二十一刻 神木村

 衣織は翼と会った後、月光本家を出て沙乃達と合流し、花蓮が運転する車で神木村に向かった。沙乃についてきた将は、車に揺られながら何も言わず、花蓮についてきた瑠花は常に険しい表情を浮かべていた。しばらく曲がりくねった山道を進むと、道が途切れ、行き止まりにたどり着き、五人が車から降りる。


「四年前の大災厄の前は、ここから先に神木村に続く道があった。だが、大災厄の際、突如現れた禍ツ神により村は消滅。ここから先は、なにもない。木々をかき分けて進んでも、永遠に林があるだけだ」


 花蓮が林を見つめながら言って、将と沙乃があたりを見回す。


「永遠に林が続くって、どういうことですか……?」


 衣織が花蓮に問いかける。


「そのままの意味だ。禍ツ神が発生した際、神木村一帯は異空間に繋がった。それはおそらく、我々が踏み入ってはいけない神の領域。禍ツ神を封印したことで、その異空間に繋がる道は閉ざされ、村には二度と入れなくなった。元々神木村は黄泉への入り口、万年桜があった村。神の領域、神域に繋がってしまってもおかしくはなかったが、万年桜は枯れ落ち、黄泉に繋がる入り口は閉ざされている。神木村は禍ツ神が目覚めない限り、どこからも入ることのできない、消滅したと言っても過言ではない村になった」


「……いいや」


 ふいに口を開いた瑠花に視線が集まる。瑠花は林の先を真っすぐ見つめ、四人の視線を無視して林に近づいていった。


「ここにある。ここにあった。隠されて、見えないだけだ」


 瑠花は守神の名を呼び、神器の大金槌を取り出すと、林に向かって振り下ろした。大金槌は透明な壁のようなものに当たり、大きな音を立てる。瑠花以外の四人がぎょっとしてその様子を見つめ、透明な壁に亀裂が入っていくと、音を立てて壁が壊れた。


「な……」


 壁が壊れ、林の奥へと続く細道が現れた。瑠花はその道の先を睨みつけるように見つめている。


「邪術によって道が隠されていた。理由は知らねーが、ここから先になにかあるんだろうよ」


「……瑠花さんはどうしてわかったんですか……?」


「……来たことがある。思い出したくもなかったが」


「隠されとった……そうか……たどり着けへんわけや……」


「……私たちは四年前からずっと騙されてきたわけだ。神木村は消滅した、と。だが、本当は、村は消滅したのではなく、何者かによって隠されていた」


 瑠花が歩き出し、細道に入っていこうとする。将が慌ててそれを追いかけ、あとの三人が後に続いた。瑠花はためらいなく、道の先へと進んでいく。


「ちょっと待って、瑠花!」


 足早に歩いていく瑠花を将が呼び止めた。それでも瑠花は足を止めず、将に背を向けている。


「……この先に、俺が求めていたものがあるんだ」


「それはなに?」


「待った」


 後ろから歩いてきていた沙乃が四人を呼び止め、全員が足を止めて振り返った。


「来る」


 沙乃が神器を取り出した瞬間、あたりの林の中から、黒い着物を身に纏い、赤い文字の書かれた紙面を付けた邪術師たちが飛び出してきて、五人に襲い掛かった。邪術師たちは赤黒い色をした刀のようなものを持って切りかかってくる。神器を取り出した五人は邪術師たちの攻撃を防ぎ、次々と林の奥から現れる邪術師たちに瑠花が舌打ちをした。


「走れ!」


 花蓮の一言で五人が邪術師たちを跳ね除け、細道の先へと走り抜けた。


 道を抜けると、そこには崩壊した村があった。建物のほとんどが崩れ落ち、いたるところに黒く変色した血液が飛び散っている。草木は枯れ落ち、村中に充満している澱んだ空気に村を見た五人が顔をしかめた。


 その村の中でひときわ存在感を放つのは、村の中央の小高い丘にそびえ立つ満開の桜の大木。季節外れでありながら、その枝を咲き誇る花々で彩った桜は、崩壊した村に存在するものとしてあまりに異様であり、その美しさは禍々しさすら放っていた。


