二十三刻 最愛の人
うちの世界を変えてくれたのは、たった一人の男やった。泣いてばかりいたうちを連れ出し、新しい世界を見せてくれた。
見上げるしかなかった大きな身体も、力任せに頭を撫でてくる硬い手も、豪快な笑い声も、そのすべてが大好きやった。師としてではなく、親としてでもなく、一人の男として。
叶わない恋だとわかっていた。それでもいいと思っていた。ただ、そばにいられればそれでいいと。師としてでも、父としてでもいいから、ずっと一緒にいたかった。
その願いすら、叶わない。
ただ愛していた。大好きやった、誰よりも。うちのすべては、神崎虎太郎という一人の男やったから。
うちは宝刀本家の神子の一家に生まれた、落ちこぼれやった。泣き虫で、怖がり。いつも、誰かの影に隠れて生きていて、後ろ指を指されて泣いていた。神子としての力も弱い、守り神も強い力を持っていない。実力主義の宝刀において、弱いということは罪やった。
とくに、宝刀本家の神子のなかでも、それなりの地位についていた両親の子供として、弱いことは大罪やった。
「臆病者」「出来損ない」「落ちこぼれ」「お前なんて産まなければよかった」
どんなに頑張っても、認められることはなく、強くなることもなく、ずっとずっと落ちこぼれのまま。泣けば泣き虫と罵られ、頑張ってももっと頑張らなくてどうすると叱られる。努力したって自分は存在する意味のない者なのだと、息を潜めて生きていた。いつも、ここから消えてしまえることを願って。
ある日、突然うちの前に現れた大男は、無理やりに近い形でうちのことを引っ張り出した。
「そんなとこに隠れとらんと、こっちきんしゃい」
宝刀本家の会合にいく両親についていったときのこと。落ちこぼれのお前は人様の前に出るんじゃないと言われ、小部屋に閉じ込められたうちは、一人で部屋の薄暗さに怯えながら、両親が戻ってくるか、自分という存在がこのまま消えてしまうのを待っていた。
伏間が開き、両親が戻ってきたものだと思ったうちは、部屋に飛び込んできた明るい光に駆け寄ろうとして、そこに立っているのが両親ではなく、見上げるほどの大男であることに気が付き足を止めた。そして、両親の言葉を思い出し、慌てて部屋の影に隠れた。
「なんでこんなとこにおるんかは知らんけど、怖がらんでええよ」
優しく声をかけながら、腰をかがめ、手を差し出してくる大男の姿を見て、うちはその大きな手に、自分の小さな手を伸ばした。
きっと誰かに助けてほしかった。手を差し伸べてほしかった。誰かに、お前は存在していいんだよって言ってもらいたかった。
大男はうちの手を取ると、いとも簡単に抱き上げて顔を近づけてきた。無精ひげの生えた堀の深い顔。だらしなく着崩れた着物からは胸元が覗き、太く大きな腕はうちの身体を支えるには十分やった。
「親とはぐれたか? 連れて行ったるさかい、名前教え」
「……沙乃」
「沙乃? よしよし、ええ子や」
豪快にうちの頭を撫でる大きな手は温かくて、先ほどまでうちの中にあった恐怖は消え失せた。
大男はうちを抱き上げたまま廊下を進んで行き、その間、ずっとうちに優しく話しかけてきた。うちはただその話を聞いていただけやったけれど。
大広間らしき場所にたどり着くと、部屋にいた大勢の大人たちの視線は、一斉にうちと大男に集まった。大男は自分に集まった視線を気にも留めず、うちの両親を探すようにきょろきょろと部屋の中を見回していた。すると、うちの両親が慌てた様子で駆け寄ってきた。
「おお、不知火とこの子やったか」
大男は両親に笑いかけたが、両親は真っ青になっていた。
「自分家の子供、ほっといたらあかんよ」
「申し訳ありません……宝刀当主の神崎虎太郎様にご迷惑をかけるなんて……」
「わしは別にええんよ。沙乃が可哀想やろ」
宝刀当主、神崎虎太郎は、小さな子供のような笑顔を浮かべて「な?」とうちに笑いかけて来た。
