二十二刻 復讐の業火

 俺の世界のすべては母さんだった。


 村のはずれにある小さな小屋の中で、厳しくも優しく俺を育ててくれた母さんは、たとえ世界のすべてを敵にしてでも、俺を守りたかったのだろう。愛した男との間に生まれた、愛おしくて仕方ない子供を守るためなら、自分が犠牲になることにためらいなどなかった。すぐにバレるであろう嘘をつき続けてでも、俺に生きてほしかったのだ。


 村の人々を恨もうとは思わない。誰も悪くないのだから。悪いのは、村を支配していた悪しき者。人の命を贄として求め、拒めば村どころかこの世界を祟りかねない、絶対的な力と悪意を持った邪神。


 俺が生まれた神木村は、万年桜の洞穴に住まう、邪神伊邪那美に支配されていた。


 万年桜という、春でなくても咲き誇る桜の大木がそびえ立つ小高い丘の麓には、現世でもっとも黄泉に近いとされる、邪神、伊邪那美の神域がある。


 そして、万年桜の周辺にできた神木村は、代々、伊邪那美を抑えつける任を課された村だった。


 御三家の月光の監視下に置かれ、伊邪那美が癇癪を起すたび、村の娘を一人差し出し、伊邪那美をなだめる。伊邪那美が癇癪を起す頻度は定まっておらず、数年に一度のこともあれば、年に数回起こることもあり、神木村の人口は減少の一途をたどった。


 そのため、神木村の人々は贄とする家を定めることにした。村で罪を犯した罪人の一家を贄の家に定め、その家は代々、伊邪那美が癇癪を起すたび、娘を差し出さねばならなかった。


 そして、俺と母さんはその罪人の血筋の家に生まれたのだ。


 俺が生まれたころには、贄と定められた家も減り、もはや俺と母さんの家しか残っていない状況だった。伊邪那美はことあるごとに癇癪を起すのだ。父親は罪人の家の決まり通りに、村の外にある山奥の炭坑で労働をしていたが、俺が生まれる前に事故に巻き込まれて死んだらしかった。


 俺が生まれる年に、伊邪那美が癇癪を起し、贄の家が減ったことで、村の者たちは誰を贄にするか決めあぐねていたらしい。母さんを贄にしてしまうと、まだ幼い俺を誰が育てるのかという問題と、罪人の家の血が途切れかねないという問題が発生してしまう。それを回避するためには、生まれてくる俺を贄にするほかなかったが、俺が女でないと贄にはできない。村の者たちは俺が女であることを願い、その願い通り、俺は女だった。


 だが、俺は贄にされなかった。母さんが俺の性別を、男だと偽ったからだ。


 村の者たちは仕方なく、その年は罪人の家以外の家の娘を差し出したらしい。母さんの嘘は賭けだった。赤ん坊が取り上げられ、詳しく調べられれば俺が女であることはバレていただろう。だが、村の者たちは母さんの言葉を信じた。これまで、罪人の家の者が抵抗を示すことなどなく、そして、村の者たち自身が生まれて間もない赤ん坊を贄にすることに罪悪感を覚えていたからだったのだろう。


 母さんは俺の代わりに自分が贄になろうと思っていたのかもしれない。だが、村人たちは母さんを贄として差し出した後、俺を育てることができないと判断したのだ。

死ななかった母さんは、俺を殺さないために嘘をつき続けた。いずれ、俺が成長すれば女であることがバレるだろう。それでも、いつかは限界がくる嘘をつき、自分が生きている限り、俺が死なないようにした。


「瑠花は男の子なのだから、そんなことで泣いてはいけません」


 俺を男として育て続け、俺が泣くたびに「男の子なのだから」と言った。男の子なのだから、家の外で遊びなさい。男の子なのだから、少しぐらいの怪我で泣くんじゃありません。男の子なのだから、我慢しなさい。