「……万年桜は枯れてない……」


 花蓮が信じられないというように呟き、瑠花は万年桜を睨みつけた。


「本当に鬱陶しい奴らだね」


 聞こえた声に五人が振り返る。そこには黒い着物を身に纏う、美雨を攫った老婆が立っていた。不機嫌そうに眉を顰め、まるで汚物を見るような眼差しを向けて来た老婆は、唇を歪めて嘲笑を浮かべた。


「邪魔をするためにここまで来るとはねえ……まあ、もう遅い。すべての準備は整った」


 気が付けば五人は邪術師たちに取り囲まれていた。赤黒い刀を手にした邪術師たちの表情は紙面のせいで見えないが、五人が少しでも動いた瞬間に襲い掛かってくるのは明確だ。


「あんたは何者や」


 沙乃が老婆を睨みつけながら問いかける。老婆は不気味な笑顔を顔に張り付けたまま、口を開いた。


卑弥呼ひみこ。この村の村長……だった者」


 老婆の答えに、瑠花が少しだけ反応した。


「神木村の……村長……?」


「お前たちにすべてを奪われた、もう生きる理由もない老い耄れ。私はただ、同胞に会いたいだけさ」


「……美雨ちゃんは……」


 衣織が口を開き、卑弥呼の瞳が衣織をとらえる。


「美雨ちゃんは、どこですか……‼」


「ああ、あの小娘かい? あれにもう用はないからねえ。伊邪那美(いざなみ)様の供物になってもらったよ」


 卑弥呼が万年桜の方を指さして、衣織がその言葉に絶句した。その瞬間、瑠花が走り出し、襲い掛かってきた邪術師を大金槌で蹴散らして、真っすぐに万年桜の方へと駆けていく。


「瑠花⁈」


 将と花蓮が呼ぶ声を無視して、瑠花は振り向きもせずに走っていった。将が邪術師を払いのけると瑠花の後を追いかけていき、衣織もそれに続く。


「もう遅い‼ 遅いのだ‼ すべて‼ お前たちが私からすべてを奪ったその日から‼」


 卑弥呼が顔を歪めて高笑いする。邪術師たちと戦っていた沙乃は、同じく戦っていた花蓮に声を上げた。


「花蓮! あんたも行き‼」


「だが……」


「あの三人だけじゃ死んでまう‼ ここはうちだけで十分や‼ こんな老い耄れ一人……」


 沙乃が卑弥呼に鋭い眼光を向ける。周りの邪術師が戦っている中、卑弥呼は一人不敵な笑みを浮かべながらその場に佇んでいた。


「うちが叩き潰す」


 沙乃の右目が光り輝き、手にした草薙剣が淡い光を放つ。その様子を見た花蓮が「任せた」と言い残し、三人を追って走っていった。


「ああ、恐ろしい。恐ろしい。こんな老婆に刀を向けるなんて」


 邪術師たちは沙乃に刀を振り下ろし、沙乃は神器の大剣、草薙剣でそれを防ぐ。卑弥呼は笑みを浮かべたままで、そんな卑弥呼を沙乃は睨みつけた。


    ◇


 唐突に走り出した瑠花は、迷いなく、万年桜を目指していた。その背中を追いかける将が自分を呼ぶ声を気にも留めず、万年桜の目の前にたどり着いた瑠花は立ち止まるとあたりを見回す。


 万年桜がそびえ立つ小高い丘の麓には、人ひとりがようやく潜り抜けられるほどの穴が開いており、穴の前にはしめ縄とお札がかけられていたが、穴を見つけた瑠花は邪魔だと言うように大金槌でしめ縄をぶち切ると、躊躇うことなく穴の中へと入っていく。


「瑠花‼」


 将が止めようとしたが間に合わず、瑠花は穴の中に吸い込まれていった。将が後を追いかけようと穴を覗き込み、その直後、金縛りにあったかのように身体が動かなくなる。


 将は「この先に進んではならない」ということを、明確に感じ取っていた。穴の先から漂ってくる、澱んだ空気とただならぬ者の気配。この先に進めば、もう戻ることはできないのだと、肌で感じる。