それからうちは両親になんて言われても虎太郎から離れようとせず、泣きじゃくって虎太郎にしがみついた。両親は困り果て、困惑を通り越して怒っていたと思う。家に帰ってから酷く叱られることを理解しながら、それでも虎太郎と一緒にいたいと泣いた。これまで、わがままなんて言ったことはなかったのに、強情にうちは泣き叫んだ。
虎太郎が「困ったなあ」と言いながらも、どこか嬉しそうな笑顔を浮かべていたのを覚えている。
家に帰ったあと、両親に酷く叱られ、もう二度と本家には連れて行かないと言われて、うちはまた泣いた。
虎太郎に会いたかった。両親はこれまで以上に厳しい修行をうちに課したが、そんなものに落ちこぼれが付いていけるわけもなく、毎日のように怪我をしては、泣きじゃくっていたように思う。
地獄のような日々やった。だけど、虎太郎はまた、その地獄からうちを救い出してくれたんや。
その日、虎太郎は本家の神子である両親と、なにかしらの話し合いに来ていたのだと思う。両親はうちには何も言わず、ただ自室で大人しくしていろと部屋に鍵をかけてしまった。
うちはなにも知らされていなかったから、大人しく自室にいたが、トイレに行きたくなって部屋の窓から外に出て、廊下を歩いていた。両親にバレれば怒られることが分かっていたから、足音を立てないように忍び足で廊下を進み、用を足して両親にバレないうちに戻ろうとしていた時、偶然、廊下を歩いていた虎太郎とぶつかった。
「おお! 久しぶりやなあ。元気にしとったか?」
虎太郎は初めて会った時と同じような、子供のような笑顔でうちに笑いかけて来た。
運命やと思った。
この人はうちをここから連れ出してくれる。この人しか、うちを助けてくれる人はいない。この人なら、うちにここにいていいのだと、存在を認めてくれる。
気が付けば、うちは虎太郎に抱き着いて、泣きじゃくりながら「助けて」と叫んでいた。
「ここから、うちを連れ出して」
誰にも言えなかった心からの叫び。消えてしまえるなら消えてしまいたい。落ちこぼれだと、役立たずだと罵られるぐらいなら、空気のように透けて、消えてしまいたい。でも、誰かに認めて欲しい。消えなくていいんだと、頭を撫でて欲しかった。
虎太郎は最初、泣きじゃくるうちに驚いて、どうしたらいいかわからないようやった。でも、泣き叫ぶうちを見て、しゃがみこんでうちと目線を合わせると、うちの頭をぽんぽんと軽く叩いた。
「ええよ。沙乃を、ここから連れ出したる」
力強いその声に安心して、幼かったうちは、その後のことなんてなにも考えていなかった。
虎太郎がどうやってうちを両親から引き剥がしたのかはわかない。虎太郎が無理やり両親を説得したのか、それとも、はなから両親は落ちこぼれの出来損ないの娘など、お荷物としか考えていなかったのか。虎太郎は宣言通りにうちを連れ出し、気が付けば、うちは虎太郎の弟子ということになっていた。
「お前は今日からわしの家族やさかい、胸を張って生きてええんよ」
虎太郎が優しい声でそう言った時、それまで呆然と自分の居場所が変わっていくのを眺めていたうちは、唐突に地獄のような日々から救われたのだと理解して、これまでこらえていたものがすべてはち切れるように、虎太郎に縋り付いて泣いた。
うちは虎太郎の前でどれくらい涙を流したのだろう。だけど、その涙はいつだって、枯れてしまうのが惜しいと思う涙だった。
虎太郎の弟子になり、神子の修行を続ける毎日は変わらなかったが、その修行はまったく苦ではなかった。うちがなにかを成し遂げるたび、虎太郎は大げさなほどにうちを褒めた。失敗するときは失敗する理由をうちに考えさせ、出来るようになるまで厳しく、優しく、ずっとうちのことを見てくれていた。