 幾度となく繰り返された言葉に、俺はなんの疑いも抱かなかった。自分が男なのだと信じて疑わなかった。村の子供たちを遠めに見ながら、ほんの少しの違和感を覚えつつ、それでも母さんが言うのだからと、疑問に思うこともやめた。


 なぜなら、俺が生まれる前に父親は死に、村の者たちは俺たち親子とは距離を置いていて、俺の近くには男という存在がいなかったからだ。


 村の者たちは、罪人の家の者たちを差別することはなかった。ただ、憐れみと同情のこもった目線で、遠くから見つめてくるだけ。差別して罵るには、贄の家に生まれた者たちはあまりにも可哀想で、長年、贄になるためだけに生まれてくる者たちを差し出すことに、罪悪感すら覚えていたからだろう。伊邪那美に支配された村の中では、誰かを罵り、いがみ合うだけの気力もなかったのだ。


 同じ歳ぐらいの友達はいなかった。子供たちですら、俺のことを遠巻きから眺め、可哀想な子だというように、同情の入り混じった視線を向けて来たのだから。村の者が俺たち家族に近づいてくることはなかったため、数年が経っても、俺が女であるということはバレなかった。


 母さんと幸せな日々を過ごした。母さんに守られていることも知らずに、厳しくも優しい母さんが俺のすべてだった。泣くのを我慢したときに、母さんが「偉いね」と優しく頭を撫でてくれるのが嬉しかった。


 ただ、村の中央に鎮座する、いつ何時であっても満開の花を咲かせた万年桜を見るたびに、母さんが表情を曇らせることを不思議に思いながら、優しい母さんといつまでも一緒に入れると信じて疑わなかった。


 十一年前。邪術師たちによる大反乱が起こった。元御三家の神子であった邪術師たちは御三家を壊滅させようと一斉に攻め入り、闇雲に邪術を用いて伊邪那美の力を使った。


 伊邪那美は機嫌を損ね、癇癪を起した。これまでに類を見ないほどの伊邪那美の怒りは、贄を一人出したぐらいでは収まらず、贄の家の者である母さんだけでなく、村の者でさえ贄にならなければならなかった。部外者の尻ぬぐいは、すべて、神木村に負わされたのだ。


 母さんは贄になる。男として育てられた俺は免除されたが、母さんはわかっていたのだろう。自分が死ねば、これまでつき続けてきた嘘がバレる。そうなれば、俺も贄にされる。つき続けた嘘も、心を鬼にして俺の性別を偽って育てたのも、すべて水の泡になる。


 母さんは嘘をついたその日から、覚悟していたのだろう。それでも、母さんの口から飛び出した言葉は、最後まで俺を守るためのものだった。


「逃げなさいっ‼」


 贄として差し出される前日の夜、母さんは縋り付くように俺に言った。


「どこか遠くへ‼ ここではない場所へ‼ あなただけでも‼ お願い……‼」


 目に涙を浮かべながら、必死の形相で俺に訴えかけてきた母さんに、俺は何も言えず、ただ見たこともない母さんの表情に釘付けになっていた。


「自由に生きて……‼ 何にも縛られず、ただ自由に……‼」


 母さんになにを言ったのかはわからない。ただ、気が付けば、家から飛び出して村の中を走っていた。なにかを叫びながら、瞳から涙を流して、静まり返った夜の村の中を、ただひたすらに村の外を目指して走り続けた。


 幼いながらに理解していた。もう二度と、母さんには会えないのだと。振り返れば足を止めて家に戻り、母さんと一緒にいたいと、母さんに飛びついてしまうだろうから、振り返らず、月の光もない村の中を走り続けた。


 家の中にいた村の者たちは、俺の泣き声に気が付いていたことだろう。気が付いていながら、気が付かないふりをした。それは同情だったのかもしれない。村の全員で押し付けた贄という枷を嵌められた家に生まれた子供への、最後の慈悲だったのかもしれない。自分が、自分の大切な人が贄になるかもしれないという状況の中、最後に俺に向けられた憐れみ。