 その場で立ち尽くす将の後ろから、二人に続いてきた衣織が走ってきて、立ち尽くす将に声をかけた。


「どうしたんですか? 瑠花さんは?」


「……あ……」


 将が我に返り、衣織の方を向いた。


「る、瑠花がこの中に……!」


 将が言った瞬間、衣織が穴の中に入っていこうとして、将が慌てて止める。


「待って!」


 将の行動に衣織が困惑したように困った顔をする。


「どうして……」


「こ、この先は、行っちゃだめだ……! たぶん、入ったら、もう……」


「……でも」


 衣織が将の手を取ると、そっと離させた。


「美雨ちゃんを……助けないと」


 衣織は将が止めるのを無視して穴の中に入っていく。一人取り残された将はしばらく呆然と穴を見つめた後、拳をぎゅっと握り、覚悟を決めて、穴の中に入っていこうとした。


 その将の手を、誰かが掴む。将が驚いて振り返ると、三人を追ってきた花蓮が将の手を掴んでいた。


「ダメだ。君は行ってはならない」


 花蓮の言葉に将が信じられないというような表情を浮かべる。花蓮は険しい顔をして、将の手を離そうとしなかった。


「花蓮さん……」


「君はここに残ってくれ」


「どうして……⁈」


「この先は、一度入れば戻れない。邪神、伊邪那美の神域だ。現世でも一番黄泉に近い場所。そこはもはや異空間であり、この村の中ですらない」


「でも、でも‼ 二人は入ってしまった‼」


「だからこそ、君だけは行ってはならない。君が行けば、二人はもう戻れない。だから、ダメだ」


「どういう……ことですか」


「君の力なしでは戻れない。君の縁結びの力がなければ、こちらの世界と繋がる縁が薄れて、ここに入った者は向こう側に連れていかれてしまう。君はここに残って入った者たちの縁を繋いでおいてほしい」


 花蓮が「頼む」と懇願するように言い、将はしばらく言葉を失った後、声を絞り出すように言った。


「そ……れは、縁結びをするということですよね……?」


「ああ。それ以外に、中に入った者をこちらに戻す方法はない。二人は私が探し出す。だから……」


「わかりました」


 将は拳をぎゅっと握ると、決意を込めた声で言った。その様子に花蓮が柔らかく微笑み、将の手を離すと、穴の中へと入っていく。花蓮の背中はあっという間に闇に呑まれて見えなくなり、残った将は自分の胸に手を当てて目を閉じると、小さく深呼吸して目を開いた。


白山姫しらやまひめ


 将が神の名を呼ぶと、手元に神器である裁ち鋏が出現した。裁ち鋏は将の両掌の上で少しだけ宙に浮かび、その輪郭がぼやけると、糸がほつれていくように赤い糸に姿を変えていく。


むすんでひらいてちぎりをわせ。ゆびはじいて朱糸しゅいとをくくり、縁謡えにしうたいて一期いちご一会いちえ


 将が、半分以上が糸に変わった鋏を押しつぶすように胸の前で手を叩き、手を開くと、鋏は四本の赤い糸に変わっており、将が糸を手に取る。


「神格解放 その名を菊理姫くくりひめ


 将は自分を落ち着かせるように一度、小さく息を吸った。


縁結えんむすび」


 その瞬間、四本の赤い糸は将の腕に巻き付き、将の両手の小指に蝶結びができた。肉に食い込むほどきつく巻き付いた糸は、将の腕を縛り付け、将が顔に苦痛の色を浮かべる。糸はキリキリと将の腕を締め上げていく。


「……大丈夫。こんなの、なんともない」


 将は穴の先の闇を見つめ、拳を握りしめた。


    ◇


 穴の中に入った衣織は、一瞬の暗闇の後、視界に広がった美しい鍾乳洞に息を呑んだ。


 天井から鍾乳石が垂れ下がり、床には様々な形をした石筍が立ち並んでいる。光は一切入り込まず、暗闇の中でぼんやりと浮かび上がる石筍は美しくもあり、禍々しくもあった。


 あたりに充満する磯の香りが、足元に流れている水が海水であることを物語っている。空気が澄みわたりすぎていて、心地よいを通り越し、気持ち悪さすら感じるほどだった。


 衣織は一瞬で理解する。ここは、人が立ち入ってはならない場所なのだと。


 先に入っていった瑠花の姿は見えない。先あるのは、永遠に続く闇のみだった。衣織は唾を飲み込み、呼吸を少し整えると、一歩踏み出した。パシャリと足元で水が跳ねる音が聞こえ、その音は鍾乳洞の中で不気味に響き渡る。辺りはひんやりと冷たいはずなのに、衣織は冷や汗をかき、背中に服が張り付いて気持ちが悪い。


