最終話 ずっと一緒


 ホプキンス邸の玄関ホールはひっそりと静まり返っている。


 穏やかな日だった――……日差しはあたたかく、まどろむような午後のひと時。


 くまちゃんと並んで肖像画を見上げる。くまちゃんはぼんやりと佇み、絵を眺めながら、右手の親指のあたりを反対の手で引っ張っていた。


 エリシャから「くまは君の弟グレッグの生まれ変わりでは?」と言われたのは、先日のことである。


 セレステは穏やかな瞳でくまちゃんを見おろした。視線を感じたのか、くまちゃんの茶色い瞳がこちらを向く。


「くまちゃん……手が反対だよ」


 セレステの言葉は愛に満ちていて、相手を咎めるような響きはなかった。


 くまちゃんは純粋な瞳でセレステを見上げて答えた。


「お、そうか? でも、絵のとおりだぞ」


 絵を見て、手元を見て、絵を見て――を繰り返した末に、くまちゃんは不思議そうに小首を傾げる。


 弟(グレッグ)といる時、立ち位置はいつもセレステが左、弟が右だった。


 弟は左手をセレステと繋ぎ、窮屈そうに繋いだほうの手の親指を突き出して、反対の手で摘まむのが常だった――目の前の絵もそうなっている。


「あなたはこの絵を眺めて練習したのね。だから左右が反転している」


 セレステが指摘すると、くまちゃんが「おお!」と目を見開いた。


 なるほどー、と自身を百八十度反転させ、「右手ぇ、左手ぇ……」と、背後に飾られた絵をチラチラ振り返りながら、やっと合点がいったようである。


「あなたは私の弟じゃないでしょう? どうして真似をしているの?」


「それはな、セレステ――お前がグレッグのことを恋しがって、会いたいって言ったからだ。俺がグレッグみたいになれば、セレステが喜ぶと思ったんだ!」


 くまちゃんは手柄を自慢するようにそう言った。瞳はキラキラと輝き、そこには相手を騙してやろうという悪意は微塵もない。


 弟の部屋に入って、馬の刺繍が入ったハンカチをこっそり持ち出したりもしていたみたい……。


 セレステは胸が切なくなり、瞼がじんと熱くなった。


 セレステを喜ばそうと……一生懸命グレッグらしくなれるように、練習したのだろう。


 そういったなりすましは、道徳的な観点でいえば良くない行為だろう。


 けれどセレステは嬉しかった。くまちゃんの献身に泣きそうになる。


「くまちゃん、もうグレッグの真似はしなくていいのよ」


「そうなのか? でも……セレステはグレッグが好きだろう?」


 セレステは床に跪き、くまちゃんに向き合った。モコモコのお手々を取り、握り締めて、心を込めて伝える。


「グレッグは私にとって大切な存在で、ずっと心の中にいる……それはほかの誰であっても代わりになれない。グレッグは、グレッグだから」


「そうか……残念だ」


 くまちゃんが困ったようにしゅんとする。


「でもね、そう思えるようになったのは――代わりはいらないって気づけたのは、くまちゃんのおかげだよ。くまちゃんは私にできた初めての友達で、グレッグと同じくらい大事なの――大好きだよ、くまちゃん」


「セレステ」


 くまちゃんが嬉しそうに口をカパッと開ける。それはどこか人間めいた笑顔なのに、ピンクの舌がちょっとはみ出ているさまは、やっぱり可愛いくまちゃんなのだった。


「俺も大好きだぞ、セレステ」


「私、あなたが生きていた時のこと、覚えているよ」


「本当か? セレステはあの時、十二、三歳だったかな?」


「うん……うん、そうだよ」


「セレステはお母さんが病気で、死にそうだって、湖のそばで泣いていたな」


「うん」


 涙がこぼれる。


 看病、看病の毎日だった……母の容体は明日どうなるかも分からなくて、ずっと不安で。幼い弟も段々と体調を崩しがちになっていた、あの頃。


 あの朝は神様の気まぐれか、珍しく母の顔色が良かった。


「こってりした味つけの、美味しいものが食べたいわ」


 母がそう言うので、セレステは張り切ってラザニアを作った。けれど出来上がる頃には母の熱がぶり返してしまい、話も満足にできない状態に戻ってしまった。


 茫然とするセレステを父が見かねて、自分が妻と息子についているから、少し遊んで来なさいと外に出された。


 セレステはラザニアを入れたカゴをさげて、歩き始めた。一心に歩いた。


 やがて見晴らしの良い場所に出て、こんなところにこんなに美しい湖があったのかと驚いた。大きな木のウロの中に入り込んで、セレステは膝を抱えた。


 どのくらいそうしていただろう……喉が渇いたセレステは這うようにウロを出て、水辺に向かった。澄んだ水面を見つめ、手を浸してそれを口に運ぶ。しばらくそうしてからゆっくりと立ち上がった。


