二十四刻 友

 いつから道を踏み外したのだろう。なにが間違いだったのだろう。自分はただ懸命に、月光当主としての任を果たそうとしただけだったはずだった。


 娘が男と共に家を出ていったとき。愛する妻が病にかかったとき。そして、本家の神子たちが蠱毒を行い、大災厄を巻き起こしたとき。


 いつもすべてが遅かった。家族の心にも、神子たちの不満にも気が付くことが出来ず、気が付いたときにはもう遅い。妻は「あなたは本当に不器用ね」と笑ってくれたが、その妻ももういないのだ。


 すべて、私が巻き起こしたことだった。多くの人を巻き込んだ。私には失った者たちを悼む資格すらない。だが、失った者が残した者たちを守らねばならない。それがたとえ罪滅ぼしにもならない、ただの独りよがりであったとしても、守り抜くと決めたのだ。


 私と血がつながっているという、真っ白な少女を見たとき、心が軋む音が聞こえた。


 月光当主であった父を持った私の人生は、いつだって他人によって決められていた気がする。月光の当主となることが約束され、強くなることを強要されたが、それでも別にかまわないと思っていた。自分で決めたことの方が少ない人生だっただろう。


 それでも、自分の隣にいてほしいと思った人物だけは、自分で選んだと言ってもいいと信じたい。


 蘭と初めて出会ったとき、なんと気の強い女だろうと思ったものだった。蘭は当主の息子である私に物怖じせず、真っすぐ目を見て凛とした声で言い放った。


「貴方様は月光の時期当主であられます。いつまでもお父様に頼りきりになるのではなく、しゃんと背筋を伸ばし、ご自身で決められたことに筋を通してくださいませ」


 年上とはいえ、まるで自分の子供のように時期当主の私を叱りつけるとは、怒りを通り越して感動さえ覚えたものだった。


 蘭は芯の強い、凛とした女だった。私が今まで見て来たどの人よりも強く、いつでも正しい。蘭はいつも優柔不断で頼りない私の前を歩き、道を示してくれた。その女に惚れるなと言われる方が無理な話だったのだろう。


 蘭は始め、私の告白をきっぱりと断った。


「私のような年増よりも、もっとお若くて可愛らしい良い女性がおりますでしょう? あなたにはたくさんの女性が寄ってくるのですから、私じゃなくてもいいじゃありませんか」


 さも当然と言うように言い放った蘭は、私の告白を冗談だとでも思っていたのだろう。だが、私には蘭以外の女など見えていなかった。


「あなたでないと、私はだめになる」


「まあ。そんなことありません。あなたはもう、ご自分で道を決めることができるでしょう? 私がいなくても大丈夫ですよ」


「私はあなたに隣にいてほしいと思ったのだ」


 真剣な顔をして言った私に、蘭は驚いたような表情を浮かべながら「まあ」とたいして驚いていなさそうな声を出した。そしてあきれたような表情で、笑った。


「それなら、まあ、仕方がないかしら。わかりました。あなたの隣におりましょう」


 その日から蘭は私の妻となっていた。蘭は妻となっても変わらず、凛とした、筋の通った女で、ずっと私のそばで寄り添ってくれていた。蘭ほど美しい女はいないと、亡くしたいまでも思う。それほどまでに、蘭は私の心を掴んで離さなかった。


 蘭と結婚して数年後、生まれた赤子に真澄と名付けた。名付けたのは蘭で「いつまでも、真に澄み切った心のままでいてほしい」という願いを込めてつけたらしい。可愛らしい女の子だった。私も蘭も、真澄のためならなんでもしてやりたくて、愛情をこめて育てたはずだった。


「あなたたちと一緒にいたら、私まで頭がおかしくなるわっ‼」


 生まれてきてから十数年。いままで、なにがあろうと私と蘭に口答えせず、素直な良い娘であった真澄が言った言葉がいまでも信じられない。


「私は、普通の人になりたかった‼」


 真澄は幼いころから、禍ツ神を酷く恐れていた。だからきっと、神子の家に生まれてきたことを酷く恨んでいたのだろう。しかも、御三家の当主の娘という、逃れようのない立場に生まれてしまったことを。命を懸けておぞましい禍ツ神と戦うなどという人生を送りたくないと、真澄はずっと考えていたのだ。だから、自分のことを救い出してくれると言った、どこの馬の骨ともわからない男についていくことを決めた。


