を放ち始める。
「
衣織が放った神託に、花蓮が驚き目を見開いた。
「神格解放 その名を
その神の名を口にした途端、衣織の右目が左目のように金色に変わり、衣織の髪が金色に染まった。そして、衣織の手元に八咫鏡が出現し、光を放ち始めた。
その姿は、さきほど神格解放を行った御神と瓜二つだった。
「
八咫鏡が光り輝く。その光は大禍津日神諸共這い出そうとしていた『それ』を焼き、『それ』が悲鳴を上げた。あたりは八咫鏡から発せられる光に照らされ、その明るさでまわりが全く見えない。大禍津日神と共に『それ』の身体が光に焼かれ、崩れ始める。悲鳴もすべて光に呑まれ、焼き尽くされた。
焼け崩れていき、悲鳴を上げる『それ』とは反対に、大禍津日神は、どこか安らかな表情を浮かべているように思えた。衣織がはっと我に返る。
「美雨ちゃん‼」
衣織が大禍津日神に向かって手を伸ばすが、大禍津日神は光の中で崩れていく。衣織が伸ばした手は虚しく空を切り、大禍津日神には届かない。
「だめだっ‼ お願い‼ 連れて行かないで……」
次の瞬間、衣織の左目が潰れた。
衣織の瞳から涙と血が流れ落ち、光の中に溶けていった。
「
衣織の後ろで、鋏の音が聞こえた。
その瞬間、大禍津日神の身体の中から美雨が飛び出した。黒い液体に守られるように覆われていた美雨は、衣織の腕の中へと倒れてくる。衣織が美雨を受け止め、受け止めた勢いでその場に尻もちをついた。それでもなお、八咫鏡は光を放ち続け、大禍津日神を焼き尽くしていく。
衣織に受け止められた美雨は目を閉ざしたまま、涙を流していた。
「……ミーちゃん……ありがと……」
大禍津日神が光の中に消えていく。その姿が完全に消えたとき、闇に覆われていた空に亀裂が入り、バキバキと音を立てて崩れ始め、世界に色彩が戻り、明るい空が見えた。
村の中を、明るい日の光が照らし出す。
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