 いや、もはや、諦めだったのかもしれない。村の者も皆、諦めていた。伊邪那美に支配された村の中で、誰かを犠牲にしてまで生き残ろうという気力は、すでになくなっていたのかもしれない。


 泣き叫びながら村の外に出て、林の細道を駆け抜け、山を下りた。生い茂った草木が肌に小さな傷を作っていたかったが、足を止めることはなかった。山を下り終えたときには夜が明け始めていて、山の麓で俺の意識はなくなった。


 山の麓で倒れていた俺を発見したのは、日光本家の神子であり、先代御神の付き人だった灯野春陽さんだった。春陽さんは衰弱しきった俺を一目見たときから、神木村から逃げて来た子供であることを理解していたらしい。


 春陽さんは俺を日光本家に連れ帰り、自分のことを男だと思いこんでいた俺に、本当の性別を教えた。


 春陽さんは母さんとは違い、俺が汚い言葉を使うのを嫌い、正そうとしたが、俺はそれに従わなかった。なににも縛られなくなっても、俺にとっては母さんとともに過ごした日々がすべてで、母さんに教えられたことがすべてだったから。


 それでも、年を取るのに伴って成長していく身体に、自分の性別は理解することはできたけれど。


 春陽さんは俺に優しくしてくれた。先代御神も俺を可愛がってくれた。先代御神が死んだとき、残された一人娘である御神も、花蓮の姉御も大切な人だ。


 でも、どれほど時間が経とうとも、思い出すのは母さんの姿だった。


 ただ幸せだった。母さんとの暮らしが。たとえ、偽りで塗り固められた生活だったとしても、いつか終わりを迎えてしまうことがわかっていたとしても、母さんと一緒にいたかった。母さんを奪った者が許せなかった。


 誰を恨めばいいのだろう。贄の家を定めた過去の者たちか、神木村に伊邪那美を押し付けた月光の者たちか、伊邪那美の力を闇雲に使って機嫌を損ねた邪術師たちか、母さんを差し出した、神木村の者たちか。


 いや、違う。すべての始まりは、伊邪那美だ。理不尽に世界を呪い、犠牲を要求し、その尻拭いをさせられるのは、なんの罪もない者たちだった。村を支配し、人々から生きる気力さえ奪った。邪神がなんだ。神殺しがなんだ。大事な人を奪われて、泣き寝入りだけはしたくない。


 自分を犠牲にしてでも俺を守ろうとした、母さんのように。


 そう思っていたのに、四年前の大災厄のさい、神木村から発生した禍ツ神は村を破壊し、神木村は消滅した。万年桜も枯れ落ち、伊邪那美への復讐は完遂されないまま、終わるものだと思われた。


 だがそれは、すべて何者かに隠されたことで、伊邪那美は今も生きていた。俺はもう、逃げることしかできなかった弱い者ではない。泣き叫びながら走り、慈悲によって生き延びた幼い子供ではないのだ。母さんは何者にも縛られずに生きてほしいと言った。だが、俺は伊邪那美がいる限り、縛られたままだ。


 この復讐に終止符を打たねばならない。すべて、燃やし尽くして、母さんに弔いの炎を上げよう。たとえ、母さんがそれを望んでいないとしても。


    ◇


 瑠花の持つ大金槌から発せられた炎は無数に這い出して来る『なにか』を燃やし尽くし、伊邪那美を追い詰めていった。伊邪那美は炎を恐れるように瑠花から逃れようと奥へ進んでいく。炎は瑠花の肌を焼いて、腕や足に火傷ができたが、瑠花は炎の熱さに対して表情ひとつ変えず、静かに伊邪那美に近づいていった。


「逃げてんじゃねーよ」


 瑠花が大金槌を振るたびに炎が勢いを増し、瑠花に縋り付くように手を伸ばしてきた人型の『なにか』に大金槌が当たった瞬間に、『なにか』は灰になって消えた。瑠花の頬に焼けた灰が飛び散り、火傷を作る。