虎太郎に褒められるのが嬉しくて、失敗して虎太郎を悲しませるのが悔しくて、落ちこぼれのうちは必至で強くなろうとした。うちを引き取ってくれた虎太郎が、お前の弟子は落ちこぼれだと笑われないように、虎太郎のために精一杯頑張って、うちは徐々に落ちこぼれではなくなっていった。
強くなって、人から頼られるようになり、周囲からの目線が憧れに変わり、宝刀当主、神崎虎太郎の後継ぎは不知火沙乃だと言われるようになった。それでも、一度だって虎太郎に勝てたことはなかったけれど。
ある日、虎太郎が連れて来た男の子は、まるで生気の感じない、死んでいると言われても信じて疑わないような瞳をしていた。
山奥の小さな小屋の中で母親と呼ぶ者に繋がれていたところを虎太郎が保護したというその男の子に、虎太郎は衣織と名付け、息子にした。
「ええか、沙乃。衣織はおまえの弟みたいなもんや。仲良くするんよ」
うちはあくまでも弟子であったのに、衣織は神崎の名を名乗ることが出来る息子という立ち位置に置かれた。それはおそらく、親のいない衣織を思って虎太郎がしたことなのだろう。
衣織は共に暮らしていく中で、普通の人間とまったく変わらずに成長した。虎太郎という親の存在が、衣織をそうさせた。
衣織は可愛い弟だ。虎太郎の豪快な強さとはまた違う、繊細で優しい強さを持った自慢の弟。衣織の姿を見て、もし、自分が虎太郎の娘だったらと考えることは多々あった。だけど、虎太郎の娘である自分の姿は想像できなかった。うちが虎太郎に抱いた感情は、親子の愛ではないのだと、ある日、唐突に理解した。
虎太郎のことを、一人の男として愛している。
だから、親子という立場ではなく、あくまで師と弟子という立場に安堵していたのだ。優しい瞳と、大きな手。豪快な笑い声と、力強くうちを真っすぐに見つめてくれるその視線。そのすべてに、敬愛ではない愛情を覚えた。
叶わないことは理解していた。虎太郎にとってうちは可愛い弟子であり、可愛い娘のような存在で、それ以上でもそれ以下でもない。虎太郎がうちのことを女として見ることはなく、たとえそうなっても、今のこの関係が崩壊することは目に見えていた。うちはただ、虎太郎のそばにいられればそれでよかったし、虎太郎が笑ってくれるならそれでよかった。
それなのに、あの日、うちは虎太郎を追いかけることが出来なかった。
四年前の大災厄の日、虎太郎はうちと衣織に足手まといだと言い放ち、追いかける隙すら与えずに、行ってしまった。そして、二度と帰ってくることはなかった。
あの時、うちが虎太郎のことを追いかけることが出来たなら、虎太郎は帰ってきてくれただろうか。何も言わずに、うちらの前から消えることはなかっただろうか。
虎太郎が消えたその日からずっと、虎太郎が戻ってきてくれると信じていた。探し続ければ、きっと見つけることが出来ると。そのうち、ひょっこりとうちらの前に現れて、すまん、すまんとか言いながら、うちの頭をその大きな手で豪快に撫でてくれると、そう、信じるしかなかった。虎太郎がもういないなんて信じられなかった。
だって、うちのすべては虎太郎だった。虎太郎がうちを連れ出してくれた時から、うちの神様は虎太郎やったんや。理由も知らないまま、虎太郎がもう戻ってこないことを受け入れるなんて、酷すぎる。
その真実がこんなに残酷やったなんて思わなかった。
◇
「嘘や……嘘や……そんな……だって……」
沙乃がおぼつかない足取りをしながら口を押える。その顔は真っ青で、今にも倒れそうだ。
「嘘などではない。大災厄を巻き起こした禍ツ神を、なんの犠牲も無しに封印できると本気で思っていたのかい? 封印するには神子柱を行う以外になかった。神子一人の命と守神を犠牲に行う禁術を。本来なら、月光当主である陰魅尊が神子柱になるべきであったのに、あろうことか神子柱になったのは、宝刀当主、神崎虎太郎だったのだ」
「……やめて……」