 蘭は酷く悲しんだ。当たり前だ。誰よりも愛していた娘に、神子である自分の人生のすべてを否定され、おまえは頭がおかしいのだと言い放たれた。神子であるから、普通ではないのだと。これまで人前で自分の悲しみを見せたことのなかった蘭が、涙を流したのだ。


「親を選ばせてあげられなくてごめんなさい」


 そう言いながら、蘭は実の娘に頭を下げて謝罪した。その姿を見て、私は怒りに身を任せ、実の娘に言ってしまったのだ。ここまで愛情をこめて育て、誰にも恥じぬ人間になってほしいと願い続けていた妻の心を踏みにじった娘に。


「もう二度と、私たちの前に現れるな‼」


 真澄は私の一言でなにかが吹っ切れたように、迎えに来た男と荷物をまとめて、その日のうちに家を飛び出していた。止める余地などなかった。蘭はただ泣きながら、その背中を見送っていた。


 その日から、真澄がいったいどこで何をしているのかも、生きているのかも、幸せなのかもわからなかった。否、調べようと思えばいくらでも知ることが出来た。それでも知ろうとしなかったのは、覚悟がなかったからだ。蘭も、私も、自分たちの人生すべてを否定した実の娘が、今どこで何をしているのかを知りたくなかった。


 ただ、蘭は心の底から真澄の幸せを願っていたはずだ。いつも悲しそうに、真澄が去っていった部屋を掃除していたのだから。


 私は、どうだったのだろう。自分の親を否定し、男と共に逃げるように去っていった真澄のことを恨んでいなかったと言えば嘘になる。だが、勘当同然で出ていった娘といえど、可愛い一人娘だ。どこかで慎ましく暮らしてくれていることを願っていた。


 もう、戻らないとも知らず、のうのうと。


 連れてこられた白髪の少女を始めてみたとき、おぞましい化け物に守られるようにして泣きじゃくっているその姿に、どこか懐かしさを覚えた。髪の色も目の色も、まったくもって異なるのに、真澄の面影を感じたのだ。


 だが、その時はそんなはずがないと割り切り、ただ、業を背負わされた少女を救いたかった。少女に従える化け物から語られたことが、まさか実の娘の最後だなど、思いたくなかったのだ。自分の夫を殺し、娘までも手にかけようとして、その娘に殺された母親。


 だが、真実は、その残酷な最後が、我が娘の最後なのだと語った。


 時輪美雨について調べ、母親の名が真澄であることを知った。まさかと思った。きっと同名の女性だったのだと。それでも、どうにも気になって、あの時娘を連れ去った男の名を調べた。時輪という名字を持っていた。


 神は、なんと残酷なのだろう。


 普通の暮らしがしたいのだと家を飛び出し、男についていった娘は幸せになるどころか、すでに死んでいた。実の娘に殺されていた。残された娘も化け物に憑りつかれ、心に蓋をして、業を背負わされて生きている。時輪美雨は、私の孫娘だった。


 蘭がいたら、その事実をどう受け止め、自分の孫に向かってどんな顔を向けただろうか。世界の不幸すべてを背負わされたような実の孫を、優しく抱きしめてやったのだろうか。


 四年前、月光の神子たちが暴走し、神木村で蠱毒を行ったことで蛭子が生まれ、大災厄が起きた。月光の神子たちが不満を持っているなど、当主である私はなにも気が付かなかったのだ。他の家と比べて月光が劣っているなど、考えたこともなかった。


 もとより月光の監視下にあった、邪神伊邪那美を封じるために作られた神木村で行われた禁術はあまりにも残酷で、残虐で、村の中はこの世の地獄と呼ぶのも生ぬるいほどの惨状だった。女子供も関係なく、無残に殺された死体がそこら中に転がり、その者たちの表情は恐怖で歪んでいる。そこら中に飛び散った鮮血は異臭を漂わせ、もはや人間だったかすらわからない肉塊が転がっていた。


 そして、その闇に堕ちた村の中央、万年桜の頭上に鎮座した蛭子は、まるで小さい子供が遊んでいるかのようにいとも容易く、自分に神器を向ける神子たちを次々と殺戮していった。その姿はもはや神ではない。ただの化け物であり、人々の無念と怒りの集合体。