 伊邪那美は瑠花から逃げていったが、壁に突き当たり、炎は容赦なく伊邪那美に迫ってくると、その身体を伝って焼き尽くしていった。


『ギャアアアアッ‼』


 伊邪那美が自分の身体を焼く炎に悲鳴を上げ、逃れるように身をよじった。伊邪那美の悲鳴は鍾乳洞の中に響き渡るが、すぐに燃え盛る炎の音にかき消される。炎は一瞬で伊邪那美の身体を包み込み、ボロボロと伊邪那美の身体が崩れ始めた。


 伊邪那美は炎に身を焼かれながら、陥没した眼下から血のような黒い涙を流し、助けを求めるように瑠花に手を伸ばしてくる。伊邪那美が悲鳴を上げるたび、身は焼け落ち、皮膚の下から骨が覗いていた。


 大金槌から発せられる炎は瑠花の両腕にまとわりつき、瑠花の両腕を焦がしていた。ブチブチという肉の焼ける音と、肉が焦げる臭いに顔をしかめながらも、瑠花は大金槌から手を離さず、壁際まで追い詰められ炎に焼かれている伊邪那美の目の前までたどり着くと、大金槌を振り上げた。


「地獄に堕ちやがれ」


 伊邪那美の、耳をつんざくような悲鳴が瑠花の耳に届いたが、瑠花は冷たい瞳をしたまま、伊邪那美に大金槌を振り下ろした。


伊弉諾いざなぎつぐない」


 振り下ろされた大金槌は大きな炎を巻き上げながら伊邪那美の身体に直撃し、伊邪那美の悲痛な叫び声が響いて、伊邪那美の身体は灰に変わって燃え落ちた。


 辺りで暴れ狂う炎はその灰さえも燃やし尽くし、伊邪那美は跡形もなく消え失せる。炎は鍾乳洞の中の全域に広がっていき、壁や天井に亀裂が入って崩れ始め、天井から垂れ下がる鍾乳石が落下して地面で弾けた。


 崩壊していく鍾乳洞の中で、瑠花はついに大金槌から手を離し、その場に崩れ落ちた。大金槌は消えたが、あたりの炎の勢いが弱まることはなく、瑠花の身体を燃やし続ける。


 瑠花は燃え続ける自分の腕を見つめ、炎の熱さが身体を覆いつくしていくのを感じながら、ふっと諦めたように笑った。瑠花の片目から一筋の涙が流れ落ちる。


「……将に怒られちゃうかな」


 小さく呟いた瑠花の声は炎の音にかき消され、瑠花の身体が炎に包まれていく。炎の熱さに身を委ねた瑠花は静かに目を閉じ、「ごめんな」と呟いた。


「忘れてくれ」


 最後の瑠花の言葉は声になっておらず、口を動かしただけで、瑠花が完全に炎に呑まれる瞬間に耳に届いた声は、将が瑠花の名前を呼ぶ声だった。


    ◇


 伊邪那美の神域に続く、万年桜の丘の麓にある穴の前で、将が繋げていた瑠花の縁である赤い糸は、将の腕に巻き付いた状態で突如として燃え上がり、炎が将の腕を焼こうとしていた。


「瑠花‼ 瑠花⁉ なんで……‼」


 将の額には大粒の汗が浮かんでおり、腕は食い込んだ糸によって真っ赤に染まっている。穴の先に続いている糸は導火線のように炎が伝い、焼き切れそうになっていた。


「なんで応えてくれないんだよっ⁈ 瑠花‼ 瑠花‼ お願いだから……‼」


 悲痛な叫び声をあげる将を見つめながら、花蓮と衣織は息を呑んだまま何もできずにいた。


「戻ってきてよ……‼」


 その時、万年桜が突然燃え上がった。


 幹を焼き、枝を焼き、咲き誇っていた花たちを灰に変える炎に、万年桜の近くにいた四人は呆然とその様子を見つめる。燃えた枝が崩れ落ちてきて、衣織が「危ないっ!」と言いながら美雨の腕を引き、万年桜から離れた。