 その時、視界の端で動いた人影に衣織が驚いて立ち止まった。とっさに振り返ったがそこには誰もいない。衣織は手汗が滲む拳を握り、前を向いて、また歩き出そうとした。


「衣織」


 声と共に何者かの手が肩に触れる感触がして、衣織が情けない悲鳴を上げながら、短刀を手に持って振り返る。後ろにいたのは衣織の後に入ってきた花蓮で、衣織が慌てて短刀から手を離した。


「驚かせてすまない。出会うことが出来てよかった」


「か、花蓮さん……」


「瑠花がどこか知っているか?」


「いえ……会えていません……」


「そうか……衣織は美雨を探してくれ。私は瑠花を探す。美雨を見つけたら、おそらく将が元の場所に戻してくれるだろう」


「将が……?」


「将は今、縁結びによって私たちを現世に繋ぎとめてくれている。ここは黄泉に最も近い伊邪那美の神域。長居しすぎると、戻れなくなる。それから……」


 花蓮が急に黙り込み、衣織が不思議そうに花蓮を見つめる。花蓮の目は衣織の後ろをとらえており、まるで衣織の姿が見えていないようだった。衣織が振り返って後ろを見たが、誰もいない。再度花蓮の方を向くと、花蓮は信じられないというような表情を浮かべたまま、衣織に向かって、一歩踏み出した。


 花蓮の目には、微笑を浮かべる花菜の姿が映っていた。花菜の姿は衣織には見えておらず、花菜はゆっくりと口を開く。


「姉様」


 それは紛れもない花菜の声で、花蓮はその声に導かれるように一歩を踏み出していた。玉藻の前と共に散っていったはずの愛おしい妹が、今、花蓮の目の前にいる。


「姉様。愛おしい姉様」


 花菜が手招きするように、花蓮に向かって手を差し出した。花蓮はふらふらとした足取りで花菜に向かっていく。差し伸べられた手を掴もうと、今度こそ離しはしないと、衣織が止めようとしているのを無視して、愛おしい妹の手を取ろうとした。


「共に参りましょう」


 差し出された花菜の手の上には、一握りの米が乗っており、手を取ろうとしていた花蓮が手を止める。花菜は手を差し伸べたまま、花蓮に向かって微笑みを浮かべていた。


「さあ」


「……違う」


 花蓮が伸ばしていた手を引っ込める。それでもなお、花菜は不思議そうな表情を浮かべることもなく、微笑を浮かべたまま、ただ、花蓮に手を差し出していた。


「……お前は、花菜じゃない。花菜であるはずがない。だって……」


 花蓮が酷く寂し気な表情を浮かべた。


「花菜を殺したのは私なのだから」


 花蓮の手元に薙刀が出現し、花蓮が刃を花菜に向けた瞬間、ずっと微笑を浮かべたままだった花菜の顔が崩れ落ちた。花菜の身体は腐り落ち、中から蛆虫が湧き出てくる。


 花蓮がぎょっとして花菜から離れると、鍾乳洞の水たまりから、次々と花菜のような姿をした、身体が腐り落ちている人型の『なにか』がはい出てきた。花蓮の名前を呼ぶ声は、気が付けば花菜の声とはかけ離れたものに変わっていて、その異様な光景に花蓮が息を呑む。


 花菜のような『なにか』たちは、それぞれ手に米や魚などの食材を持っているが、そのどれもが腐り、異臭を放っていた。花菜のような『なにか』たちは花菜に向かってじりじりと近づいてきて、手にした食材を差し出している。


「衣織‼」


 花蓮が後ずさりながら後ろにいるはずの衣織に声をかけたが返答はない。振り返ると、衣織はどこか一点を見つめたまま、立ち尽くしていた。


 衣織の目には、神崎虎太郎の姿が映っている。衣織に向かって微笑みを浮かべて、手を差し伸べている虎太郎の姿が。


「衣織」


 懐かしいその声は紛れもなく虎太郎の声であるはずなのに、衣織は一瞬でそれが虎太郎でないことを理解して、片目から一筋の涙を流した。


「……そうか……」


 絞り出した衣織の声はかすれていた。


「衣織。こっちや」


 差し出された虎太郎の手には、一握りの米が握られている。衣織は力なく首を横に振り、ただ、涙を流した。


「あなたはもう、いないんですね」


 衣織が短刀を構える。虎太郎の身体は腐り落ち、周辺の水たまりから人型の『なにか』が這い出して来る。鼻をつくような異臭があたりに充満し、地面から腐敗した食材があふれ出す。


