二十五刻 蛭子

 尊が蛭子と戦いを繰り広げているところから少し離れたところで、花蓮は気を失った将を起こそうとしていた。


「将‼ 起きろ、将‼」


 強く身体を揺さぶっても、将が起きる気配はない。花蓮は右手を振り上げると、将の頬を強く叩いた。


「起きろ‼」


「……ん……」


 将が頬を叩かれた衝撃で目を覚ました。将が目を覚ましたことに花蓮が安堵する。


「……あれ……僕……」


「意識を失っていたんだ。神格解放の反動だろう」


 目を覚ました将の両腕には、痛々しい火傷の跡が残っている。


「……瑠花……」


「のんびりしている暇はない。このままじゃあの化け物に全員殺される」


「え……」


 将が咆哮をあげている蛭子を見て青冷める。花蓮は蛭子を険しい表情で見つめ、将の目をまっすぐ見つめた。


「私は尊様の援護に行く」


「美雨ちゃんと衣織は……⁈」


「美雨がミーちゃんに連れ攫われて、衣織が追いかけていった」


「な……ダメだ……あのままじゃ美雨ちゃんが連れていかれる……!」


「どういうことだ?」


「僕、二人を追いかけます‼ このままじゃ取り返しがつかないことになる‼」


 将が慌てた様子で立ち上がろうとして、腕に激痛が走り、小さく悲鳴をあげながら膝をつく。その身体を花蓮が支えた。


「無理をするな。おまえももう動ける身体じゃない。逃げてもいい。安全な場所で……」


「僕はもう誰も失うわけにはいかないんだ‼」


 将が叫ぶように言い放ち、花蓮が驚いて将から手を離す。将は今にも泣きそうな表情をして、立ち上がった。


「もう……もう、失いたくない……」


 そう言うと、花蓮が止めるのを無視して将が走り出した。取り残された花蓮は呆然と将の背中を見つめていたが、静かに瞬きをすると、蛭子を睨みつける。


木花咲耶姫このはなさくやひめ


 花蓮の手元に薙刀が出現し、花蓮が薙刀を掴み取る。花蓮の両手の平には桜の花が根付き、枝の影が浮かび上がった。


「もう、誰も奪わせない」


 花蓮はそう言うと、上空で暴れている蛭子に向かって走っていった。


    ◇


 蛭子と戦闘中に尊は、上空の蛭子に向かって光の矢を放ち続けていた。矢は確実に蛭子をとらえ、蛭子の身体を貫いているが、蛭子はそれに怯む様子もなく、大きな口を開けて尊に迫ってくる。蛭子が口を開けば無数の手が飛び出し、尊を掴もうとするが、尊は光を剣の形に変え、伸ばされた手を切り刻んだ。蛭子が悲痛な叫び声をあげ、尊から離れる。


影渡かげわたり」


 次の瞬間、尊は蛭子の真下、宙に浮かぶ蛭子の影の上に立っており、光の剣を真上にいる蛭子の腹部に突き立て、蛭子の腹を切り裂いた。


『イタイよイタい ナンで ドウシテ ナニヲした?』


 切り裂かれた蛭子の腹から黒い体液が流れ落ち、尊は蛭子の影から出る。光を弓矢に変え、腹からボタボタと体液を流す蛭子に狙いをつけた尊は、蛭子の腹からなにかが這い出そうとしていることに気がついた。


『オイでオイデかわイイ子 ワタシのワタシタチのカワイイ子』


 蛭子の腹から這い出し、ベチャリと音を立てて地面に落ちた巨大なそれは、大きな黒い肉塊のように見えたが、よく見ればそれは原形をとどめることのできていない、大きな赤子のようにも見えた。


 産み落とされた赤子は大きな産声を上げる。この世に生まれたことを呪うようなその声は、周囲の空気を振動させ、尊の耳を劈いた。


 尊がその声に思わず顔をしかめたその時、赤子は尊の目の前まで迫っており、大きな鳴き声を上げながら、原形のとどめていない腕を振り上げていた。


 尊は咄嗟に八尺瓊勾玉を頭上に掲げ、半透明な光の壁を出現させると、振り下ろされた拳を受け止めた。拳の衝撃で壁にヒビが入る。


『オギャア』


 まだ目も開いていない赤子は、拳にさらに力を込める。まるで何も知らない赤ん坊が虫を潰すように、尊のことを押し潰そうとしていた。そして、尊は自分の後ろから、赤子を産み落とした蛭子が迫ってきていることに気が付いていた。