 一目見た瞬間に、自分の死を覚悟した。だが、死ぬわけにはいかなかった。


 大災厄の数年前、蘭は病に倒れた。それ以前に、真澄が家を飛び出してから、蘭の身体は確実に弱っており、何度も床に臥せった。心労が祟っていたのだろう。それでも、今回ばかりは年もあり、回復は難しいだろうと医者に言われていた。


「人生で、最初で最後のわがままを言ってもいいかしら」


 もう、自分の力で起き上がることもできなくなった蘭は、私の顔色をうかがうような、いままで聞いたこともない弱々しい声で、言った。


「私が死ぬとき、一人にしないでください」


 蘭の最初で最後のわがままは、そんな悲痛なものだった。最愛の娘に自分の人生のすべてを否定された母親は、ただ弱々しく、寂しいと口にした。


 蘭を一人で逝かせるわけにはいかなかった。絶対に死ねなかった。最後は笑顔で、妻の人生すべてを肯定して、最愛の人を見送りたかったのだ。だが、それも叶わない。


 蛭子の消滅は不可能だった。何人もの神子が死に、守り神を吸収した蛭子はもう手に負えず、神域に繋がってしまった神木村を犠牲に、封印を施す以外に道はなかったのだ。そして、その封印のためには、神子一人の命が必要となる、神子柱を行うほかなかった。


 犠牲になる神子に待っているのは生ぬるい死ではない。永遠に続く生き地獄。人々の無念と怒りの渦の中に閉じ込められ、気が狂おうとも解放されることはなく、永遠に封印の依り代として生き続ける。


 月光が作り出した化け物を封じるための犠牲を、いったい誰になすりつければいい?


 いつもすべてが遅かった。娘の心に気が付くのも、妻の弱った心に気が付くのも、月光の異変に気が付くのも。妻の最後のわがままも聞いてやれない愚かな男のまま、私は生き地獄に堕とされるのだ。


 いままでの私の業が今、すべて降りかかる。そう、思っていた。そうであらねばならなかった。この惨劇を生み出した者が、この惨劇を止めねばならないはずだった。


「わしが神子柱になる」


 宝刀当主、神崎虎太郎は、何の迷いもなくそう言った。頭上で暴れ狂う蛭子を恐れることもなく、微笑すら浮かべて、惨劇の渦の中に飛び込もうとしていた。


「あんたみたいな老人が神子柱なんかになったって、あんな化け物抑えられんやろ」


「……なにを……言ってる……?」


「わしにはもう立派な後継ぎがおるんよ。だから、大丈夫や」


「自分が言っていることを理解しているのか?」


「もちろん」


 ただ優しい笑みを浮かべ、その男はこれから自身が堕ちていく地獄を見つめていた。


「自分が犠牲になることで、他の誰かが救われるんなら、それほど意味のある人生はないやろ? この化け物が後の世に残ってしまったら、わしの大切な奴らが傷つくことになるんや。せやったら、なにを怯えることがある? 守りたい者を守って死ねることこそ、本望や」


 神崎虎太郎という男に、いったい誰が敵うのだろう。それほどまでに神崎虎太郎は強く、優しく、誰かのために自分を犠牲にすることも厭わない男だった。神に愛されているにもかかわらず、否、愛されているからこそだったのだろうか。


 神崎虎太郎が、自ら、地獄を選んだのは。


「最愛の妻の死に目にも間に合わんなんて、男の恥やさかい、一緒にいてやらんといけませんよ、尊はん」


 今でも思う。あのとき、私が止めていれば、神崎虎太郎を止めていたとしたら、どうなっていただろう。私が地獄に堕ちて悲しむ者は、はたして妻以外にいてくれたのだろうか。神崎虎太郎が消えて、悲しみに溺れる者の方が多いに決まっていたのに。


 止めることが……できなかったのだ。私は臆病者だった。自ら進んで地獄に堕ちる勇気など、ありはしなかったのだ。最愛の妻の最初で最後のわがままを踏みにじる勇気が。


 神崎虎太郎は迷うことなく神子柱になった。誰が止めても聞かなかっただろうというのは、臆病者である私に言い訳だろうか。私は罪を重ねて、のうのうと生き残ってしまった。


 あの男は、自分が消えることで、どれほどの者が悲しむのか、わかっていたのだろうか。翼に縋り付き、泣き喚いていた不知火沙乃は、自分の敬愛する師がどうなってしまったのか、どこまで察しがついていたのだろう。