「神崎虎太郎は、いまもこの村の地下で、封印を破ろうと暴れ狂う蛭子様に蝕まれ続けているのさ。逃れることも、死ぬこともできず、それこそ生き地獄だろうよ」
「やめてっ‼」
沙乃が甲高い声を上げ、頭を抱えてうずくまった。肩を震わせ、頭を振る。
「信じへん。そんなん信じへん‼ 虎太郎が死んだなんてそんな……! だって、うちは……!」
沙乃の瞳から大粒の涙がこぼれる。
「信じて……たのに……」
沙乃の瞳からふっと光が消え、腕を力なく垂らしたままうなだれる。卑弥呼はそんな沙乃の様子に憐れみの籠ったような目を向けた。
「おまえも可哀想だな。なにも知らされず、ただ、愛しい人を待ち続けた。だが、それも今日で終わる」
卑弥呼が両手を広げた瞬間、卑弥呼の後ろから聞こえた叫び声に沙乃がゆっくりと顔を上げた。
卑弥呼の後ろから現れたのは、大きく肥大化したミーちゃんだった。肉塊が集まったような禍々しい色をした身体中に赤い札が貼られ、大きなトカゲにも似た百足のような姿をしたミーちゃんは、その身体から無数の突起と赤子のような短い手を飛び出させ、血走った大きな目玉をギョロギョロと動かしながら唸り声をあげている。身体を激しく捻り、なにかから逃れようとしているのか暴れまわっているが、ミーちゃんは身動きが取れない状態のようだった。
「封印時に逃れていた蛭子様の一部も発見し、保護した。あんな小娘に縛り付けられ、なんてお可哀想に。見つけるのにえらく時間がかかってしまったが、これですべての我同胞を救うことが出来る」
ミーちゃんが大きな叫び声をあげる。卑弥呼は唇の両端を吊り上げ、声高らかに笑った。
「さあ‼ いまここに祝杯を上げよう‼ 我らの再会に‼ 苦しみからの解放に‼」
その瞬間、大きな咆哮と共に村の中のすべて色彩が奪われ、世界が白黒に包まれる。
卑弥呼の真後ろに大きな穴が開いたかと思うと、その穴から黒い煙のようなものが飛び出した。黒い煙には、人の顔のようなものが無数に浮かび上がり、それぞれが苦しげな叫び声をあげている。村を取り囲むように村の四方に同じような穴が開き、そこから飛び出した黒い煙のようなものは、焼け落ちた万年桜があった丘の上に集まっていった。
「さあ‼ さあ‼ さあ‼ 懐かしい顔を見せておくれ‼」
卑弥呼は不気味な笑い声を響かせながら一歩ずつ後ろに下がると、背中から穴に飛び込んだ。卑弥呼は黒い煙のようなものに巻き込まれ、宙に浮かんだかと思うと、村の中央の、煙のようなものが集まっている場所へと連れていかれる。
卑弥呼が連れていかれた瞬間、身動きを封じられていたミーちゃんが、身体中に貼られた赤い札を振り落とし、大きな唸り声をあげると沙乃に向かって襲い掛かってきた。沙乃はそれに気が付きながらも何もせず、ただその場に座り込んでいた。
「沙乃‼」
聞こえた声に沙乃が顔を上げる。その瞬間、ミーちゃんの牙が沙乃を貫こうとしたが、沙乃のもとに駆け寄ってきた翼が沙乃を抱き上げ、ミーちゃんの攻撃を避けると、二人とも地面に転がっていった。沙乃に覆いかぶさるような形になった翼が声を荒げる。
「おまえなにやってんだ‼」
「……」
沙乃は放心した様子で翼を見つめる。翼が沙乃の瞳から流れる涙に気が付き、はっとした。沙乃の瞳は翼の姿を映しておらず、微笑を浮かべていた。
「なにがあった……?」
「なあ、翼。嘘やんね? あんなん、全部、あいつの嘘やんなあ?」
「なにが……」
「虎太郎が神子柱なんて、そんなん、嘘やんね?」
沙乃の言葉に翼が目を見開く。翼の表情に沙乃の微笑が消えた。
「……ごめん」
翼のその言葉はすべてを物語っており、沙乃はもうなにも言わなかった。翼は沙乃を抱き起すと、沙乃を強く抱きしめ、もう一度「ごめん」と言った。
その瞬間、沙乃は何かがはち切れたように翼に縋り付きながら声を上げて泣いた。翼は何も言わず、ただ沙乃を抱きしめた。