『カワイイ子』


 尊が赤子の拳を押し返す。赤子の身体がよろめき、後ろ向きに倒れた。短い手足をばたつかせ、大きな声をあげて泣き喚く。


 振り返った尊の目の前に、大きな口を開けた蛭子が迫っていた。尊は弓矢をかまえようとして、間に合わないことを悟って手を降ろした。


 その顔には、諦めの笑みさえ浮かんでいた。


桜花爛漫おうからんまん


 突如、蛭子の後ろに現れた花蓮が蛭子の背中を薙刀で切りつけた。蛭子の傷口から花が咲き、蛭子の身体を埋め尽くそうとして、蛭子が悲鳴をあげながら方向を変え、苦しそうに蠢きながら空高くに逃げていく。蛭子が上空に逃げると、花弁がはらはらと舞い落ちたが、その花弁は一瞬にして真っ黒に染まり、身体を埋め尽くそうとする花を覆いつくすように、蛭子の傷口から原形をとどめない人間のようなものがあふれ出した。


 蛭子が逃げた隙に尊は体勢を整え、八尺瓊勾玉の光を剣の形に変えると、起き上がろうとしていた巨大な赤子を真っ二つに切り裂いた。切り裂かれた赤子の身体ドロドロと溶け落ち、赤子の泣き声のような悲鳴がこだまする。


「……なぜ、こっちに来た」


 溶け落ちる赤子を見つめながら、後ろにいる花蓮に尊が問いかける。


「時輪美雨は……翼たちは無事なのか?」


「わかりません」


「ここは私一人で十分だ。早く助けにいってやれ」


「尊様。死に急いでおられますね」


 花蓮の言葉に尊が振り返る。花蓮は険しい顔で尊を見つめていた。


「……なにを……」


「神子柱を行うおつもりですか? 自分が犠牲になればここにいる全員を助けられると、そう思っているから簡単に諦めるのでしょう。先ほども、あなた様ならば逃げることが出来た。それをしないのは、蛭子に吞み込まれることで神子柱になり、再度蛭子を封印したいから」


 尊はなにも言わず、花蓮を見つめている。上空から蛭子の身体から溢れ出た人間のような『なにか』が落ちてきては、地面に打ち付けられる音が響く。


「ご自身を犠牲にする道を、簡単に選ばないでください」


「……この老い耄れに、それ以外何ができるというのだ」


 尊の両目は青く光り輝いているが、その光は弱まっているように思えた。上空で蛭子が叫び声をあげている。蛭子の傷はふさがり、いまにもこちらに迫ってきそうだ。


「結界を張りながら戦う力もほとんど残っていない。視界も、もうほとんどぼやけて見えやしない。そんな老人にできることは、自らの命を投げうってでも、この場にいる人間を守ることぐらいだろう」


「……自分を犠牲にすることは、あまりにも簡単です」


 そう言った花蓮は、泣きそうな表情をしていた。


「でも、だけど、あまりにも罪を犯しすぎた私は、気が付くのが遅すぎた私は、自分を犠牲にして誰かを守るなんて、そんな簡単なことでは、もう、罪滅ぼしにもならないのです。癒えない傷を一生抱えて、苦しみながら生き続ける。傷つきながら誰かを守って、その傷を抱えて生きていく。失った者の叫び声に身を削られながら、その者たちの代わりに生き続けねばならないのです。それが、なんの罪滅ぼしにもならなかったとしても。それでも」


 上空で揺らめいていた蛭子が二人に向かって降下してくる。開かれた口の中にある人間の顔が吹き出した息は黒い突風に変わり、二人の身を切り刻もうと迫ってきた。


「私は、失くした者を忘れてはならないから」


 花蓮が薙刀の刃を上に向けると、花蓮の腕に浮かび上がった枝の影が全身に広がり、両手の平に咲いた桜の花のつぼみが一斉に花開いて、花蓮の腕を覆いつくした。


豪華天欄ごうかてんらん 花咲舞姫はなさきまいひめ


 咲き誇る花は一瞬にして薙刀を覆いつくし、黒い突風が花蓮のもとにたどり着く前に薙刀から花吹雪が舞い上がる。花吹雪は黒い突風を巻き込んでかき消し、蛭子のもとにたどりつくと、蛭子の身体を切り刻みながら蛭子の身体を花で覆いつくした。