 私は、大災厄の事実をすべて隠した。自分の保身のためだろうと言われても仕方がないことだろう。だが、私は、なんの関与もしていない月光の神子たちを守りたかった。そして、神崎虎太郎を失い、悲しみに暮れている者たちに、神崎虎太郎がいまもなお、自分たちを守るために地獄の渦中にいるということを、知ってほしくなかったのだ。


 なんの言い訳にもならない、酷く醜い綺麗ごとだ。


 大災厄の翌年、蘭は静かに息を引き取った。もうほとんど力の入らない手で私の手を握りしめ、「あなたに出会えてよかった」と、そう言い残して逝ってしまった。


 私は蘭にも大災厄の事実を教えなかった。すべて一人で抱え込み、苦しみながら生きていくことが、せめてもの罪滅ぼしになればと。蘭に、悲しみに暮れた最後を迎えてほしくなかった。


 私は、守らねばならないのだ。残された者たちを。誰かが命を懸けてでも、守ろうとした者たちを。それが私の業であり、罪滅ぼしだ。あの時、妻の願いを守りたいがために、誰かを犠牲にした私は、もう、臆病者ではいられない。この命を懸けて、誰かが守った者を守らなければ。


 もう私には、守らなければならない者はいても、守りたい者はいないのだ。私が生きていることで、守れるものはいないのだ。誰かを守って死ねることが本望ならば、すべての罪とすべての苦しみを背負って、この化け物と共に地獄に堕ちようではないか。


 あの時堕ちるはずだった生き地獄に、身を沈めよう。もう二度と、愛しい者たちに顔向けができないように。


 ……我が娘が残した、私の孫娘であるあの白髪の少女は、私のことをどう思っていたのだろう。


    ◇


 八作の槍が蛭子の身体に開けた穴からみるみるうちに人の顔があふれ出して穴をふさぎ、蛭子は声高らかに笑い声をあげた。


『いタイイたイョいたイ』


 地面に着地した八作は目にもとまらぬ速さで蛭子に向かっていき、尊は八尺瓊勾玉の光を弓矢の形に変形させると、八作を援護するように、蛭子に向かった光の矢を撃った。光の矢は蛭子の身体を貫通して穴をあけ、蛭子の後ろ側に回り込んだ八作が後ろから槍で蛭子の顔を貫く。口を貫通した槍はバチバチと音を立てて稲妻を走らせ、稲妻が蛭子の身体を駆け巡る。


『ヒドイこトシナイで』


 蛭子がそう言った瞬間、蛭子の身体からあふれ出した顔たちがものすごい速度で槍を伝っていき、八作の目の前まで迫ると、大きく膨らんで八作を飲み込もうとした。


 八作は咄嗟に槍から手を離し、槍は雷が弾けるようにして消え失せ、蛭子は身を翻して八作の方を向くと、大きく口を開けた。


『逝コウ』


 蛭子の口が大きく裂け、口の中から大きな人間の手が二本飛び出し、八作がその手に挟み潰されると思ったその時、瞬間移動するように、突如として八作の前に現れた尊の八尺瓊勾玉が半透明な壁を作り出し、蛭子の手を防いだ。


 半透明な壁は蛭子の手の衝撃に耐えきれず、ビシッと音を立てて壁にヒビが入る。その時、遠くの方で無数の黒い柱が、座り込んでいる翼と沙乃を取り囲んでいるのが、八作と尊の目に飛び込んできた。