 花蓮も危険を感じ、将に声をかけようとしたが、目を見開き、信じられないという表情で万年桜を見つめる将に言葉が止まった。


「……嘘だ……そんな……」


 将の瞳から涙が流れた。燃え落ちてくる万年桜に、花蓮が「離れろっ!」と将に叫ぶが、将は万年桜を見つめたまま動こうとしなかった。


「まだ……まだ間に合う……! だから、だから‼ お願いだから応えてよ‼ 瑠花‼」


 将がそう叫んだ瞬間、糸を伝っていた炎が勢いを増し、将の腕に届いた。炎が将の腕を焼き、将がうめき声を漏らす。炎はさらに勢いを増し、万年桜を焼き尽くすと、将の身体を覆いつくす勢いで燃え広がっていく。


「……お願い……」


 将の掠れた声が炎の音にかき消されようとしたその時、燃えていた赤い糸を、花蓮が神器の薙刀を使って切った。


 糸はいとも容易くプツンと切れ、将の腕からハラリと落ちると、将の身体を燃やしていた炎が消える。将がその様子に目を見開き、腕から離れ、穴の奥へと吸い込まれていく糸を掴もうと手を伸ばす。


 その手を花蓮が掴み、将が非難するような目を花蓮に向けた。


「……諦めろ」


「どうして⁈」


「あいつはもう戻らないっ‼」


 花蓮の悲痛な叫びに、将が大きく目を見開いてその瞳から大粒の涙があふれた。


「もう……戻らないんだ……!」


 花蓮の声は震えていて、今にも泣きそうな顔をしていた。万年桜を燃やしていた炎は、糸が切られた途端消滅し、燃やし尽くされて真っ黒になった幹と、丘に降り積もった灰だけが残った。ぽっかりと口を開けていた穴は一瞬でふさがり、赤い糸は見えなくなった。


「うわああああっ‼」


 将が叫ぶ声を上げたが、もう、その声が瑠花に届くことはない。泣き叫ぶ将の声が村の中に虚しく響き渡ったかと思うと、将は急に意識を失って、花蓮が慌てて将の身体を支えた。


 将は死んだように眠っており、弱々しいが微かに息をしていた。腕は流れた血によって赤く染まっており、炎によって負った火傷が痛々しい。


「……みんな、いなくなっちゃうんだ……」


 それまで静かにしていた美雨が呟いた。花蓮と衣織が美雨の方を見る。美雨は虚ろな目をして意識を失った将を見つめていた。


「みんな、美雨を置いていっちゃうんだ」


 その時、村中に雄叫びのような声が響き渡ったかと思うと、村が一瞬で色彩を失い、世界は白色と黒色で包まれた。


    ◇


 村の入り口付近で戦っていた沙乃は、襲い掛かってきた邪術師たちを跳ね除け、沙乃の足元には、意識を失った邪術師たちが転がっていた。


 そんな中、卑弥呼はなおも余裕そうな笑みを浮かべたまま、無傷で沙乃を見つめている。沙乃は小さく舌打ちをすると、目にもとまらぬ速さで卑弥呼と間合いを詰め、大剣を振り下ろした。


 剣は間違いなく卑弥呼に直撃したにも関わらず手ごたえがなく、卑弥呼は笑みを浮かべたままその場に立っていて、沙乃の後ろで気絶して倒れていた邪術師の一人が唐突に血を吐いた。沙乃が驚いて振り返ったが、血を吐いた邪術師はピクリとも動かず、息をしていないように見える。