蛭子が悲鳴を上げて、花蓮がいた場所に落下する。大きな音と共に蛭子の身体を覆いつくす花の花弁が舞い上がった。


 蛭子がうめき声をあげながら身体を起こそうとするが、蛭子の身体を覆う花は地面に根を張り、蛭子は身動きが取れず、煩わしそうに身をばたつかせる。その時、落下してくる蛭子を避けて、蛭子の後ろ側に回り込んでいた花蓮が大きく飛び上がり、後ろから蛭子の脳天に向かって薙刀を振り上げていた。


「この命ある限り、苦しみ続けると誓ったのだから」


 自分に言い聞かせるように呟いた花蓮の声はあまりにも小さく、蛭子のうめき声にかき消される。花蓮は躊躇なく、蛭子の脳天に薙刀を突き立てた。


『ギャアアアアッ‼』


 蛭子が悲痛な悲鳴をあげる。薙刀を突き刺された蛭子の脳天から花が咲き乱れ、花は地面にまで達してあたりを花畑に変えたが、色彩のない世界では、その花畑は酷く虚しく、悲しげに見えた。蛭子の身体が花に覆いつくされ、完全に蛭子の姿が見えなくなった。


 その時、蛭子の背中から、グチャグチャになった人間が固められて作られたような大きな二本の手が現れ、花蓮の身体を掴んだ。


「なっ……‼」


『ニクイニクイニクイニクイニクイニクイニクイニクイニクイニクイニクイニクイニクイ』


 手は花蓮のことをギリギリと締め上げる。花蓮の身体が軋む音がして、息が出来なくなった喉から変な音が出た。


 花蓮の口から血がしたたり落ちる。その瞬間、花蓮に向かって走ってきた尊が八尺瓊勾玉の光を剣の形に変え、大きく飛び上がって花蓮を締め上げている手を切り裂いた。


 蛭子の悲鳴と共に切り裂かれた手が花蓮を離し、花蓮が蛭子の顔の前に落下する。尊は切り裂いた蛭子の手を蹴り上げて宙に浮かぶと、光の剣を振り上げた。


青天夜眼せいてんよがん


 尊の両目がさらに青く光り輝く。


 だが、尊が剣を振り下ろすよりも早く、尊の両目から血が流れだした。尊の視界が赤く染まる。


 尊の身体がグラリと揺れたその隙に、切り裂かれて原形をとどめていなかった蛭子の手が尊のことを叩き落とす。尊の身体が地面に叩きつけられ、尊のぼやけた視界には花で埋め尽くされた蛭子の顔があった。だが、蛭子を埋め尽くしていた花は真っ黒に染まり、枯れ落ちている。


 尊は半開きになった蛭子の口から一本の人間の手が這い出そうとしていることに気が付いた。


 次の瞬間、その手は尊の隣で倒れている花蓮に向かって、目にも止まらぬ速さで飛び出してきた。その手は人間の手の数倍長く、鋭く伸びた爪が花蓮を貫こうと迫ってくる。 


 尊は咄嗟に花蓮を庇い、蛭子の口から飛び出した腕は尊の首元をかすめ、鋭い爪が尊の首を切りつける。尊の首から血が溢れ、尊が首を押さえた。


『アハハ』


 蛭子の笑い声が聞こえる。尊の首からはとめどなく鮮血が流れ、尊の手を汚した。


「尊様……」


 花蓮が掠れた声で尊に呼びかける。尊の顔から血の気が引いていき、息が弱くなっていく。


 笑い声をあげた蛭子はボロボロと身体から枯れた花を振り落としながら、血を流す二人を嘲笑うように上空に向かっていった。薙刀に貫かれた脳天や、切り裂かれた背中の手はそのままで、蛭子の身体からはボタボタと肉塊のようなものが落ちている。

蛭子は上空に上ると、眼下で血を流している二人に向かって口を開けた。蛭子の口の中の無数の人間の顔が一斉に口をあけ、息を吹き出す。その息は黒い突風に変わり、身動きを取れない二人の身を抉ろうと迫ってくる。