「八作真造」


「なんですか」


「いますぐあちらに向かい、二人の援護をしろ」


「ですが……ひとりでお相手するつもりですか?」


 半透明の壁は今にも音を立てて弾け飛びそうだ。二人の目の前では、大きく口を開けた蛭子が、今か今かと二人が手に潰されるのを待っている。


「もとより、そのつもりだ」


 尊は八作の方を振り返りもせずにそう言った。


「行け‼」


 尊の声と共に壁が弾け飛び、蛭子の手がバチンっと音を立てて二人を挟み潰す。蛭子が笑い声をあげながら手を開くと、潰れているはずの二人はいなかった。


「後ろだ」


 次の瞬間、尊は蛭子の真後ろで光の弓矢を構えていた。蛭子が振り返る間もなく、放たれた矢は蛭子の顔面を貫き、蛭子の悲鳴があたりに響く。


「共に地獄に堕ちようか」


 蛭子の顔面に開いた穴はみる間にふさがっていき、蛭子は自分を傷つけた尊に向かって咆哮を上げた。


    ◇


 黒い柱に取り囲まれた翼は、腕の中の沙乃を離さないように抱きしめながら絶望をあらわにしていた。柱に無数についた口たちは、口々に悲鳴や叫び声をあげ、明確な殺意を二人に向けている。肉塊の化け物に姿を変えた虎太郎は、柱に取り囲まれた二人を、焦点の合っていない目で、ただ見つめていた。


 次の瞬間、黒い柱たちがゆらりと靡くように動いたかと思うと、四方八方から一斉に沙乃と翼に襲い掛かった。二人の身体を貫く勢いで迫ってくる柱に、翼は沙乃を守ろうと強く抱きしめる。沙乃は諦めたようにうなだれたまま、動かない。


 翼が死を覚悟したその時、二人の頭上で雷の音が鳴り響いた。


貫雷かんらい 連撃れんげき


 二人の頭上に突如として現れた八作は、光のような速さで、黒い柱を、雷を纏う槍で薙ぎ払っていく。その様子を呆然と眺めていた翼の目の前に着地した八作は、化け物に成り果てた虎太郎を見て、微笑んだ。


「本当に、虎太郎には敵わない」


 虎太郎は八作を前にしてもなお、ぶつぶつとよくわからないことをつぶやき続けていた。あたりで八作に薙ぎ払われた黒い柱の欠片がはらはらと落ちていく。


「友よ。許してくれとは言わない。だからせめて、君と堕ちよう。君が身を沈めたその生き地獄に」


 虎太郎が咆哮をあげた瞬間、宙をまっていた黒い柱の欠片がふいに鋭い棘のように姿を変え、八作達に鋭い矛先を向けた。


 黒い棘が八作達を貫く寸前に、八作達がいた場所からその姿は消え失せ、翼と沙乃を軽々と担ぎ上げた八作は、虎太郎から少し離れた場所に立っており、担ぎ上げた二人を降ろして二人に向かって微笑んだ。


「翼さん。沙乃さんを守ってくださいね」


 翼が答える間も与えず、八作は瞬きにも満たない一瞬で虎太郎の目の前に躍り出ると、虎太郎に雷を纏った槍の矛先を向けた。


「君は、私の英雄だ」


 八作の槍が虎太郎を貫く。そう、思われたその時、八作は虎太郎が口を開けていることに気が付き、目を見開いた。


 大きく開かれた虎太郎の口の中には、人間の顔が浮かびあがっており、その顔が口を開いた瞬間、黒い閃光が放たれて、かろうじてかわそうとした八作の左肩の肉を抉った。


 八作がよろめき、後ろに飛び退く。虎太郎が変形し、肥大化した片腕を振り上げて地面に叩きつけると、地面がぼこぼこと波打ち、人間の顔の集合体が飛び退いた八作に向かっていった。


 八作は抉られた左肩を気にする間もなく、槍を振って雷を出現させると、迫ってきた顔の集合体を薙ぎ払う。だが、抉られた左肩に激しい痛みが走り、八作はその場で膝をついた。


「……なんだ……これは……」


 八作が抉られた左肩を見ると、左肩からは赤い血が流れる代わりに黒い液体が流れ落ちており、傷口からは人間の顔のようなものが黒い泡のようにあふれ出そうとしていた。顔が叫び声をあげるたび痛みが生じる。


「……虎太郎……」


 虎太郎は叫び声をあげ、身体から黒い体液を流しながら膝をついた八作に向かって走ってくる。八作の元にたどり着いた虎太郎は、大きな叫び声をあげながら、変形した片腕を振り上げ、八作を殴りつけた。八作はその拳を槍で受け止め、痛みに耐えながら虎太郎を見つめる。


「……っ……虎太郎……もう、終わりにしよう。私も共に逝くから」


 八作の槍が雷を纏い始める。バチバチと雷が弾ける音がして、槍を伝う雷が大きくなり、八作の両腕を巻き込みながら、虎太郎の身体を駆け巡り始めた。虎太郎が叫び声をあげ、槍から離れようとするが、その腕を八作が掴んだ。