「……嘘や……嘘……嘘って言ってよぉ……‼」
絞り出すような沙乃の声に翼が苦しげな表情を浮かべる。
「……ずっと、大好きやったんよ……?」
沙乃の言葉に翼が酷く傷ついた顔をして目を閉ざすと、泣きじゃくる沙乃の頭をなでようとしてその手を降ろし、沙乃の身体を強く抱きしめた。二人の後ろからはミーちゃんが迫ってきている。
「
二人の身体が影に呑まれたかと思うと、次の瞬間、二人は村の中央付近にいた。
翼が目を開けると、すぐそばに衣織と美雨、気を失った将を抱えた花蓮が立っていて、目の前で尊と八作が、全員を守るように背を向けて立っていた。
尊は何も言わない。ただ二人に背を向けて、焼け落ちた万年桜の頭上に集まってきている黒い煙を睨みつけている。
集まってきた煙は徐々に大きくなり、形を作り上げていた。人々の叫び声が不協和音を作り出し、不気味な音が耳をつんざく。煙の塊はゆらりと動いたかと思うと、まるで何かから逃れるように激しく暴れまわりながら、目にもとまらぬ速さで村中を駆け巡り、また中央に戻ってくると、その姿はあまりにも禍々しい姿に変わっていた。
大きな龍のような姿をしたそれは、人間の手が重なり合うように構成されており、手の間から無数の歪んだ人間の顔が覗いている。身体から生えた手足は人間の手足そのものであり、頭から細い龍の角が伸び、白い髪が揺れていた。そして、その目を閉ざしたその顔は、神木村の村長、卑弥呼の顔だった。
それが、蠱毒によって奪われ、穢された、村人たちの集合体である、蛭子という名の、神にも成れぬ化け物だった。
蛭子がゆっくりと目を開ける。開かれた左目には、無数の目玉が詰まっていた。
『あア、コレでようク、ワタシもイっショにナレる』
濁った瞳から血のような黒い液体を雨のように流し、蛭子はその身をよじりながら、口を大きく開けて何かを吐き出した。吐き出された黒い塊は焼け落ちた万年桜の上に落ち、丸焦げの幹を崩して丘の上に落ちた。
『トモに、逝コウ』
蛭子が大きな咆哮を上げる。その声は空気を震わせ、あたりの土さえも巻き上げ、その場にいた全員の耳をつんざく、悲痛で不気味な、泣き声にも近いものだった。
「
尊の声が聞こえるとともに、尊が手にした八尺瓊勾玉が光り輝き、その光は空高くへと昇っていくと、上空で弾けて村を覆う結界となった。結界を張った尊の両目は青く光り輝いており、上空で揺らめいている蛭子を睨みつける。
『自由ヲもトメるコトもユルサれヌ』
蛭子が大きく口を開ける。蛭子の口の中には、祈るように組まれた二本の腕があり、その手は蛭子の口の中でゆっくりと動いて形を変え、人差し指と親指で三角形を作ると、口の奥にあった人間の顔が、指で作られた三角形にふうと息を吹き込んだ。
その瞬間、吹き込まれた息は突如黒い突風に変わり、突風は人々に襲い掛かるように荒れ狂った。人々はなんとか突風を避けたが、突風が通っていった地面に大量の人間の顔が出現し、助けを求めるように蠢く無数の腕が生えてきた。
突風はその勢いを弱めず村の中を駆けずり回ると、村を覆った結界に突っ込んでいき、その衝撃で結界に黒い亀裂が入った。亀裂は広がり、次第に結界に無数の人間の顔のような模様が浮かび上がって、口々に耳を劈くような叫び声をあげた。その声によって結界の亀裂はさらに広がっていく。
「……やはり、無理か」
尊が悔しげに呟き、その場にいる人々の方を見たが、尊以外の全員の目線は結界と蛭子ではなく、村中央の万年桜があった丘に向けられていた。
丘の上に蛭子が吐き出した黒い塊は、万年桜を消し去った後、蠢きながら形を変えて、丘の上に人間が一人立っているように見える。風に煽られ、ゆらりゆらりとおぼつかない足取りをしているそれを見て、その場にいる全員は声も出せずにただその姿を見つめていた。