『喰エ喰エ喰エ喰エ喰エ喰エ喰エ喰エ喰エ喰エ喰エ喰エ喰エ喰エ喰エ喰エ喰エ喰エ喰エ』


 頭にまとわりつくような声が鍾乳洞の中に響き渡る。もういない人々の声は、呪いのように思えた。


 衣織は自分に向かってきた『なにか』を短剣で切りつけ、『なにか』が倒れる。それはもはや虎太郎の姿をしておらず、人の形すら保っていなかった。ただ、一心不乱に手にした食材を差し出してくる。


「衣織! お前は先に行け! ここは私がどうにかする! お前は美雨を探せ‼」


 花蓮が薙刀で『なにか』たちを切りつけながら衣織に叫んだ。倒しても、倒しても水たまりの中から無数に『なにか』が這い出し、きりがない。


 衣織は襲い掛かってくる『なにか』たちを切りつけると、花蓮に言われた通りに鍾乳洞の奥へと走り出した。先に続く闇は、衣織を待ち構えるように大きな口を開けている。


    ◇


 肌に冷たい感触を感じて、美雨は目を覚ました。


 開けた視界に飛び込んできたのは美しい鍾乳洞の景色で、美雨は声も出せずにただその場で呆然とした。なんとか今の状況を理解しようとしても、とうてい理解できず、ただこの場所への恐怖がふつふつと沸き上がるだけで、美雨は身体を微かに震わせながらあたりを見回した。


「……ミーちゃん?」


 美雨がミーちゃんの存在を感じないことに気が付いて青冷める。


「ミーちゃん? ミーちゃん! ミーちゃん⁈」


 何度読んでも返事はない。月光本家で卑弥呼に攫われてから、鍾乳洞に来るまでの記憶はなく、ミーちゃんがいない背中は酷く冷たかった。


「……なんで……? なんでいなくなっちゃったの……?」


 美雨がふらりと立ち上がる。足元でパシャリと水が跳ね、足にかかって美雨の体温を奪った。水に濡れた服が肌に張り付き、鍾乳洞の冷たい空気で冷やされていく。美雨はただ悲しくて涙を流した。


「……やだ……やだよぉ……! 一人にしないでよぉ……! ミーちゃん……! 八作さぁん……! いおりぃ……‼」


 美雨の泣き声が静かに響き渡る。何の気配も感じないその場所で、美雨は足元にあった石筍に足を取られて転んだ。


 バシャンという大きな音と共に水をかぶった美雨は、泣きながら身体を起こし、声を上げて泣き出した。手で顔を覆って泣きじゃくり、衣織たちの名前を呼び続ける。


「美雨」


 その時、聞こえた声に美雨が顔を上げた。美雨の目の前に、見覚えのない女性が微笑みを浮かべて立っている。美雨と同じ、雪のように白い髪を持ち、色素が抜け、毛細血管の色が浮き出た赤い瞳をした女性は、美雨に向かって手を差し伸べた。


「誰……?」


「美雨。おいで。一緒に行こう」


 女性が一歩ずつ美雨に近づいてくる。美雨は逃げた方がいいと思いながらも、その場から動けなかった。聞いた覚えのない声も、見たことがないはずのその顔も、なぜか懐かしく感じる。


「美雨。美雨」


「……あなたは、誰なの……?」


「思い出して、美雨」


「……わからないよ……」


 美雨は訳も分からないまま涙を流した。女性は優しげな表情を浮かべたまま、美雨に手を差し出してくる。その手には一つの飴玉が乗っており、美雨は促されるまま、その飴玉に手を伸ばした。どこからか懐かしい、甘い香りがする。


 美雨の手が飴玉に届く瞬間、走ってきた衣織が美雨の腕を掴み、女性を短刀で切りつけた。


 切りつけられた女性の身体が腐り落ち、衣織が美雨をかばうように抱きしめる。


『美雨美雨美うみうミうミウミウミウミウミウミウミウミウミウミウミウミウミウミウ』


 あたりの水たまりの中から無数の『なにか』が這い出して来る。一心不乱に美雨に向かって手を伸ばして、引きずり込もうと二人の身体を掴み、手にした食材を食わせようとしてくる。衣織は美雨に向かって「大丈夫です」と囁くと、美雨の身体を強く抱きしめた。