 上空に浮かぶ蛭子を眺め、花蓮は自分の死を覚悟した。


やみよりいでし暗雲晴あんうんはらし、八百万やおよろず神々束かみがみたばわれみちびけ。ねがとど微笑ほほえみたたえ、闇蔓延やみはびこるこのをあまねくらせ」


 聞こえた声に花蓮が目を見開く。迫ってくる突風から尊と花蓮を守るように、小さな人影が立ちはだかった。


「神格解放 その名を天照大御神あまてらすおおみかみ


 出現した八咫鏡を両手で掲げ、御神は震える両足を踏ん張って、尊と花蓮を守ろうと立っていた。


 御神は上空の蛭子を真っすぐ見つめ、迫りくる突風をきっと睨むと、大きく息を吸い込んだ。


八卦はっけ


 声の限り叫んだ御神に応えるように、八咫鏡がちかちかと光り始め、まばゆい光であたりを照らした。その光はあたりで蠢いていた、蛭子から溢れ出た人のような『なにか』を焼き尽くし、黒い突風を蹴散らした。蛭子が上空で叫び声をあげるが、光は弱く蛭子のもとまで届かない。


「……私は……いつまでも守れるわけにはいかない……‼ 私は……私は……‼」


 八咫鏡の光が徐々に強くなる。蛭子が光から逃れるように上空に向かうが、光に身を焼かれ悲鳴を上げた。


「強くならなきゃいけないんだ……‼」


 御神の両目から血が流れだす。突然現れた御神を呆然と見つめていた花蓮がはっと我に返り、声を絞り出した。


「御神様‼ いけません‼ それ以上は……‼」


 花蓮が御神を止めようと手を伸ばす。八咫鏡から発せられる光がついに蛭子に追いつき、蛭子を覆って、蛭子が悲鳴を上げた。


 花蓮の声に振り返った御神は、両目から血を流しながら、微笑みを浮かべていた。


「御神様‼」


 光に覆われた蛭子が身を焼かれ、一回りほど小さくなりながら落下していく。光は蛭子が地面に落ちる前に蛭子を焼き尽くし、消滅させるかと思われたが、振り返った瞬間に御神の身体からふっと力が抜け、花蓮の方に倒れて来た。


 八咫鏡が消滅し、蛭子の身を焼いていた光が消える。倒れて来た御神の身体を受け止めた花蓮は、御神が弱々しくはあるが呼吸をしていることを確認して安堵した。


 蛭子が音をたてて地面に叩きつけられる。蛭子の身体は光に焼かれて、半分以上が消滅していた。ブスブスと身体が焦げる音がして、蛭子の身体から煙が上がる。花蓮は血で顔を汚した御神を強く抱きしめた。


「……あなたには……なにも背負わせたくなかった……」


 御神を抱きしめながら花蓮が涙を流す。御神の小さな身体は限界を迎えており、息は弱々しい。


「……嘘だ……」


 尊の掠れた声があたりに響いた。


 花蓮が顔を上げ、首から血を流している尊を見る。尊は信じられないという表情をしており、花蓮は尊の見ている方を見た。尊の視線の先には、焼け落ちた蛭子がいた。


 焼け落ちた蛭子の口の中から這い出そうとしている、『なにか』がいた。


 蛭子の口をこじ開けるように出てきた『それ』は、真っ白な人間のように見えた。地面につくほど長い真っ白な髪。裸の人間の女のような風貌。だが、『それ』はどう見ても人間ではなかった。


 色彩が一切感じられない、無とも表せるほどに真っ白で、人間のようでどこか違う。やせ細った身体から生は感じられず、腕の関節が通常の人間よりも一つ多く、長い腕が地面に付きそうだった。手の指も同様に関節が多く、爪が鋭い。長い髪で隠れ、目は見えないが、鼻によって分けられた髪から覗く口は口角が吊り上がり、耳まで裂けているようだった。


 一目でわかることは、『それ』がけして人間ではないことと、絶対に近づいてはならない存在であるということのみ。


 ゆっくりとした動作で這い出て来た『それ』は、左手の人差し指で、動けない三人を指さそうとしている。その動作一つで、いとも簡単に命を奪われることを理解した花蓮は、腕の中の御神を守ろうと、強く抱きしめた。


 その時、三人を指さそうとした『それ』になにかが襲い掛かった。


 『それ』の左腕が食いちぎられる。血は出ない。血の代わりに食いちぎられた左腕から、ボタボタと乳白色の塊が落ちる。よろめいた『それ』はゆっくりとした動作で食い千切られた左腕を見て、自分の左腕を食いちぎった者の方を見た。


 あからさまに異様で、異質な存在である『それ』に迷いなく牙を向いたのは、大きなトカゲにも似た百足のような姿をし、身体中から無数の突起と赤子のような短い手を飛び出させた、ミーちゃんだった。

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