「……虎太……郎……」
衣織が呟いた声はあまりにも掠れていて風にかき消されそうだったが、その声は鮮明に全員に届いた。丘の上に立っている人間のような姿をしたそれは、確かに宝刀前当主神崎虎太郎に見える。
だが、その姿が正常ではないことは誰が見ても明確だった。
背丈、体格は、懐かしい神崎虎太郎の姿と変わりない。遠くから見れば、おそらく誰もが神崎虎太郎だと疑うことはないだろう。だが、まるでもう要らぬものだと言うように丘の上に吐き出された神崎虎太郎の顔は、歪んでいた。
輪郭も明確ではない。目の焦点は合っておらず、口は半開きでよくわからない液体が流れている。救いを求めるように伸ばされた手に力は入っておらず、身体が揺れるたびにぶらぶらと揺れる。
それが神子柱として贄に捧げられた、神子の末路。
皆、動くことが出来ない。上空で蛭子が愚かな人間たちを嘲笑うかのように揺らめいている。
「……噓……や……」
沙乃が信じられないというように呟いて、小さく首を横に振りながら、虎太郎に向かって一歩踏み出した。愛してやまなかった者が、自分の名を呼んでくれることを信じて。
『サ ノ』
その声はもはや虎太郎の声の面影もない、歪んだ、残酷なものだった。
「うわあああああっ‼」
沙乃がその場で泣き崩れ、衣織がその身体を抱きとめる。衣織に縋り付きながら虎太郎の名前を呼び続ける沙乃に、衣織が涙を流しながら首を横に振った。
「ダメです……‼ ダメ……です……‼ 僕たちはもう、受け入れなきゃならない……! もう、虎太郎はいない‼」
沙乃はただ泣き続ける。衣織は唇を強くかんで、沙乃の背中を抱きしめた。
「僕たちは……あっちに行っちゃいけない……‼」
その時、結界の亀裂が広がり結界が破けるような音を立てた。そして、それを合図とするように地面に出現した人間の顔のようなものが一斉に叫び声をあげ、地面から生えた腕が人々に襲い掛かった。地面の中に引きずり込もうと、人々の足を掴んで離さない。
「
「
八作の槍の雷と、尊が操る影が腕を蹴散らした。二人は丘の上にいる虎太郎を見つめ、険しい顔をしながらもなにも言葉を発さなかった。
その時、蛭子が大きな声をあげてゲラゲラと笑い出した。蛭子が笑い声をあげるたびに口から元は人だったと思われる塊が飛び出して、地面に叩きつけられる。地面に叩きつけられたそれらは不完全に人間の姿になろうとして、ただの肉塊に成り果て、村の中を蠢き始めた。それらに敵意があることは明確であり、近づいてはいけないことは一目瞭然だった
「……神崎衣織。宝刀当主と時輪美雨を連れて、安全な場所へ避難しなさい」
尊が衣織にそう言い放ち、衣織が顔をあげた。
「安全な場所なんてどこにあるんですか?」
「……私は君たちだけは殺させない。殺してはならない。許されずとも、罪滅ぼしになるわけがないとしても、君たちを死なせるわけにはいかんのだ。それが、私が背負うと決めた、業なのだから」
「僕も戦わないといけないんです。そうでないと、受け入れられない」
衣織が沙乃から離れて立ち上がり、涙の浮かんだ左目をこすると、金色の瞳を隠していたカラーコンタクトが外れて落ちた。衣織は泣き笑いのような複雑な表情を浮かべて、尊に言った。
「虎太郎がもういないのだと」
先ほどまで声をあげて泣いていた沙乃は地面に膝をついたまま、虚ろ目をしてただ涙を流していた。
「……いお……」
それまでずっと黙っていた美雨が衣織になにかを言おうとした瞬間、何かが目にもとまらぬ速さで迫ってきたかと思うと、美雨を攫って行き、突風が人々の髪を巻き上げた。
美雨の悲鳴が一瞬で遠くなり、衣織が美雨の姿を目で追いかけると、肥大化したミーちゃんが、美雨を攫って行くのが見えた。
「美雨ちゃん‼」
「美雨‼」
八作と衣織が叫んだが、美雨を連れてミーちゃんは村の中央から離れていき、衣織はそれを追いかけて駆け出した。