「僕はここにいますから」


 衣織の言葉に美雨は目を見開くと、安心したように衣織の身体に身を委ねた。その瞬間、『なにか』たちは一斉に二人に襲い掛かり、二人の身体は『なにか』たちに覆われて見えなくなる。


「衣織‼ 美雨ちゃん‼」


 聞こえてきた将の声に二人が目を開けると、目の前で、美しい万年桜が満開に咲き乱れていた。


    ◇


 衣織を先に行かせた花蓮は、姿の見えない瑠花の身を案じつつ、無数に這い出てくる『なにか』たちに圧倒され、その場から動けずにいた。


 衣織の背中はすでに見えなくなっており、無事に美雨の元へと向かったようだが、美雨と出会っても無事でいるかわからない。どれほど薙刀を振って襲い掛かる『なにか』たちを切りつけても、すぐに水たまりから新たな『なにか』が出てきて、花蓮を引きずり込もうと手を伸ばしてくる。


「瑠花……」


 花蓮の声は『なにか』たちの声にかき消され、鍾乳洞の中に響きもしない。花蓮が悔しそうにすぐそこまで迫ってきた『なにか』を切りつけた瞬間、足を取られてバランスを崩した。


 花蓮が足元を見ると、『なにか』たちが出てきたことによって水たまりの水が飛び散って濡れた地面から、腐りかけの不気味なほどに白い腕が無数に飛び出し、花蓮の足を掴んでいた。


「クソッ‼」


 花蓮が薙刀で腕を切りつけたが、腕は無数に伸びてくると花蓮の足を掴み、花蓮の足がズブリと音を立てて地面に沈んだ。花蓮が驚いて足を引き抜こうとするが、底なし沼にはまったように足はびくともせず、迫ってきた『なにか』たちは花蓮に覆いかぶさるように襲い掛かってくる。次第に花蓮の姿は見えなくなり、花蓮の視界が真っ暗になった。


「花蓮さん‼」


 聞こえてきた声と共に、花蓮の視界が明るくなる。物が腐ったような異臭は消え、風が花蓮の頬を撫でて花蓮が目を開けると、花蓮は万年桜の目の前に立っていた。

あたりを見回すと、泣きじゃくる美雨を優しくなだめている衣織と、穴の前に座っている将の姿が見えた。


「花蓮さん! 大丈夫ですか⁈」


 花蓮に気が付いた衣織が声をかけてくる。


「ああ、問題ない。衣織も美雨も無事でよかった……瑠花は?」


「それが……」


「瑠花‼ 瑠花⁈」


 将の声が聞こえ、花蓮が将に近づいていく。将は花蓮に気が付き、青冷めた表情で声を上げた。


「花蓮さん‼ 瑠花はどこですか⁈」


 そう叫んだ将の姿を見て、花蓮はぎょっとする。将の腕に巻き付いた赤い糸は腕の肉に食い込み、血が滲んで、将の腕は血まみれになっていた。


「瑠花が‼ 瑠花だけが返事をしないんです‼」


「ど、どういうことだ?」


「僕と縁を繋いだ人たちが戻りたいと強く願うことで、僕の呼びかけに応じ、こちらの世界に戻すことが出来るんです‼ でも、でも、瑠花だけが僕の呼びかけに応えない‼」


 将の言葉に花蓮が青冷める。泣いていた美雨も黙り込み、将の言葉に耳を傾けていた。


「瑠花に、こちらに戻ってくる意思がない‼」


 将が叫んだ瞬間、将の腕に巻き付いていた赤い糸が急に燃え上がった。


    ◇


 誰よりも先に穴の中に飛び込んだ瑠花は、あまりにも異様すぎる鍾乳洞の中で、躊躇することなく、ただ奥へ奥へと進んでいた。瑠花が進むたびに足元で水が跳ね、その音が鍾乳洞の中に響き渡る。