 振り返ると、ウロの中に小さな子ぐまが入り込んでいた。バスケットにかけられたチェックの布を鼻で押しのけ、ラザニアに口をつけている。セレステはびっくりしたけれど、くまを叱らなかった。


 のろのろとウロに戻り、子ぐまに話しかける。


「人間の食べものに慣れたらだめよ。人に近づきすぎると、撃たれてしまうから」


 くまちゃんはよく理解しているような顔で、じっとセレステを見つめ返してきた。そして少したってから顔を下げて、ふたたび皿を舐め始めた。


「うちってすごく貧乏なの。だけど……もしもの話ね? 将来、私がお金持ちの人と結婚できたら、それをたくさん作ってあげられるかも。そうしたらくまちゃん、うちの子になる?」


 ラザニアを食べ終わった可愛いくまちゃんは、人間みたいに隣に腰かけ、舌を少しだけはみ出させて、一心にセレステを見上げてきた。やがてくまちゃんは腰を上げ、よろけながら出て行った。


 セレステはくまちゃんがとても痩せていることに気づいた。


 親とはぐれちゃったのかな……お腹を空かせて、可哀想に。


 セレステは悲しくなってきて、くまのために泣いた。そのうちに、自身の身の上も悲しくなってきた。長いこと泣いて、泣くことにも飽きた頃、ウロを出て家に帰った。


 ――子ぐまは木立の中で丸くなっていた。


 あんなに美味しいものは初めて食べたなぁ……とくまは考えていた。


 あの子は良い子だな。ずっとひとりぼっちだったから、さっきの時間はすごく楽しかった。


 難しいことをたくさん言ってたな。音としては耳に入ってきたけれど、ほとんど理解できなかった。そのうちに……一生懸命人間の言葉を勉強したら、あの子の言ってたことが分かる日がくるかな。


 喉が渇いてきて水辺に近寄った。舌を浸して水を飲む。冷たくて、美味しい。


 ――不意に、ぐらりと視界が傾いた。


 栄養失調の小さな体は、ラザニアを食べたくらいでは、どうにも持ち直せなかったのだ。


 くまは冷たい湖に落っこちた。慌てた。手を動かして、バタバタ、バタバタ……上がどっちか分からない。泡がいっぱい立って、水と空気の境を、何度も行ったり、来たり。


 やがてその小さな体は沈み――透き通った水の中で、くまは美しい光を見た。


 ああ、もう怖くない――……光のほうに進むんだ。


 そうしたらきっと、優しいあの子にまた会えるはず。




   * * *




 気づけばくまは風になっていた。フワフワ、フワフワ、体が軽い。心も軽い。


 あの女の子のことがどうしても気になって、人間世界に近づいた。とても近づいた。


 何日も何日も、空に浮いていた。やがて人の喋っていることが理解できるようになった。特に料理について知るのが好きで、コックのそばに張りつくのがくまのお気に入りになった。


 そうするうちに、あの日食べたごちそうが『ラザーニャ』という名前であることが判明した。


 ラザーニャ。ラザーニャ。ラザーニャ!


 すごいぞ、ラザーニャっていうんだ! いつかまた食べるぞ! 絶対食べるぞ!


 くまは好奇心旺盛で、あちこち冷やかすように飛び回った。


 時折、彼女の家にも行って、暮らしぶりを眺めたこともあった。


「いつかミルナーに行きたい」


 そんなふうに彼女は病気の弟に話していて、妙に心に残った。


 そのうちに天界に移り、謎犬たちと楽しく暮らしていたのだが……。


 ――ある日、大いなる導き手により、くまは木のウロに戻された。


 あの子が呼んだからだ。くまは早速、彼女に会いに行った。友達になるためだ。


 そして上手くすれば――あの子が昔言っていたとおり、彼女をお金持ちと結婚させてやることができたなら、毎日あのラザーニャを食べさせてくれるかも。


 セレステはひとりぼっちだと泣いていた。


 もう悲しむなよ、セレステ、ずっとそばにいるからさ。


 ――ずっと、ずっと、一緒だぞ!




***


 モコモコくまちゃん、超絶美形な婚約者に傷つけられた地味令嬢を全力で応援する(終)





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