 八作の腕には雷による火傷が痛々しく浮かび上がっており、皮膚がただれ、見るも無残な状態になっている。力を込めることすら難しい状態の両腕で、八作は右腕で槍を持ち、虎太郎の拳を防いで、左腕で虎太郎の腕を掴んで離さなかった。


避雷針ひらいしん


 八作がそう言った瞬間、虎太郎に大きな雷が降り注いだ。雷は虎太郎の身を焦がし、虎太郎の腕を掴んでいる八作諸共を焼き尽くす。虎太郎が悲鳴にも似た叫び声をあげ、口から煙を吐き出しながら、フラリとよろめいて八作から一歩離れた。


 その瞬間、虎太郎の目の前から八作が消え、八作は虎太郎の後ろ側に回り込んで大きく跳躍し、宙に浮いたまま、槍を構えていた。八作の身体には雷が伝い、その肌を焼いていく。雷に身を焼かれながら、八作は自分の唯一無二の友に矛先を向けた。


天災轟龍てんさいごうりゅう 神鳴かみなり


 八作が虎太郎に向けて槍を投げる。槍は雷で出来た大きな龍の形に姿を変え、雷に焦がされて動けなかった虎太郎に龍が食らいついた。


 龍に身体の半分を抉られた虎太郎は悲鳴のような叫び声をあげ、龍に抉られた部分からボコボコと人の顔が生み出されるが、上空から降り注いだ雷が虎太郎に落ちる。雷が降れば降るほど龍は大きく姿を変え、虎太郎の身体を散り散りにして、暴れ狂った。


 虎太郎の悲鳴は雷の音にかき消されていく。龍が咆哮をあげれば雷が落ち、虎太郎の身体はみる間に小さな破片になっていった。その様子を眺めながら八作は諦めたように微笑み、身体の力が抜けて、真っ逆さまに地上に落ちていく。


『トモに、逝コウ』


 聞こえた声に八作が目を見開き、「ああ……」と呟いた。


「やはり、敵わない」


 落下していく八作の着地点で、龍に散り散りにされたにも関わらず、一か所に集まり、液体のような姿に変わった虎太郎が、無数の小さな手を伸ばして待ち構えていた。


 自分の友を地獄に引きずり堕とすために。


 先ほどまで暴れ狂っていた龍はその勢いを失くし、雷の光は黒く染まって、龍の身体中に人の顔が浮かび上がっては叫び声をあげていた。龍は人の顔に埋め尽くされて次第に小さくなり、パチンと小さな音を立てて静かに弾け飛んだ。


「私は君に勝てないよ」


 落ちていく八作は瞳に涙を浮かべ、諦めの笑みを浮かべる。虎太郎は落ちてくる八作を今か今かと待ち構え、八作の名前を呼び続けていた。八作の身体が虎太郎に落ちる。


演舞えんぶ 黄龍おうりゅう


 八作が落ちる寸前、どこからか現れた黄金の鱗を持つ大きな龍が八作の身体を受け止め、虎太郎を薙ぎ払った。光り輝く龍は八作を背に乗せたまま空高く舞い上がると咆哮を上げ、一か所に集まって形を作ろうとしている虎太郎を、黄龍から放たれた光が蹴散らす。