「邪術とは」


 これまで笑みを浮かべるだけでなにも言おうとしなかった卑弥呼が唐突に口を開いた。


「贄が本質。邪神、伊邪那美様に命を捧げることでそのお力を借りることが出来る」


「……それがなんや」


「伊邪那美様に命を捧げればいい。それは、身代わりを用いても変わらぬ」


「身代わりやと?」


「世界は、誰かの犠牲で成り立っている。その誰かを決めるのは、力を持つ、横暴な者たちさ。そう。お前たちのような、御三家の人間だ」


 卑弥呼の吐き捨てるような言葉に沙乃が眉をひそめた。


「お前はなにが目的なんや。なんで、三神の封印を解くなんてことを……」


「すべては蛭子様のため。我、同胞たちのため」


「その蛭子っちゅうやつはなにもんや」


「その名を軽率に口にしない方が身のためだね。無知であるということは罪なのさ」


「答えになっとらん」


「知りたいのなら教えてあげようか。真実の残酷さに耐えられるのならね」


 卑弥呼の馬鹿にするような表情に、沙乃が卑弥呼を睨みつける。卑弥呼は淡々と話し始めた。


「ここ神木村は邪神、伊邪那美様に支配された村だった。御三家の月光の監視下に置かれ、定期的に癇癪を起す伊邪那美様を鎮めるために、贄を出すことを強制された村。私はこの村の村長として、この村の者たちを守るため、必死で生きて来たのさ。たとえ伊邪那美様に支配されていたとしても、皆、幸せだった。幸せに、なにも変わらない、いつもの日常を過ごしていた。それが、誰かの犠牲の上に成り立っていることを理解しながら、それでもがむしゃらに生きるしかなかったんだよ。それなのに」


 卑弥呼が手に爪が食い込むほど強く、拳を握りしめた。


「月光が、そのすべてを壊した」


「……どういうことや」


「言葉通りの意味さね。月光本家の神子たちにすべてを奪われ、村はこのありさま。我同胞たちは、生き地獄に堕とされた」


「それがどういうことやって聞いとんのや‼」


 沙乃が苛立ちをあらわにして声を荒げた。卑弥呼は怯むこともなく、静かに言葉を続ける。


「月光は、日光と宝刀よりも力が弱い。宝刀は完全実力主義であり、当主になれるのは絶対の力を持った神子。日光は代々、御神という血の元に受け継がれる絶対の力を持っている。それに比べ、月光は実力主義でもなければ、受け継がれる力もない。月光本家の神子たちは、御三家の中でも力が弱いことを気にしていたが、当主はそれを気に留めることもなかったために、月光本家の中で、神子たちの不満がひしひしと積もっていった」


「……は……?」


「月光当主、陰魅尊は強い力を持っているが、年老いており、頭が固い。月光本家の若い神子たちはこの先の月光に一抹の不安を抱いた。日光と宝刀に劣らない力を持たなければ、他の家に潰されるかもしれないと。だから、暴走したのさ。月光の若い神子たちは、血筋も、強い力も持っていないのならば、神の力に頼ろうと考えた」


 沙乃は卑弥呼の言っていることをうまく飲み込むことが出来ず、声も出せずに卑弥呼の言葉を聞いていた。嫌な胸騒ぎを感じながら。


「自分たちで強い神を作ろうと考えたのさ」


 卑弥呼の冷たい声が沙乃の耳に届く。到底あり得ない、成しえるはずもないことを、卑弥呼は淡々と語った。


「古代より伝わる、神を生み出す禁術。月光の若い神子たちは、蠱毒こどくを用いて神を生み出そうと考えた。それも、小さな神ではなく、他の家の力に抵抗し得る強い神を」


「……蠱毒……?」


「蠱毒は通常、ツボの中などに毛虫や百足、蜘蛛などの毒虫を入れ、殺し合いをさせ、一番最後まで残っていた虫を神として崇め、神格化する禁術だ。その残忍さから、成功することはほとんどなく、魑魅魍魎が生まれることの方が多い。神にも成れない、成り損ない」