そして、ミーちゃんが美雨を攫ったのを合図にするように、上空で揺らめいていた蛭子がふいに姿を消し、次の瞬間、虎太郎を見ていた人々の背後に回り込んでいた。不気味な女の顔が、将を抱えていた花蓮の真後ろに現れる。
『トモにニニニにニニニニに、逝コウ』
蛭子が大きく口を開け、口の中から無数の人間の腕と顔が飛び出して、すぐそばにいた花蓮の身体を掴む。花蓮が「ひっ」と小さく悲鳴をあげ、将を守ろうとかばった。
腕は花蓮を引きずり込もうとしたが、八作と尊が素早く動き、尊の八尺瓊勾玉の光が腕を切断して、八作の槍が蛭子の身体を貫いた。
しかし、蛭子は不気味な笑い声をあげたまま、大きな身体をよじらせると、八作と尊を身体で吹き飛ばした。吹き飛ばされた二人は空中で体勢を整えると、地面に着地する。
その時、それまで動かなかった虎太郎がふらりと動き、沙乃がゆっくりと顔をあげた。
『サァノ』
虎太郎が静かに手を差し出してくる。その姿を呆然と眺めて沙乃が手を伸ばそうとした時、その手を翼が掴んで沙乃を抱き寄せた。
「連れて行かせない。沙乃は、そっちに行かせない。たとえ、手招きするのがあなたであっても」
翼が虎太郎を睨みつける。涙を流し続ける沙乃の目を片手で覆い隠すと、沙乃の耳元で囁いた。
「許してくれなくていいから」
翼は沙乃の目を隠したまま扇を構え、虎太郎に向かって振り下ろした。
「
扇から発せられた風と共に幻獣青龍が現れ、虎太郎に襲い掛かった。
「だめっ!」
青龍が虎太郎に向かっていった途端、沙乃が翼の手を振り払い、青龍をとめるように手を伸ばした。だが、青龍に牙を向かれた虎太郎は微動だにせず、青龍はまっすぐ虎太郎に向かっていって、虎太郎の上半身を食いちぎった。沙乃が息を呑む。
「……いや……」
虎太郎の下半身は上半身を失ったにもかかわらず直立している。辺りに飛び散った黒い液体は血の臭いではなく、生臭い腐敗臭のような異臭をあたりに漂わせた。
「虎太郎……!」
「いくな」
虎太郎に駆け寄ろうとした沙乃をとめ、翼は身体の半分を失ってもなお直立したまま動ない虎太郎の身体に眉をひそめた。
その時、虎太郎の上半身を食いちぎった青龍の様子がおかしくなった。ブクブクと黒い泡を吹き、白目を向いた青龍の身体は、中でなにかが激しく蠢いているように波打ち、その動きは次第に激しくなって、ついに青龍の身体は内側から弾け飛んだ。
「……嘘だろ」
翼が信じられないというようにつぶやいた。弾け飛んだ青龍の身体はドシャリと音を立てて地面に落ちる。弾け飛んだ青龍の身体からブクブクと黒い泡が溢れ、その泡は徐々に姿を変えていき、次々と人間の顔のようなものが浮かび上がってくる。
翼がはっとして虎太郎の方を見る。上半身を食いちぎられた虎太郎の身体も青龍の身体と同様に黒い泡のようなものが溢れ、それは無数の人間の顔のようなものに変わり、膨れ上がって黒い肉塊になった。肉塊の中央には酷く歪んだ虎太郎の顔が浮かび上がり、変形した片腕のようなものが生えてくる。
『イタイ』『タスケテ』『ダレカ』『ママ』『ドウシテ』『クルシイ』『ナニヲシタノ』『カナシイ』『モウイヤダ』『ツライ』『イオリ』『サノ』『コロシテ』
顔たちは口々に叫び声をあげる。翼の腕の中でうなだれていた沙乃が自分の名前を呼ばれ、ピクリと反応する。沙乃はもはや虎太郎の姿を見ることが出来ないようだった。
虎太郎は変形し、膨れ上がった片腕を地面に向かって振り下ろし、腕が地面に突き刺さると、地面から黒い柱のようなものが次々と出現した。黒い柱は肉塊で出来ており、無数の口が付いていて、口々に叫び声をあげる。
その光景を見て、翼はもう一度「うそだろ……」と呟いた。
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