「……諦めるな……」


 少し離れたところで沙乃を守っていた翼の手には、神器の扇が握られている。だが、その手は震えており、翼は大量の鼻血を流していた。


「守るって……決めたんだろ……‼」


 翼が大きくせき込み、口から大量の血が流れる。翼の血が、翼の腕に抱かれている沙乃の頬を汚した。


「だから……だから……‼」


 散り散りになった虎太郎の欠片が無数の手に姿を変えて黄龍に手を伸ばす。翼は血を大量に吐き出しながら、声の限り叫んだ。


「殺れっ‼ 黄龍‼」


 翼の声に答えるように黄龍が咆哮をあげ、黄龍の身体から眩い光が発せられる。その光は散り散りになった虎太郎を焼き尽くし、虎太郎が悲鳴を上げる隙も与えずに消し去った。


 八作は黄龍の背中の上で、変色し動かなくなった左腕の代わりに、火傷でただれた右腕で目を隠し、声を押し殺してただ涙を流した。


 黄龍の光によって消え去った虎太郎の姿に、翼が安堵したのか身体中の力が抜け、扇が翼の手から離れて消える。その瞬間黄龍の姿が消え、八作が落下した。


「八作さ———」


 翼が八作の名前を呼ぼうとして大きくせき込み、口から大量の血を吐き出す。落ちていく八作を助けなければ、と翼が立ち上がろうとした。


 その瞬間、翼の目の前に虎太郎の顔が現れた。


 翼が大きく目を見開く。光で消し去られたはずの虎太郎は、光を逃れた部分だけを集めて虎太郎の顔のみを作り上げ、翼の前に現れたのだ。首からボコボコと人間の顔が溢れ出す。虎太郎の両目は消えており、どろどろとした黒い液体が流れるだけだった。


 翼が青冷める。虎太郎の顔はゆっくりとした動作で口を開く。否、それはその瞬間だけ、時の流れが遅いように翼が錯覚しただけで、一瞬の間だったのかもしれない。

開かれた虎太郎の口の中には人の顔があり、顔が口を開いて、黒い閃光が翼の上半身を消し飛ばす。


 と、翼が覚悟した瞬間、翼の目の前で虎太郎の顔に、縦に線が入った。


万物両断ばんぶつりょうだん


 その声は、沙乃が行動を起こしてから一拍おいて翼の耳に届いた。


 沙乃の大剣は虎太郎の顔を縦に切断し、そのことに翼が気が付く前に、沙乃は目にも止まらぬ速さで落下していた八作を受け止めると、丁寧に地面に降ろした。


 切断された虎太郎の顔が、翼の目の前で悲鳴を上げる。だがその悲鳴は一瞬でやみ、虎太郎の顔はさらに横向きに切断された。虎太郎の真後ろに現れた沙乃によって。


 沙乃が大剣を振ったときに生じた風が翼の前髪を揺らす。沙乃の右目は白く光り輝いており、左目からは大粒の涙が流れていた。


 虎太郎の顔が地面に落ちる。顔は一瞬で地面に吸収され、地面の波打たせながら移動し、沙乃から距離をとった場所に現れた。だが、現れた虎太郎の顔は、半分が原形をとどめておらず、ドロドロに溶けていた。


 次の瞬間、沙乃はすでに虎太郎の目の前に迫っていた。大剣を振り上げ、最後の一太刀を最愛の師に浴びせようと、流れ落ちる涙を振り払って、手に力を込める。


『サノ』


 聞こえた声に、沙乃の動きが一瞬止まった。翼が沙乃の名前を呼ぶ声が聞こえてくる。


 沙乃が動きを止めたその一瞬の隙に、虎太郎が口を開く。沙乃は自分の身体が吹き飛ぶのを覚悟してなお、動きを止めずに虎太郎を真っ二つにしようと大剣を振った。


 沙乃の大剣が虎太郎を切断するよりも数秒早く、虎太郎の口から黒い閃光が放たれる。


 だが、その閃光は虎太郎の顔の横から飛び出した二本の腕に、虎太郎の口がふさがれたことによって、沙乃に届くことはなかった。


 沙乃が虎太郎の行動に驚き、目を見開く。


『サノ』


 聞こえた声は、幼いころから自分の名前を何度も呼んでくれた、懐かしい声だった。沙乃が泣きそうな表情を浮かべ、それでも動きを止めず、大剣を振った。


万物両断ばんぶつりょうだん


 沙乃の大剣は虎太郎を真っ二つに切断し、虎太郎の身体が崩れ落ちた。切断された虎太郎の身体は風に乗って空高くへと舞い上がる。沙乃は呆然とその様子を眺め、大剣から手を離し、大剣が消えた。


『アリガトウ』


 聞こえた声に沙乃が目を見開き、大粒の涙を零す。自分がしたことを理解し、震える自分の手を見つめた。


「ごめんなさい……ごめんなさい……‼ ごめんなさい……‼」


 震える手で顔を覆い、その場に座り込む。「ごめんなさい」と何度も口にしながら泣きじゃくる沙乃のもとに、足を引きずりながら翼が近づき、なにも言わずに沙乃を後ろから抱きしめた。沙乃はついに声をあげて泣き出し、翼に縋り付きながら泣きじゃくった。


 その声は虚しくあたりに響き渡り、もう戻らない者に向けられて、悲しくこだまする。


 まだ空の闇は晴れない。蛭子の声が響き渡る。

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