 卑弥呼が一度息をつき、血が滲んだ手のひらを見つめると、傷に爪を食い込ませるように強く、強く拳を握った。


「月光の神子たちはあろうことか、その術を、人間を用いて行った」


 卑弥呼の言葉に沙乃が息を呑む。胸騒ぎは大きくなり、沙乃の頬に冷や汗が伝った。


「人間に宿っている名もなき神たちを利用することで、強い神が生まれると考えたのさ。それがどれほど愚かなことかも知らず、ただ力を求めて禁術を行った。この、神木村で」


 卑弥呼の後ろには壊滅した村が広がっている。あたりに飛び散った血や、転がっている血の付いた農具などが、ことの凄惨さを物語っていた。


「蠱毒によって、村の者たちは強制的に殺し合いをさせられたのだ。結界を張られ、村からの脱出もかなわず、子も女も男も関係なく、殺し合った。ただ幸せにいつも通りの日常を過ごしていただけにも関わらず、その日常を突如として壊された。娘も息子もその家族も、生まれて間もない乳飲み子だった孫さえも、友も仲間もなにもかも奪われたのだ。成功するはずのない術によって」


「……成功……しなかったんやな」


「憎み合い、いがみ合った人間たちによる殺し合いの結果、人間たちに宿っていた名無しの神たちは歪んだ。歪んだ神たちは混ざり合い、絡み合い、集合体となって肥大化し、神にも成れない、化け物と化した。それが、貴様らが大災厄と呼んだ禍ツ神の大暴走さ」


「……そんな……」


「蠱毒によって生まれた化け物、蛭子は、穢された我同胞たちなのだ。我同胞たちの魂は吞み込まれ、生き地獄に引きずり降ろされた。大災厄によって主犯の神子たちが死んだために、私はこの身を焦がしそうな復讐の炎を向けることも叶わなかったのだ。そしてあろうことか、月光本家の当主尊は、月光本家の神子たちが蠱毒を行ったことを隠蔽し、なかったことにした」


 卑弥呼はふっと達観した笑みを浮かべた。


「そんなことが許されてしまったのだ。……なぜ、我らだった? なぜ、奪われねばならなかった? なぜ、怒りに身を焦がし、復讐の刃を突き付けることすらもかなわない?」


 卑弥呼は笑みを浮かべたまま、静かに涙を流した。沙乃は何も言えず、ただ息を呑んで卑弥呼を見つめるしかなかった。


「せめて、地獄の中にいる我同胞たちを、自由にしてやりたいと願っても、罪ではないだろう?」


 卑弥呼の問いかけに、沙乃は答えられずにうつむいたが、大きく深呼吸をすると、卑弥呼を真っすぐに見つめて口を開いた。


「そのために、犠牲になる人がいるんや」


「犠牲? 犠牲ねえ。私はいったいどれほどの大切なものを犠牲にすれば、幸せになれたんだろうねえ……」


「……あんたが苦しんできたのはわかる。でも、だからと言って、していいこととあかんことがあるはずや‼」


 沙乃が声を荒げ、卑弥呼がようやく笑みを崩し、怪訝そうに眉をひそめた。


「あんたがやってきたことで、なにも関係ない人たちが奪われた‼ あんたらが目覚めさせた三神によって、どれだけの人が傷ついたと思ってるんや‼」


「蛭子様の封印を弱めるため、御三家を混乱の渦に落とす必要があった。すべては、我同胞、蛭子様のため」


「これ以上、うちらは誰も奪わせへん‼」


 沙乃が声を荒げた瞬間、卑弥呼が唇の端を吊り上げ、腹を抱えて大声で笑い出した。その異様な姿に沙乃の背中に悪寒が走る。卑弥呼はおかしくてたまらないというように、笑い続けた。


「あっはっはっはっはっ‼ これ以上誰も奪わせない⁈ もう⁈ ああ、おかしい‼ だから無知であることは罪なのさ‼」


「……な……にを……」


「お前たちは最初から、自分たちが助かるために、一番守りたかったであろう者を犠牲にしただろう?」


 沙乃の嫌な胸騒ぎが大きくなっていき、沙乃が思わず「やめろ」と呟いたが、卑弥呼はその言葉を無視して言葉を続けた。


「宝刀前当主、神崎虎太郎のことさ‼」


 沙乃の目の前が真っ暗になった。

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