 険しい表情を浮かべながら、足を動かし続けていた瑠花は唐突に立ち止まると、気配を感じて振り返った。


「瑠花」


 瑠花の後ろに、瑠花と顔がよく似た女性が立っていた。それは紛れもなく、今は亡き、瑠花の母親の姿だった。瑠花が少し驚いたように目を見張り、悲しそうに目を伏せる。


「瑠花。こっちよ、瑠花」


「……ああ」


「行きましょう、瑠花」


 母親が手を差し出した瞬間、瑠花は火を纏った大金槌を母親に向かって振った。大金槌が直撃した母親の身体が吹き飛び、燃え上がる。


『ギャアアアアッ‼』


 母親が悲鳴を上げ、燃え上がりながらその身体が崩れていく。


「馬鹿じゃねーのか」


 その様子を眺めながら吐き捨てるように言った瑠花は、大金槌を片手で地面に振り下ろした。


 大きな音が響き、炎が舞い上がると、鍾乳洞の中を炎が駆け巡っていく。鍾乳洞の中で、どこからともなく無数の悲鳴が聞こえ、水たまりの中から、炎に燃やされながら人型の『なにか』が這い出してきて、悲鳴を上げながら瑠花に手を伸ばしてくるが、瑠花にたどり着く前に炎に覆われて身体が崩れ落ちた。


 あたりに響き渡る悲鳴と、燃え盛る炎の音。瑠花は冷たい瞳であたりの景色を眺め、力任せに大金槌で地面を叩きつけるたびに、炎の勢いが増す。


「出て来いよ。いるんだろ。それとも引きずり出してやろうか」


 瑠花の声に苛立ちが見え、目の前で燃えながら倒れた人型の『なにか』に、瑠花が舌打ちをした。炎はさらに勢いを増したが、鍾乳洞の中の空気は冷え切ったままで、瑠花の身を焦がすことはない。ゴンゴンと大金槌が地面を叩く音と炎の音が混じり合い、徐々に『なにか』たちの悲鳴をかき消していく。


「そこか」


 瑠花がそう呟くと、大金槌を振り上げ目の前の地面に向かって強く叩きつけた。大きな音が響くと地面に亀裂が入り、瑠花の足元が崩れる。


 落下していった瑠花が地面に着地すると、そこは真っ暗な空間だった。どこかから、女のすすり泣く声が聞こえ、瑠花が大金槌を振って炎を巻き上げてあたりが明るくなると、瑠花の目の前で顔を覆いながら肩を震わせ、すすり泣いている女の姿が見えた。


「……返せよ」


 瑠花の声は怒りに満ちている。すすり泣いている女に向かって、瑠花はゆっくりと歩き出した。辺りで燃え上がる炎は、瑠花の怒りを表すように勢いを増す。


「俺の母さんを返せよ。お前が食い殺した、俺のただ一人の肉親を、返せよ」


 女はすすり泣いている。その声は小さいにも関わらず、燃え盛る炎の音にかき消されることなく、直接耳に届くような気味の悪いものだった。


 瑠花は女の目の前にたどり着くと、大金槌を振り上げた。


「てめえを殺すためだけに、ここまで戻ってきてやったんだよ‼」


 瑠花が声を荒げて大金槌を振り下ろす。その瞬間、女が顔を上げ、瑠花と目が合った。


 どこまでも続く空洞のような目に、半分が腐り落ち、骨が覗いている顔。身体から蛆虫が湧き、目から黒い涙を流しながら瑠花を見つめたのは、邪神、伊邪那美だった。


 大金槌が振り下ろされる瞬間、伊邪那美が甲高い悲鳴を上げたかと思うと、地面や壁から飛び出した無数の腕が瑠花の身体を掴み、瑠花が動きを止める。瑠花の動きが止まった途端、あたりの水たまりから這い出した人型のなにか達が瑠花に襲い掛かり、瑠花の姿が覆い隠されて見えなくなっていく。


 その光景を見ながら、伊邪那美は、不気味に笑ったように見えた。


ひびほのお轟音ごうおんに、身焦みこがしたけわれわすれよ。地獄じごくそこよりよみがえり、復讐ふくしゅうほのおかれ、阿鼻叫喚あびきょうかん惨劇さんげきもとむ」


 聞こえてきた声に伊邪那美が反応した瞬間、あたりを取り囲んでいた炎の勢いが増し、瑠花に覆いかぶさっていた『なにか』たちを燃やし始めた。『なにか』たちの悲鳴があたりに響き渡る。


「神格解放、その名を火之迦具土神ひのかぐつちのかみ


 燃え盛る『なにか』たちの中から瑠花が現れ、伊邪那美が怯えるように後ずさる。瑠花の身体は炎を纏っており、身を焦がしながら、瑠花は伊邪那美を睨みつけた。


「ぶっ殺してやるよ」

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